#13:第6日 (3) リスト・バンドの秘密

「アーティー、一つ訊いてもいい?」

 ボールを投げているときからずっとおとなしかったユーリヤが言った。ためらいを隠すかのような笑顔というのが、どうも似合っていない。

「何か?」

「あたしのトレーニングに協力してくれるのは、どういう理由からなの? あたしのこと、そんなによく知ってくれてるわけじゃないんでしょ?」

 いや、君どころか、シモナのことだってよく知らないんだけどね。キー・パーソンだからっていうのが最大の理由だけど、シモナの場合は彼女の望みを叶えてやると素直に喜んでくれて、しかしおかしな優越感を持ったりしないところかなあ。

 で、ユーリヤの場合はどうかというと、俺もよく把握してないんだが。

「君の場合はトレーニングを見せたり見せられたりで、たいしたことをしてないからな。時間も短いし」

「もっと長い時間トレーニングに付き合ってってお願いするのは?」

「それは内容による」

「じゃあ、まず聞くだけでも聞いてくれる?」

「朝食を摂りながらでいいか?」

「ええ、もちろん」

 シャワーを浴びて着替えてレストランに行く。ユーリヤの方が遅くなるに決まっているのだが、構わず先に食べる。一緒に食べていても、どうせ俺の方が先に終わる。シリアルとバナナとオレンジ・ジュース。

 ほとんど食べ終わりかけたときにユーリヤが来た。ライト・グリーンのポロ・シャツにベージュのハーフ・レギンス。レギンスは昨日と同じだと思うんだが。

「あら、もう終わり? でも、あたしが食べ終わるの待っててくれるんでしょう?」

「もちろん」

 ユーリヤの食事が運ばれてきたが、あらかじめ注文してあったものと思われる。焼きたてのトーストに軽くオリーヴ・オイルをかけたもの、脂身を減らしたハム、オレンジ・ジュース。栄養士の決めたメニュー? なるほど。

「あなたにはないの?」

「俺は現役のプレイヤーじゃないからな」

 少なくともこの仮想世界ではそうなっている。

「あら、そうだったの。それなのに、トレーニングは続けてるのね」

「習慣でね。しないとすぐに太る」

「運動量が多かったのね。フットボールって、ゲーム中にどれくらい走るの?」

「ポジションによる。俺はQBクォーターバックだからほとんど走らない」

「ボールを投げるだけ?」

「だけではないが、ほとんどそうだと言っても大きな間違いではない」

「じゃあ、どうしてランニングをしてるの? 脚力のトレーニングでしょう?」

「立ち止まったまま投げられるわけではないから、とっさの時にけるためと、身体をガードするためだ」

「ガードって?」

「相手にヒットされたときに怪我しないためだ。アーマーみたいなものだな」

 全身を適切な量の筋肉で覆っておけば、怪我をする確率が小さくなる。

 もちろんそれだけではなくて、タックルされたときの“うまい倒され方”も知っておかなければならない。肩から変な角度で倒れると鎖骨を折るし、足を変に捻られると前十字靱帯を断裂する。

 万全の体制の時にばかり投げられるはずもないから、バランスを崩したときを想定した練習もする。腰にロープを巻いて、引っ張られながら投げて、その後、倒れる練習も……

「テニスはそんなことないだろ」

「そうね、どちらかというとスピード重視かしら」

「そうするとランニングバックやレシーヴァーのドリルが役に立つ可能性がある」

「何のこと?」

 ランニングバックはボールを持って走る。レシーヴァーは走っていってボールを捕る。いずれも機敏性アジリティーを鍛えるドリルが存在する。俺はどっちのポジションもやったことがあるから全部知っている。

「フットボールのドリルが、テニスに役立つかどうかは判らんがね」

「でも、興味があるわ。後で基本的なことだけ教えて。それと、ラケットでボールを打つ動きに似たものはフットボールにないのかしら」

「ないと思うね」

「あなたがボールを投げるときの動きって、テニスのサーヴの練習の参考にならないかしら」

「腕の振りがかなり違っていそうだがなあ」

「それでもいいわ。あなたが知ってるだけ教えてよ。本当は違うことをお願いしたかったけど、そっちに変えるわ」

「今日は打ち合いの練習はやらないのか」

「言ったでしょ、パートナーが辞めたって」

 新しいのを雇えばいいのに。

 朝食の後はいったん休憩……のはずなのだが、ユーリヤの部屋に誘われてしまった。デラックス・ルームか。もちろん、俺の部屋よりは狭いけど、これくらいの方がいいなあ。ベッドはダブルだし。

 いや、どうしてシーツの上に脱いだトレーニング・ウェアや下着が放ってあるんだよ。片付けてくれ。それで、ここで何を……ヴィデオを見てイメージ・トレーニング? なぜ俺がそれに付き合うんだ。

「そうじゃなくて、これを見て欲しかったの。筋力トレーニングのメニュー。ある人に作ってもらったんだけど、あなたから見ても効果のあるものなのか、感想が聞きたくて」

 紙を渡された。

「君のために作ったメニューなら、俺が見ても効果があるかどうか判らんぞ」

「そうかもしれないけど、とにかく見て」

「読めない」

「え? ああ、しまった。ブルガリア語だったわ。どうしようかしら。やっぱり後でいいわ。訳しながら説明するから」

 それなのに、どうしてソファーで隣に座ってヴィデオを見なければならんのだ。君もたぶんキー・パーソンなんだろうけど、何の情報を引き出せばいいんだ? こっちから情報を与えるばかりじゃないか。

 ヴィデオに没頭してるぞ。俺のこと完全無視だな。身体を動かさないのか。俺は見てるときに身体が勝手に動くけどなあ。

 しかし、何か不自然だ。何だろう。んん、どうしてリスト・バンドをしてるんだ? トレーニング中というわけでもないのに。まさか、おしゃれというつもりじゃあるまい。

 もしかして、昨日俺が言ったことを実行している? あのリスト・バンドの下に呪文スペルが書いてあるとか。後で聞いてみるか。ヴィデオが終わった。

「じゃあ、5分後にジムでね」

 5分後か、早いな。こら、着替え始めるな。ユーリヤの部屋を出て、自分の部屋に戻る。電話機のランプが点滅している。メッセージか。

ミスパンナ・イリーナ・メンチェンコから、10時にオペラ・バレエ劇場へお越し下さいと。計測の件とお伝えすればお判りになるとのことでした」

 そういえばバレエ団から取ったデータのフィードバックがあるんだった。あと1時間か。筋力トレーニングのメニューの件とアジリティー・ドリルの件があるが、ギリギリかな。

 着替えてジムへ行く。ユーリヤは既に来ていた。朝と色違いのタンク・トップに……下着を着けてないな。なぜだ。なるべく気にしないでおこう。

「じゃあ、メニューを実際にやりながら説明するわ。まず腹斜筋のトレーニングは……」

 そこを意識的に鍛えることはないな。身体を捻る動きはいろんなドリルの中に分散しているだろう。それから広背筋。懸垂で鍛えるんだろ。他のポジションのドリルでもほとんどないんじゃないかなあ。それから……

「ところで、このメニューは誰に作ってもらったんだ。S&Cトレーナー?」

「いいえ、ディーマ・アンドロニコスって人。評議会ザ・カンファレンスの建築家なんだけど、自分も身体を鍛えてるからトレーニングに詳しいんだって。火曜日だったかしら、ここへ来たの。でも、それ以降来ないわね」

 評議会ザ・カンファレンスか。シモナに続いて2度目の競合だな。とすると、そのディーマ・アンドロニコスって奴はやはり競争者コンテスタントか。

「火曜日に君と一緒にいた、筋肉質の男?」

「そうよ」

「何のアスリートなんだろう」

「さあ、聞かなかったわ。もしかしたら、ボディー・ビルダーかも。それがどうかした?」

「いや、別に。このメニューは有効だと思うよ。個々の筋肉を鍛える意味ではね」

「気になる言い方ね。別のもっといいドリルを知ってるの?」

「そういうわけじゃない。特定の筋肉を鍛えるメニューと、スポーツの動きの中で鍛えるメニューは、両方やる方が効果的だからな」

「ああ、そういうこと。よかったわ。じゃあ、次はあなたのドリルを教えて」

 テニス・コートへ出る。3ヤードから5ヤード間隔で目印のコーンを置いて、その間を走ったりするのだが、目印はどうすればいいかな。コートのラインが目安にならないか。とりあえず歩測から。

 むむ、サイド・ラインからセンター・ラインまでの距離がぴったり4.5ヤード。そうなのか?

「そうよ。アレーの幅は1.5ヤードだし、ベース・ラインからサーヴィス・ラインまでは6ヤードで、サーヴィス・ラインからネットまでが7ヤード」

 初めて知った。テニスのコートってヤードで切られてたんだな。しかし、ちょうどいいや。何もないより目印が置きやすい。

 テニスは横の動きがきっと重要と思うので、プロ・アジリティー・シャトル、スタッガード・シャトル、ラン・シャッフル・ラン、ラン・シャッフル・シャッフル・ランの四つを教えておく。腰を捻る動きが入っているし、テニスに向いているはずだ。ラケットを持ったままやればより効果的だろう。

「申し訳ないが、10時に約束があるのでもう行かなきゃならない」

「いいわ、後は一人でやるから。ラリーの相手をしてくれる人が誰もいないけど、それも何とかする。後は、夜にね」

 夜に俺とトレーニングするのは、もはや規定事項なのか。

「ところで、リスト・バンドの下に呪文スペルは書いたか?」

「えっ? ……まだだけど」

 まだ書いてないのに、どうして左手を隠すんだよ。それとも、あのリスト・バンドに何か秘密があるのか? もしかしてそれがターゲットのヒント? 夜のトレーニングの時に何とかして確かめるか。

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