#12:第1日 (7) 船長と料理人
途中、突如として突兀とした岩山が住宅街の中にそそり立ち、その上に城のような建物が見えた。地図にはフォルテ・ラ・カルナーレとあるから天然の小山の上に建てた城塞だろう。
その先の住宅街の一角に、教えられた店“ギンザーニ”があった。平日だが、夕食時間帯らしく、混雑している。しかし、一人なのですぐ席に案内された。
店は教えてもらったが、名物料理は教えてもらってないので、お薦めの魚料理をウェイトレスに訊くと「アクア・パッツァ」。魚を塩味のスープで煮込んだものだそうで、それを頼む。
飲み物はもちろんオレンジ・ジュース。ウェイトレスは他に頼まないのかと言う。
「肉料理はどう?」
「いや、魚だ。他に何かいいのは」
「そうね、フリットとか」
「何の
「エビとイカとタコ。タコ、食べられる?」
「
「
俺を食い過ぎにする気か。
「チーズを3種類くらい、適当に見繕ってくれ」
「ワインとかビールとか飲まないの?」
「アルコールは飲めないんだ」
釈然としない顔でウェイトレスは引き下がったが、すぐにチーズとオレンジ・ジュースを持ってきた。次にワインのボトルとグラス、いや、だから、頼んでないって。
「私が頼んだんです」
聞き憶えのある声。袖の短い白いブラウスに、オレンジのロング・パンツの美人が、遠慮もなしに俺の前に座った。
濃い金髪、くっきりした眉、セクシーな青い目、小ぶりの鼻、締まった口元。相席を断るつもりはないけど、座る前に一声かけてくれないかな、船長。
「君の行きつけの店だったのか」
「あなたの名前、まだ訊いてませんでしたね」
会話になってねえっての。
「アーティー・ナイト。君の名前はもちろん覚えてるよ、キャプテン・パレッティ」
「その呼び方は仕事の時だけにして欲しいですね」
「じゃあ、クラウディア」
「それでいいわ、アーティー」
チーズの皿が運ばれてきた。クラウディアが遠慮なくつまむ。たかる気か。しかし、イタリアでは女に食事代を払わせるのは
「俺を海に突き落とした奴は捕まえてくれた?」
「あなたと知り合いがふざけてやったのかと思ってたから、探さなかったわ。この時期にはよくいるんですよ。昼間から酔っ払って、ふざけて海に飛び込む人」
「酔っぱらいが船に乗ってたのか」
「いましたよ、今日も。海から上がってきたあなたを見て、酔っ払ってないのは判りましたけど」
「じゃあ、酔っ払いが俺を突き落としたんだ」
「落ちるところは見てなかったから、判らないわ。音で気が付いたんです」
「とにかく浮き輪を投げてくれて助かった。俺は泳げないんでね」
「そうだろうと思ってました。なかなか浮いてこないから。もうしばらく浮いてこなかったら、私か船員が飛び込んで救助しようと考えてました」
スープ皿に魚が入ったのが運ばれてきた。これがアクア・パッツァか。ウェイトレスが取り皿とフォーク類を二つずつ持ってきている。いや、別に分けて食べるのはいいんだけど、用意がよすぎるぞ。
待て、その、ナスとトマトを焼いた料理は何だ。クラウディアが頼んだんだと思うが、いつ頼んだ?
「どうぞ食べて」
言われなくても食べるけどね。ああ、うまいな。合衆国のナスと全然味が違うわ。
「何て料理?」
「さあ。ナスとトマトの
なぜ名前も知らない料理が出てくるんだよ。そうか、判ったぞ、クラウディアが来たのをここのシェフが察知して、適当に料理を作ってるのに違いない。
「君はここのシェフとは仲がいいのか」
「後で紹介します」
だから、会話になってねえっての。しかし、やっぱりイタリア料理はうまいな。そういうのは俺にとって敵なんだ、太るから。
ただ、前回が非常食とかよく判らない味の料理とかだっただけに――いや、前々回もそうか――久々にうまい料理を食ってるという気がするなあ。
それに今日は坂を上り下りしてエネルギーを使ったから、少しくらいは食べ過ぎてもいいか。後でホテルの部屋でトレイニングをしよう。
「よくこうして、この店を紹介した客と食事するのか?」
「めったにないわ。安心してお話ができそうな人とだけです」
「俺がそう見えるのか」
「それに、ここしか席が空いてなかったから」
さっきから何となく会話がずれてるんだが、まあいいか。確かに、他の席はほとんど全部埋まっていて、一人でテーブルを使っていたのは俺だけだった。
「他の男の席へ行かずに、俺のことを選んでくれて、感謝してるよ」
「あなたのこと、訊いていい? お仕事は何を?」
「実は無職だ。ついこの前、失業した。今は退職金でリフレッシュ中」
この言い訳、どこかで使ったような気が。
「本当かしら、アスリートに見えますけど」
「トレイニングが趣味なんだ」
「イタリアには仕事を探しに?」
「いいや、観光だ。就労ヴィザは取らなかったよ」
「船で働いてみる?」
だから、仕事を探してないって言ってるのに。
「泳げないから無理だな」
「私だってそんな上手には泳げませんよ。英語で観光案内をしてもらえると、とても助かるんです。イタリア訛りの英語は、外国人には聞き取りにくいらしいので」
ああ、そういうことか。話すのはいいけど、相手が英語かイタリア語以外で話しかけてきたら、お手上げだ。しかも、そんなことしてる暇ないって。観光客からターゲットのヒントを入手できるってのなら、まだしも。
「一日中船に乗ってたら、観光ができないよ」
「じゃあ、私に毎晩英語を教えてくれますか?」
毎晩? まさか、ベッドの中でとか言うんじゃないだろうな。
料理の皿が来た。しかし、持ってきたのはウェイトレスじゃなかった。白い服の女。シェフだ。イタリア語でシェフって何ていうんだっけ。それにしても、なぜそんな機嫌が悪そうな顔をしてるんだ。美形が台無し。
「チャオ、デメトリア。アーティー、紹介します。妹のデメトリアです」
妹ね。この店を紹介したのはそういうことか。でも、あまり似てるとは言えないな。髪の色が薄いし、目元はきついし――これは笑ったら似ると思うが――、口元はむっつりしてるのに、妹の方がセクシーだ。
似てるのは、二人とも痩せ型で胸が小さいところくらいかなあ。で、どうして俺は睨まれてるんだ。
「どう、彼なら?」
「何が?」
「あなたの好みかと思って」
「何言ってるのよ」
それは俺が言いたいよ。何の話をしてるんだ。
「彼、毎晩ここへ来てくれるんだって。嬉しい?」
待て、そんな約束はまだしてない。
「どうして私が嬉しいのよ」
デメトリアは不機嫌そうに言うと、厨房へ戻っていった。
「明日も8時半頃にここへ来てくれると都合がいいです」
「俺の英語はブリティッシュじゃなくてアメリカンだぜ」
「それでも
教えるのはいいけど、自動翻訳機能はどうすんだよ。俺はさっきからずっと英語で話してるのに、彼女には勝手にイタリア語に翻訳されて聞こえてるんだろ。それとも、彼女が意識的に英語を聞こうとしたら英語に聞こえるのか?
「俺は英語でしゃべってるけど、何を言ってるか判るか? 判ったら英語で答えてみてくれ」
「
確かに聞き取りにくいな。単語末に余計な母音が付いてたり、二重母音の発音が下手だったり、アクセントに力を入れすぎてたり。
そしてなにより、"r"の発音が強すぎる。インド人より少しましな程度か。
まさかこんなところで、ヒギンズ教授の真似事をするとは思わなかったぞ。
「コツさえつかめば3日で矯正できるだろう。ただし、引き受けるには条件が二つある」
「何ですか?」
「一つは、ここの食事代は俺が払う」
「私の食事代は元々タダですよ」
「だから、俺の食事代は俺が払う」
「判りました。もう一つは?」
「俺はイタリア人の男と違って、女を滅多に褒めないが、我慢してくれ。むしろ、人に何かを教えるときには、スパルタ人のように厳しいと思っていてくれ」
「問題ありませんよ。でも、一つだけ質問をいいですか?」
「何?」
「スパルタの女性の仕事には、強い戦士を産むことが含まれていたらしいですが、あなたの教育にはそれも含まれていますか?」
この世界はあと6日しかないんだぞ。出産まで至るわけないだろうが。
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