ステージ#13:第5日
#13:第5日 (1) 適度な距離
第5日 2007年7月5日(木)
【By ピアニスト】
何と気持ちの良い目覚めだろう!
こんなにすっきりした気分で目覚めたことは、長らくなかった。眠りに落ちたのも、ベッドに入った瞬間だった。ホテルでの演奏会が終わった直後は少し気が高ぶっていて、帰ってからもなかなか治まらなかったのに。
演奏会でも集中して弾くことができた。今週中で一番の出来だったと思うし、拍手も多かった。パン・ナイトが見ていて下さったからだろうか?
集まった聴衆の中に彼を見つけたときは、いつもよりも緊張した。それなのに、演奏が始まると自分の世界に入ることができた。
見守ってくれる人がいるということは、何と安心感のあることだろう! そしてそれは父母や姉が見ていてくれたときとも違った。初めて浸る安心感だったような気がする。
ただ一つ気になったのは、彼の横にいた愛らしい女性のこと。彼女は誰なのだろうか。彼の恋人なのかもしれない。あんなに幸せそうな顔をしていたもの。
いいえ、恋人であっても構わない。私は彼を独占したいとは思わない。ただ彼が私の存在を知ってくれたというだけで、私を見てくれるというだけでいい。
そしてできることなら、私が演奏を終えた後に、一言でも賛辞をいただければ。それが私にとっての最高の癒やしとなるだろう。
それ以上に癒やしは必要ないだろうか。散歩に、そして海を見に行く必要はないだろうか。いいえ、今朝も行くことにしよう。散歩は私の習慣でありリズムである。そして海を見ることも。
遠くまで行く必要はない。階段の上へ行くだけでいい。彼を見た場所、そして彼と出会った場所。それが新たな癒やしとなるだろう。
ポルタヴァへ帰ったらどうしようか? ヴォルスクラ川を見に行こう。ヴォルスクラ川は南へ流れ、ドニエプル川へ合流する。ドニエプル川はさらに南へ流れ、黒海に注ぐ。そう、ヴォルスクラ川は黒海とつながっている。だから私はオデッサと、いつもつながっているのだ。彼との出会いの地であるこのオデッサと。
もし彼がポルタヴァへ来てくれたなら? 私は常に彼とつながっている気持ちになるだろうか。私の安心感が増すだろうか。
いいえ、そのつながりは強すぎる。もっと適度な距離があるに違いない。今くらいの距離がいいだろう。休暇が終われば、彼はフロリダへと帰る。来年もこのオデッサへ来るとは限らないだろう。数年に一度くらいは来てくれるかもしれない。でも、それくらいでいい。
もしどうしても会いたくなれば、私がフロリダへ行けばいい。あるいは私の世界がもっと広がれば、会う機会が少しは増えるだろう。一年に一度、会えるかどうか。それくらいの距離が一番いい……
【By 主人公】
予定どおり、6時に起きた。どうでもいいことだが、今日は俺の誕生日だ。ただ、それがどうしたのかと考えて、逆にむなしくなる。何しろ、本来はまだ生まれる前だからな。パスポートを見れば生年が書いてあって、何歳になったのかが解るが、だからどうだってんだ。
だいたい、誕生日が合衆国の独立記念日の翌日ってのが嫌だよな。前日に祝賀ムードが盛り上がりすぎて、たった一日後なのにトゥー・レイトって感じがするし。
唯一のいいところは、過度な愛国心に染まらないってことくらいか。何であれ、極端は良くないよ。近すぎもせず、遠すぎもせず、適度な距離ってものが存在するんだ。
さて、着替えてビーチに出る。シモナは約束どおり来ていた。おや、その横にコニーが。何となく仲良く見えるけど、どうしたのかな。身長が1フィートくらい違う。いや、そこまで違わないか。9インチか10インチか。
「おはよう、コニー、シモナ」
シモナは元気いっぱいに「おはよう、アーティー!」と叫んだが、コニーは穏やかに微笑んで「おはよう」と言っただけだった。
「二人は以前から知り合い?」
「会ったのは初めてだけど、シモナはジュニアで有名な競技者だから以前から知ってたわ。私は子供の頃に少しだけ体操を習ったことがあるから、今でもよく見てるのよ」
「あたしもミス・コニー・イサクのこと知ってた! だって最近すごく有名だもの。彼女のファッションの真似をしてる友達がたくさんいるよ。帰ったらみんなに自慢するの!」
うん、みんな知り合いでも驚かないことにしてたよ。モルドヴァは、ずっと以前はルーマニアの一部だったから結びつきが強い? なるほど、なかなか説得力のある理由が付けられてるじゃないか。
「走ろうよ! あれ、それ何持ってるの?」
「アメリカン・フットボールのボールだ」
「ラグビーのボールみたい。もっと小さいかな。それ持って走るの?」
「投げる練習もする」
「ラグビーみたいにパスするの? 横にトス!って」
「いや、前に投げる」
「どれくらい?」
「アーティー、投げて見せてあげたら? 私も昨日見てないからもう一度見たいわ」
見世物じゃないっての。そりゃ、プロ・フットボールなら見世物には違いないけどな。それでも、ただじゃないし。
50ヤード向こうを見ていろと言い、「50ヤードって何メートル?」というシモナの言葉を無視して投げる。
「ウワォゥ!
シモナがジャンプしながら叫び、ボールの落ちた地点へ走って行く。犬か。でも、そういうことをするんじゃないかと思ってた。「走ってくる」とコニーに言い、返事代わりの笑顔をもらってから走り出す。
シモナはいち早くボールを拾い上げ、両手で持ったまま大きく振りかぶって投げ返してきた。が、5ヤードも飛ばない。そうなると思ってた。
ボールを拾い上げてシモナのところへ行くと、「重いよ! こんなの、投げられない。どうしてあんなに遠くまで投げられるの?」と訊いてきた。
「
「比べて!」
右手を出すと、シモナが左手を合わせてくる。俺の中指の第二関節くらいまでしかない。
「やっぱり男の人の手は大きいね!」
「君は鉄棒が掴めればそれでいいんだろ」
「鉄棒じゃなくて段違い平行棒だよ。鉄棒は男子だけなの」
「とにかくその太さが掴めればいいじゃないか。よし、走るぞ」
「わあっ、待ってよ!」
いきなりダッシュするとシモナが必死で追いかけてくる。少しスピードを落として、しばらく一緒に走る。向こうからアスリート女が来た。なぜそんなに俺のことを睨む。
半マイルほど走るとシモナがへこたれたらしく、スピードが落ちてきた。最初からの約束なので、構わず置いていく。
もう半マイル走り、折り返すと200ヤードほど差が付いていた。しかし、すれ違う直前にシモナが身を翻して俺と同じ方向に駆け出す。ずるい奴。とはいえ、距離がノルマでもないし、俺の走る姿を見ることが目的らしいから、責めないでおく。
まただんだんと差が付いていくが、折り返すとすれ違いのところでまたシモナが方向転換する。
結局、俺は3往復したが、シモナが走った距離はその4分の3くらいだろう。アスリート女は俺と同じくらい走っていたようだが、常に睨まれている気がした。
「結局、ボール投げなかったね」
ヘトヘトになってるわりに相変わらずの笑顔でシモナが言う。体操競技って演技中の表情は関係ないんじゃなかったっけ。
「今から投げる」
「見たい!」
「朝食に戻らなくていいのか?」
「あと30分は大丈夫!」
この前と同じように、25ヤード先に投げる。シモナが走って行こうとすると、コニーが呼び止める。
「こっちにいた方が面白いものが見られるわ」
「何?」
シモナが飛ぶように戻ってくる。その間に、コニーに25セント硬貨を渡す。
「アーティーがこれを狙うの」
「どこから?」
「あのボールのところからよ」
そのボールのところへ走って行く。拾い上げて、コニーとシモナが
「惜しい!」
シモナが大声をあげる。うん、外れたのは判ってる。二人のところへ行くと、シモナが「あとこれだけだったよ」と言って両手を5インチくらい広げて見せる。そんなに外れてるのか。
さらに何度か投げたが、結局、それよりは縮まらなかった。
「早く調子が戻って、当たるところが見てみたいなー。また明日も一緒に走りに来ていい?」
「いいけど、明日は公園に走りに行くかもしれん」
「ボール投げるの見たいからビーチにしようよ」
「君の都合でトレーニング内容を決めるわけじゃないんだぜ。まあ、どこを走るかは明日の朝決めることにするよ」
「じゃあ、明日もまた同じ時間に来るね。チャオ!」
シモナが帰って行った。「ずいぶん懐かれてるのね」とコニーが言う。
「理由不明だがね。たぶん、誰にでもああして愛想がいいんだろう。しかし、一緒に走りたいとか言う
「走る姿がどうとか言ってたわね。それはともかく、あなたが投げる姿はやっぱり美しいわわ。一昨日より少し良くなってるように見えるし」
1インチくらいは補正できたからな。トレーニングの効果かもしれん。しかし、
「ところで、一緒に朝食はどう?」
「ありがとう、でも、他の人と約束があるの。明日ならいいわ。ところで、土曜日の件は決めてくれた?」
そういえばバレエに誘えと言われていたような。ああ、そうか、昨日見に行ったリハーサルの、本番だな。
「もう1日考えさせてくれ」
「いいわよ」
ホテルまで一緒に戻って、レストランの前で別れた。シャワーを浴びて、朝食へ行くか、それともジムでトレーニングを続けるか。いや、昨日調査しようと思っていたところへ全く行けなかったんで、今日は調査だよな。じゃあ、朝食だ。
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