#13:第6日 (4) 手の鑑賞
【By オペラ
「やあ、ニュシャ、今日も来てくれたんだね」
劇場のリハーサル室へ入っていくと、振付師と主宰が迎えてくれた。挨拶を交わす。今日のリハーサルは始まったばかりと思うが、人数が昨日より少ない気がする。
「そうなんだよ。昨日のリハーサルの時に、デヴァイスを着けているのを見ただろう? あの時に取ったデータのフィードバックをやっているんだ。そら、向こうの方で」
そちらへ顔を向けるとリハーサル室の一部が衝立で仕切られていて、隙間からバレリーナたちが踊っているのが見えた。
「まあ、そうだったの」
「プリマ・ドンナがいないからつまらないかな?」
「いいえ、そんなこと思いませんわ。バレエは大好きですから、どのシーンを見ていても楽しいんです」
私も子供の頃はバレエを習っていた。少女たちや少年たちが踊っているのを見ると、昔を思い出す。踊るのはとても楽しかった。歌もピアノも楽しかった。
もし、身長さえ伸びなければ、歌よりもバレエを選んでいただろう。私の身体は発育がよすぎた。あるいは我慢が足りなかったせいかもしれない。
フィードバックは昼までかかるらしく、立ち会っている踊り子たちは午後にならないと戻って来ないそうだ。群舞は抜けたところを埋めずに踊っている。見慣れなくて逆に新鮮な感じがする。
ラヤーのフィードバックを見てみるかい、と振付師が言った。そういうのも新鮮かもしれない。見たいと言うと、振付師は衝立の向こうへ行ったが、しばらくして体格のいい男性を連れて戻ってきた。昨日も一昨日も見かけたような気がする。
「カリメーラ、パンナ・アントニーナ・エイヴァゾワ。オペラ歌手としてのご高名はかねがね伺っております。ディミトリオス・アンドロニコスです。以後お見知りおきを」
「初めまして、パン・アンドロニコス。ニュシャと呼ばれるのに慣れていますから、あなたもそうお呼び下さい」
「ありがとうございます」
振付師がパン・アンドロニコスのことを、
「まあ、あの有名な研究者団体の! じゃあ、ドクトルかプロフェソルでいらっしゃるのね。大変失礼しました」
「プロフェソルですが、肩書きなど付けず、ディーマと呼んで下さって結構です」
「ありがとうございます。質問をよろしいですか?」
「何なりと」
「デヴァイスを使ってデータを取るのは、
「ええ、ウクライナの研究所の成果です。私が仲介したのですよ。こちらのパン・ヴィルサラーゼと主宰のパンニ・チョチョシヴィリに快諾いただいたので、貴重なデータを取得することができました」
衝立の方へ行くと、ラヤーの他に数人の少女が踊っていた。部屋の端に長机があり、研究者とおぼしき人たちが3人座っていた。計算機のディスプレイがいくつも置いてある。プロフェソルが見せてくれたが、画面の中でマネキンがバレエを踊っていた。
「ベースは昨日のデータを加工したものです。そしてリアルタイムで取得しているデータと比較して、その差分を表示することができるのですよ」
位置的な差分と時間的な差分を同時に解析できるらしい。これを見れば、振付師はどのタイミングのどの仕草を修正すべきかを適切に指示し、踊り子は思ったとおりに修正できたかを一目で確認することができるだろう。
「将来的には
「とても素晴らしいですわ! バレエだけでなく、他のダンスや、色々なスポーツにも応用できそうですね」
「そのとおりです。実際にウクライナのプロ・スポーツ・プレイヤーや、大学のスポーツ・クラブと提携して、実地に応用しているのですよ」
「感心しました」
踊りが終わると、ラヤーが私のところへ駆け寄ってきた。
「こんにちは、ニュシャ! 今日も見に来て下さったんですね!」
「ごきげんよう、ラヤー。今日の調子はいかが? この装置は最後の仕上げに役立ちそうかしら」
「ええ、最初は何がどう役に立つのかさっぱり解りませんでしたけど、細かい修正を指示してもらうときにはとても解りやすくなりました」
「それは良かったわね」
「ただ、腰に着けるベルトが重いのは困りました。回転の時のバランスが悪くなりそうな気がして。これくらいの重量を食事制限で落とすのも大変なのに」
ちょっと不満があるようだが、ラヤーは微笑んでいた。そんなに重い物なのかと思って研究者に訊いてみると、1キログラムくらいあるらしい。それを腰に着けるのは確かに重そうに感じた。私の場合はそれくらいの体重の増減はしょっちゅうなので、気にしたことがないけれど。
「ケイティーはいないのかしら?」
「彼女は違う装置を使っているんです。
「まあ、そうだったの。同じような研究をしているところが二つもあるのね」
「彼女のことが気になりますか?」
ラヤーの目が少し険しくなった。彼女はケイティーと比較されると機嫌が悪くなる、と振付師は言っていた。共に競い合って切磋琢磨すればいいと思うのに、この年頃の競争心がそうさせるのだろうか。
「いいえ、彼女の姿が見えないから訊いてみたのよ。あなたのフィードバックはまだ続くのかしら?」
「はい、もう5曲ほど」
「じゃあ、それも見せてもらうわ」
しかし、1曲目が終わったところでプロフェソルから声をかけられた。劇場の中を一緒に見学しましょうと言う。ラヤーに断って部屋を出た。もしかしたら、私には見せられないデータがあったのかもしれない。
入口の大階段のところへ来た。壁の装飾や彫像、そして階段の手すりに施された彫刻が素晴らしい。プロフェソルは感嘆しながらそれらに見入っていたが、「あなたはこの劇場の中を一通りご覧になったことがありますか?」と訊いてきた。
「ええ、この日曜日の朝に見せてもらいました。けれど、もし建築学的な見地からお話を聞かせていただけるのであれば、ぜひ」
私がお願いすると、プロフェソルは慎み深く礼を言いながら、しかしとても楽しそうに建物の解説を始めた。日曜日に館長から話を聞いたときは、様式と特徴を教えてもらったが、プロフェソルはなぜこのような形状を採用したのか、建設当時に流行していた様式、どこの劇場に同じような物があるかなどを話す。とても詳しかった。
二つ上のフロアへ行く。こちらは天井が高く、窓から入る光のおかげで明るく広々としている。天井に近い壁には、男性の上半身の胸像がたくさん飾り付けてあった。
4階の観客席に入る。舞台がとても小さく見える。私は劇場の中を見学するとき、こうして一番上の席から舞台を見るのがとても好きだ。
私が歌うときは、この一番上まで声が届くように心がけているが、私に劇場の説明をしてくれる人は、決まって「舞台の上の囁き声でも、この一番上まで届くように設計されています」と言う。ここでも館長から言われた。プロフェソルに、なぜそうなるのか訊いてみた。
「劇場において音がどのように聞こえるかは、建築音響学という観点で色々と研究されています。しかし実際のところ、それが発展してきたのは20世紀の後半からなのです。合衆国のレオ・ベレネックという音響学者が世界の主なホールや劇場を調査し、分析したのが始まりです。この劇場ができたのは1887年ですが、その頃は経験的な知見に基づいて設計するだけでした。観客席を馬蹄形構造にし、天井の形を工夫することで残響を少なくすることができる、という程度なのです。ですから」
プロフェソルはたくましい両腕をせわしなく動かしながら話し、天井や舞台を指差していた。彼はどうしてこんなにも素晴らしい体格をしているのだろう。彼は自分の身体を
「ここでは、“囁き声でも……”という説明は、あまり信用なさらない方がよろしいでしょう。誇張に過ぎません。しかし、この実際に最上階でもよく聞こえるのは事実です。経験的な知見を、後に実験的に検証すると、結局正しかったということはよくあります。特に劇場は他の都市のよい劇場を参考にして設計することが多いですから、大きな外れはないのです」
「そういうことですか。納得しましたわ。ありがとうございます」
「どういたしまして」
それから下に降りて、オーケストラ・ピットを見て、舞台に上がった。日曜日にここで歌うことを、本当に楽しみにしている。しかしプロフェソルは「日曜日の午前中にはオデッサを発たなければなりません。あなたの舞台を見られなくて本当に残念です」と言った。
「日曜日の午前中に最後のリハーサルがありますが、それも見られそうにありませんか? とても残念ですわ」
「演目はチャイコフスキーの『スペードの女王』でしたね。オデッサに縁のあるプーシキンの小説が原作ですから、観客の皆さんもさぞお喜びになることでしょう。成功をお祈りしています」
「ありがとうございます」
「ところで、一つお願いがあるのですが、あなたの手を見せていただけますか? 私は芸術家にお会いすると、手を見たくなるのです」
「手を? ええ、どうぞ。でも私、手のお手入れをあまり考えたことがないので、観察されるととても恥ずかしいですわ」
プロフェソルは私の掌と甲だけでなく、肘の辺りまで丹念に見て、「ありがとうございます」と言った。
「手入れをされていないとおっしゃいましたが、肌がとても綺麗でいらっしゃる。素晴らしく美しい手だと思いますよ」
「そんなに褒めていただけるなんて思ってもみませんでした」
それからリハーサル室に戻った。ラヤーもケイティーもまだ戻ってきていなかった。ケイティーはどうしているのか少し気になったが、私が見に行くと気を散らすかもしれないと思い、振付師や主宰にも聞かなかった。
彼女のダンスはとても美しく、実力はラヤーよりもあると思えるのに、昨日まではなぜか精彩を欠いているように見えた。きっと何か心を悩ませていることがあるのだろう。今日のフィードバックで少しでもその力を取り戻してくれればいいけれど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます