#13:第5日 (6) ハンナの記憶
帰るために腰を浮かしかけたのに、またソファーに座ってマリヤの話を聞くことになってしまった。
「私は小さい頃から、そばに常に誰かがいるような気がしていました。頭の中で私に話しかけて来るように感じたこともありましたし、夢の中で私自身とそっくりな女の子と遊んだことが何度もありました。ただ私、それをちっとも不思議に感じていなくて、他の人も同じような体験をしているものだと思っていたのです。でも、あるときティーラに訊いたらそんなことはないと言いますし、他の人も同じ答えでした。それで両親にその話をしたら、初めてハンナのことを話してくれたのです。私は、ずっとそばにいると感じていたのはハンナだったのか、と思い至ったのです。でも、ちょうどその頃から、ハンナのことを感じなくなってしまったのは、とても残念でしたけれど」
ほう、それは面白い。頭の中に別人格があるかのようだな。しかし、仮想世界の中の逸話として適切なのだろうか。
それはさておき、本当はハンナがいる現実世界から、ハンナを消してこの仮想世界を作った、ということは考えられないだろうか。もちろん、時代はずらしてあるだろう。
だとすると、
「君とティーラは容姿がよく似ていて共に美人だが、少し運命が違えばもう一人そっくりな美人がいたということか。そしてその彼女も何か芸術的な才能を持ち合わせていたんだろうな」
「いいえ、きっととても頭が良くて、学究でその才を発揮していたと思いますわ。ハンナをそばに感じていた頃は、そんな気がしていたんです。キエフ大学かどうかは判りませんが、若くして准教授を務めることもできたでしょうね」
「そうか。最後に興味深い話が聞けたな。今日は昼食に呼んでもらってどうもありがとう」
「いいえ、たくさんお話ができてとても楽しかったです。できれば明日も……明日はご夕食をいかがですか?」
エステルが嬉しそうな声で言う。また誘われた。仕方ないな。それに、ターゲットの話がまだ何も聞けてない。真珠とかそういう話に行きそうな気配が全くないんだけど。いや、俺がしないといけないのか。
明日は金曜日。ナターシャが一緒にリヴィウへ行こうと言ってた。彼女は
「ありがとう。明日の夜も特に用はないから、来られるだろう。しかし、女性二人しかいない家に夜遅く訪問してもいいものかな」
「あら、そんなお気遣いをいただかなくても。それに、明日はもう一人誘いますから、合衆国で言うところのホーム・パーティーのような感じになると思いますわ。とても小規模ですが」
マリヤが言ったが、エステルが少し驚いた顔をしている。もう一人来るって本当なのか? 今作った話じゃないだろうな。
「誰を誘う予定?」
「それは明日いらっしゃったら紹介しますわ」
そんな気を持たせなくても。まあ、好きにしてくれていいけどね。別れの言葉を告げて家を出た。
【By ピアニスト】
パン・ナイト、いいえ、今日からはアーティーと呼んでいいんだわ。そのアーティーが帰って行った。
いつの間にか5時間も経っていたなんて、あっという間に感じたけれど、なんと楽しい時間だったろう。彼を見て、彼と話をしていると、お慕いする気持ちがどんどん大きくなっていくのが自分で判る。
こんな気持ちになっていいのだろうか。これは、私が知ることを恐れていた感情ではないのだろうか。この先に何があるのだろうか。
「マルーシャ、明日はアーティーの他に誰もお誘いすることにしていなかったのに、どうしてあんなことを?」
ダイニングへ戻りながら訊いてみた。
「彼のおっしゃったとおり、夕食にお誘いするのは早過ぎたのよ。もう一人お誘いすると言えば、安心してお越しいただけると思って」
彼を夕食にお誘いしようと言ったのはマルーシャなので、軽率だったことを反省して次善の策を採ってくれたのだろう。私もうっかりしていた。彼とは昨日初めてお会いしたばかりなのだ。
それに、マルーシャがここに滞在しているので、彼女を付け狙うパパラッツィも見張っている。つまらないゴシップはマルーシャだけでなく、彼にも迷惑になってしまう。
「でも、誰を? もう一人呼ぶのなら、男性かしら。けれど、ここには気軽に呼べる男性の知り合いはいないし……」
「いいえ、女性にしましょう。ニュシャがいいわ。彼女もそろそろ退屈している頃でしょうし、アーティーとは顔見知りのはずよ。パートナーとして一緒に来ることにしてもらえば自然だわ」
パートナーという言葉が出たときに、私の心がキリキリと痛んだ。この気持ちは何だろう? アーティーとニュシャが一緒にいるところを想像してみる。アーティーは決してハンサムな方ではないけれど、
マルーシャが電話を架け終わって言った。
「ニュシャは楽しみにしていると言っていたわ。ティーラ、安心して。彼女もあなたの気持ちは解ってくれているから。さあ、ランジェロン・ホテルへ行く準備をしましょう」
今夜はミニ・コンサートが終わった後に、支配人や著名人たちとディナーを摂ることになっている。マルーシャが付いて来てくれるから、心配はしていないけれど。
【By 主人公】
「ハイ、アーティー!」
昨日と同じ時間にシェフチェンコ公園を通ったら、昨日と同じようにシモナに会った。嬉しそうな顔をしているから、いいことがあったのだろう。
「ヘイ、シモナ。君は夕方にも毎日走ってるのか」
「ううん、昨日と今日だけだよ。でも、今日も走ってたらあなたに会えるかなあって思って」
「何か用があったのか」
「うん、今日はね、
なぜそんなことを俺に教えに来るのか解らないが、他にいい話し相手がいないのかもしれない。
「
「世界的に有名な研究者の団体だよ。知らないの?」
財団だけかと思ったら、そんな組織もあるのか。それに所属していることになっている
「知らなかったな。まあ、世の中にはいろんな研究団体があるから」
「うん、そうだよね。それで、今日の午後から研究所へ行ったんだよ。あたしたち全員じゃなくてね、ルーマニアのクラブはあたしとラリサで、ウクライナのクラブからは名前忘れちゃったけど4人」
街中から車で南の方へ連れて行かれて、ホテルのように立派な建物で、その横にオリンピックが開催できそうな立派な体育館があって? 財団とずいぶん差が付けられてるなあ。
綺麗な更衣室で着替えて――いや、着替えるのは判ってるからいちいちそんなことまで説明しなくていいんだよ――、デヴァイスを手首と足首に着けて運動をした。
「それはどんな形のデヴァイスだった?」
「ゴム製のリスト・バンドみたいなので、中に金属製のコイルみたいなのが入ってるって言ってたよ。足首に着けるのも同じ。でね、本当は左手首と右足首に着けるんだけど、あたしは右足首は嫌だったから、どっちも逆に着けることにしてもらったの」
「どうして右足首が嫌なんだ」
シモナのソックスは左右で長さが違っているが、右の方が長いのはもしかして右足首を隠すためなのかもしれない。
「それは秘密! それで、着けていろんな体操の演技をしたの。データはワイヤレスで取るんだけど、10メートルくらいしか電波が届かないから、器具を移動するたびに、研究者の人たちがたくさんのコンピューターを持って、ぞろぞろ付いて来るんだよ」
器具というのは体操の跳馬や平均台のことだろう。それはともかく、デヴァイスの形状が少し違うだけで、できることは財団のとほとんど同じなんじゃないかという気がしてきた。
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