#12:第1日 (8) 最後にドルチェを
アロイスは時計を見た。10時半。セベトの噴水の近くに車を停めて、もう3時間にもなる。目的の女は、ポジッリポ通りの有名なリストランテに入ったままだった。
女が一人で食事に入ったのに、なぜこんなに時間がかかるのか。店の前で張り番をしているアントニーを、モバイルフォンの近距離通信で呼び出す。
「まだ出てこないよ。というか、ようやくドルチェを食べているところだ。しかも6種類全部頼んだんだと」
アントニーはため息をつきながら言った。
通常どおり、
「本当にずっと一人なのか? 誰かと待ち合わせをしている様子はないんだな?」
「ない。さっきも言ったとおりだ」
見張りを始めたとき、アントニーが抱き込んだ
「アントニーも声をかけてみればいいんじゃないの」
リクライニングにした運転席で伸びをしながら、アルビナが言った。「嫌だ」と即座にアントニーから返事。
彼は情報収集のためにナポリ市内で暗躍しているのだが、“SNSで話題になっている
尾行を始めてから、何人もの男に声をかけられていたが、「30分ほどで数え切れなくなって、どうでもよくなってやめた」。声をかけてみろとアロイスが指示し、カポディモンテ美術館へ行ったときにアントニーはさりげなく話しかけてみたのだが、「一目もくれずに撥ね付けられた」。
「自分が目的とする人間以外、目に入ってないみたいだ。男も女も関係なしに」
それが、尾行の結果から引き出したアントニーの結論だった。ちらりとも見てもらえなかったことで、いささかプライドを傷つけられたらしい。
ともかく、女はその後、美術館で6時半まで過ごし――展示室とカフェテリアを2往復したらしいのだが――、そこからバス、地下鉄、
どうやら女はナポリに何度か来たことがあって、主な通りや交通機関、ランドマークなどに精通しているらしい。「道も訊かず、迷っている様子もなかった」と、アントニーの報告にもある。
「そろそろ終わりそうか。もう閉店時間だろう?」
「今、食後酒にリモンチェッロを飲んでいる。後で料理人に会いたいと言っているそうだ。何人の料理人と会うつもりなのか知らないが、一人で3人前くらいを、ソースの一滴も残さずに食い尽くしたそうだから、作った奴らも感涙にむせんでるだろうな」
アントニーはもはや無心の境地に達しているらしい。見張り役を務めた
目的の女が店から出てきたのは、ちょうど11時になったところだった。他の客が帰って、彼女が最後だったようだ。
「そっちへ向かった」
アントニーから連絡が入った。女は東へ、つまりアロイスたちが待っている、セベトの噴水の方へ歩き始めたということだ。もちろん、ナポリの中心部へ向かうのだから、こちらの方へ歩き出すのは、自然と言えば自然。
「タクシーか、あるいは迎えの車に乗る様子は?」
「支配人が、タクシーを呼ぼうかと言ったら断ったそうだ。歩道の方……海側に停まっている車はないが、反対側の方の車にも注意しておく。しかし、女は車道の方へ全く目もくれずに歩いてる。昼間より、歩く速さが少し遅いのが気になるが……」
不用心きわまりない、とアントニーは言いたいのだろう。女は今夜、エクセルシオールに宿を取っている。そこまでならタクシーで帰るのが普通のはずだ。
海岸通りの景色を眺めたい、ということかもしれないが、今夜は月も出ていないし、ナポリ湾の対岸の灯りが少し見える程度。
それに夜景であれば、ホテルからいくらでも眺められるではないか。エクセルシオールはナポリ湾に突き出した小さな岬の突端に立っている高級ホテルだ。そんなホテルの部屋が、この時期に空いていたなんてとても信じられない、というのはまた別の話だが。
「
「判った。アルビナ、道の反対側にいてくれ」
「了解」
アルビナが車を降り、通りの反対側の歩道に立った。アロイスも車を降りた。アントニーは女の後ろを、アロイスは女の前を塞ぐ。道を横切って逃げようとしても、アルビナが待ち構えている、という仕掛けだ。
もちろん、女に暴力を振るうつもりはない。丁寧に話しかけ、相談がしたいと言って、ホテルまで送っていく予定。そこには教授が待っている。女がタクシーでホテルまで帰ることになっても、先回りしてホテルで待っているつもりだった。
女の足音が近付いてくる。ヒールの高い靴のようだから、走って逃げられないだろう。ポジッリポ通りの海側はこの辺りだけ歩道がないが、フランチェスコ・カラッチョーロ通りに入ると海側が開けて、歩道が復活する。セベトの噴水はそこにある。
車道の端を歩いていた女が、歩道に足を踏み入れる。そのすぐ近くにある街灯の下で、アロイスは女に声をかけた。
「
他の100以上もの誘い文句は、全て撥ね付けられたことが判っている。だがアロイスたちは、彼女が准教授であることを知っている。それを彼女に知らせれば、他の男どもとは別の目的を持って近付いてきたことに気付くだろう。こちらの話を聞く聞かないは別として。
女は立ち止まった。なるほど、ウェブで流布していた写真どおり、特別誂えの美形だ、とアロイスは納得。生の顔には、写真では捉えきれない美が溢れている。暗い歩道で彼女の立っている辺りだけ、ほのかに月明かりが射しているかのようだ。
「ナポリの美食は来るたびに私を満足させてくれます。何度来ても素晴らしい街だと思いますわ」
「結構。エクセルシオールに泊まっておられるようだが、そこで本日最後のドルチェでもご一緒にいかがかな。もちろん、ホテルまでお送りしますよ」
アントニーが少し靴音を立てるようにして女の後ろに立ったが、女はほんの少し首をかしげただけだった。後ろにいるのはもちろん気付いていますよ、というポーズだろう。
少し顔の角度を変え、今度は反対側の歩道を眺めたようだ。アルビナのことにも気付いていたのだろうか。
そのアルビナにアロイスは合図してこちらへ来させ、女を三方から囲む。女は身じろぎもせずに立っている。
やけに落ち着いている、とアロイスは思った。まるで、待ち伏せを予期していたかのようだ。
「お相手は何人?」
女がアロイスを真っ直ぐ見つめながら言った。冷たい光が宿っているが、敵意はなさそうだ。
「二人だ。私ともう一人、ホテルで待っている。君の後ろの男と、横の女は同席しない予定だ。ただし、君が許可してくれるのなら、ドルチェのお相伴に預かるくらいはするかもしれんがね」
「では、同席されたらいかがかしら。できれば、皆さんが注文したドルチェを、私に少しずつ分けていただけると嬉しいけれど」
ドルチェを食べるということについては信じて疑っていないようだ。もちろん、実際には食べながらクラッキングの話をする予定にしている。
とにかく、甘いものに釣られて話を聞いてくれるのならありがたい。甘いものは苦手なので、少しと言わす丸ごとくれてやろう。それにしても、どれだけ喰うつもりなんだ。さっき
アロイスは呆れながら、女を車の方へ案内した。
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