#11:第7日 (13) 氷上の月

 ここはどこだ。真っ暗だ。木の床の感触がする。俺はどこにいるんだろう。頭がぼんやりしている。心配ない、まだ寝ぼけているだけだ。待て、俺は何を心配してるんだ? だいたい、何をしていたんだったかな。

 そう、ここは仮想世界だ。ノルウェーだ。ガルフピッゲンだ。山頂のレスト・ハウスだ。マルーシャを氷河のクレヴァスの中からあざとい方法で救って、背負ってここまで連れてきて、それで……眠ってしまった!?

痛っアウチ!」

 慌てて身を起こしたら、何かに頭をぶつけた。何だ、こりゃあ? テーブルか。俺はテーブルの下に寝てたのか。

 そうか、あまりの眠さに、マルーシャを押し倒すようにして、いや、押し倒してない、押し倒してないって。むしろ、彼女が手で俺を引っ張ったような気が。

 そのマルーシャはどこへ行った? いない。いや、見えない。いやいや、そこに影がある。彼女か。

 不意に、部屋が薄明るくなって、マルーシャの姿が浮かび上がってきた。窓から月明かりが?

 その淡い光に輝く銀色の髪。透き通る白い肌。ギリシャ彫刻の女神よりもさらに美しい造形の顔。これが彼女の一番麗しい表情だろうか。

 無表情の怜悧な美。彫刻のガラテアを愛したピグマリオンの気持ちが解る気がする。その秀麗なるマルーシャは、すぐ近くに横たわっていた。

「よかった、目が覚めて」

 月の光よりもまだ冷たい声で、マルーシャが呟いた。途端に、その姿が消えていく。月が雲に隠れたのか。

「俺は……寝ていたんじゃないのか?」

「そう、たぶん薬で。さっきまで、私も眠っていたの」

「君も?」

 どういうことだ。俺を眠らせたのは彼女だと思っていたのだが。

「ビスケットだと思う。私は、薬の耐性が少しあるから、効き目が遅かったみたい」

「じゃあ……誰かが、君を……」

「ええ。キー・パーソンからもらったものだけれど、彼が騙されたんだと思う」

 彼というのが誰か解らないし、その彼を騙したのが誰かも解らない。そんな人物が本当にいるのか。マルーシャは真実を言っているのだろうか。

 彼女は“危険な女”だ。寝ていたという証拠はないし、薬の耐性がどうとかいうのも本当かどうか判らない。

 ただ、嘘をついて俺を眠らせたとしても、その理由もまた判らない。俺からターゲットを奪うわけでもないし……

「不用心だったな、君らしくない」

 テーブルの下に座り直しながら言った。頭がつっかえているので、こんなところから這い出しても構わないのだが。

 木の床に寝ていたせいか、背中が痛い。また、月が部屋の中を薄く照らし始めた。女神の姿が浮かび上がる。

「そうね。意外な形で窮地を脱したから、気が緩んでいたのかも」

 柔らかな光による陰影のせいか、いつもと違って優しい表情に見える。いや、それも彼女の計算かもしれない。俺はまた、彼女に騙されているのかも。

「君に倒れかかった時に、怪我したところをぶつけたりしなかったか」

「心配ないわ。薬のせいで、痛みの感覚が少し麻痺していたみたいだから」

 騙されてるかもしれないのに、どうして俺は心配なんかしてるんだ。

 光が消えて、彼女の姿が闇の中に溶けていく。

 時計を見た。12時に、少し前。7時間近くも寝ていたようだ。

「寒くないか」

「寒いと言ったら身体を温めてくれるの?」

 そういう意味深長な会話をしようと思ったんじゃない。単に、夕方よりも部屋の中が冷えているから訊いてみただけだ。

「ここで夜明かしをするとは思ってなかった。断熱シートを持ってくればよかったな」

「そこの棚にあると思うわ」

 なるほど、ここでは土産物の他に、ちょっとした登山用品を売ってるんだった。Tシャツとトレーナーばっかりだったような記憶があるけれども。

「探してみよう」

「私は要らないわ。もうすぐ退出するから」

「退出? あと12時間以上あるのに?」

 モントリオールでは制限時間の5分前までいたのに。あの時は、何もすることがなかったので、時間が経つのがすごく遅かった気がしたが。

「怪我が痛むの。もう我慢できそうにないから」

「もっと早く退出すればよかったのに」

「あなたにお礼を言ってからにしようと思って」

 クレヴァスから救ったこと? その後、いくらでも時間があったのに?

 そもそも、救ってやったことに対して、不満そうにしてたじゃないか。それとも、寝ている間に心変わりしたのだろうか。

「礼の代わりに、一つ約束して欲しい」

「何?」

「“危険な女”と呼ばれるようなことは、今後しないでくれるか」

「それは難しそうね」

 また女神の姿が月の光の中に戻ってきた。今度は、さっきよりも冷たく見える。

「なぜだ?」

「ここは、ゲームの世界だから。倫理観も、現実とは違っている。クローズすれば、全てはなかったことになるの。もちろん、故意に他人の命を奪うようなことは、私もしないわ。それではいけないかしら」

 “ゲームの世界の倫理観”という概念を持ち出されると、反論できなくなるな。確かにそのとおりで、彼女がステージ内でどんなにひどいことをしても、クローズしたら誰も憶えていない。憶えているのは競争者コンテスタンツだけだ。

「その倫理観を、もう少し現実に近づけて欲しい。俺は、君が“危険な女”と呼ばれることに耐えられないんでね」

「今までも、そう言ってくれた人は何人かいるけれど」

 倫理観を変える気はないということか。しかし、この仮想世界自体の倫理観が色々と歪んでるのは俺も体感してるんで、現実に合わせるのはおかしいかもしれない。

「じゃあ、俺は君が早く現実世界へ戻ることを祈るくらいしかできない。そうすれば、これ以上、君の悪い噂を聞かなくて済む」

「私の倫理観は、少しずつ変わってるわ。ただ、あなたの倫理観と同じではない。それだけのことよ」

「それは仕方ないな。俺と君は他人だから」

「そろそろ退出するわ。私を危険から救ってくれて、ありがとう」

 結局、礼を言われてしまった。ただ、笑顔もない。本当にありがたがっているのか、定かでない。しかし言葉には意味がある。感謝の気持ち。

「ヴィイーティ」とマルーシャが呟くと、その姿がゆっくりと透明になっていった。今度は光の中に溶けていったかのようだった。

 時計を見る。ちょうど12時。彼女が退出してしまった以上、俺も残っている理由はない。退出しよう。

 その前に、窓の外を見ておこうか。山上からの夜景なんて、滅多に見られるものではない。頭をぶつけないようにテーブルの下を這い出て、窓に歩み寄る。

 運悪く、また暗くなってきたが、窓から眺めると、黒い雲の向こうにうっすらと半月が見えている。

 周りの山並みに、月の光が降り注いでいるところがある。雪に光が反射して、山が輝いているように見える。世界が銀でできているかのよう。

 やがて雲が切れ、また月の光が降ってきた。そして俺をもてあそぶかのように、光と影が入れ替わる。仮想世界なのにサーヴィスが過剰だ。

 しばらく夜景を眺めた後で、腕時計に向かって「退出!」と宣言した。すぐ目の前に、黒幕が降りてきた。

裁定者アービターはアーティー・ナイトの退出を確認しました。連絡します。アーティー・ナイトは、ターゲットを獲得しています。確保を宣言して下さい」

 何だって!?

 退出の時にこんなことを言われたのは初めてだ。これまでの例だと、「確認しました」の後でしばらく放っておかれて、それからおもむろに“クリエイターからのコメント”が始まる。

「もう一度言ってくれるか、ビッティー。俺がターゲットを獲得しているって?」

「はい、あなたはターゲットを獲得しています。確保を宣言して下さい」

 意味が解らん。このレスト・ハウスの中に、ターゲットが隠されているのだろうか。しかし、ちょうど12時間ほど前に、他の競争者コンテスタントがターゲットを獲得したと言ってたじゃないか。

「ターゲットを探せばいいのか?」

「あなたは獲得しています。確保を宣言して下さい」

 ますます意味が解らん。獲得しているということは、俺のポケットかリュックサックの中に入っているということであって、しかし入れた憶えはないんだから、入っているはずがないじゃないか。

 試しに、防寒着のポケットを探ってみたが、そらやっぱり、どこにも……ああ、なんだこりゃあ!? 左の前ポケットから、携帯端末ガジェットが出てきたぞ。こんな物が、入っているはずがない。

「ビッティー、灯りを点けてくれないか」

 いつものようなスポットライトが降りてきた。確かに携帯端末ガジェットだ。おそらくこの時代のスマートフォンだろう。無駄に大きくて使いにくそう。

 おまけに、この重さ。ポロ・シャツの胸ポケットに入れてたら、シャツの形が崩れるぜ。

 裏返すと、ヘアー・ライン加工された銀色のボディーの真ん中に、金色の林檎があしらわれている。悪趣味なデザインだな。俺なら絶対買わない。

 いや、待て、もしかしてこれが“黄金の林檎”? この本体は銀か白金プラチナでできていて、林檎が24金とか?

 貴重品は貴重品だろうが、携帯端末ガジェットという実用品にこんなデザインを施すなんて、無駄以外の何物でもないぞ。

 まあ、いいや。こういう無駄な物を持ちたがるクレイジーな人間もいるってことだ。使うことじゃなくて、持つことそのものが、目的なんだろう。

「ターゲットが何か解っていないと、持っていても確保したことにならないんじゃないのか」

「確保の権利を放棄しますか?」

「裁定はこの後で下されるということかい。そういうことなら、確保ポゼッションを宣言しよう」

 こんな珍品を持っていた物好きの顔を想像しながら言うと、灯りが消えた。

 やや間があってから、ビッティーの声が再び降ってきた。

裁定者アービターはターゲットの確保を確認しました。確保者はアーティー・ナイト。カラーはホワイト。ステージ内にいる他の競争者コンテスタンツが全て退出するか、または規定の時刻に達した時点で、ステージをクローズします」

 途端に、手に持っていた携帯端末ガジェットの重みも消えた。

 しかし、どうしてこんな物が俺のポケットに。考えられることといえば、一つしかない。マルーシャがターゲットを獲得して、俺が眠っている間に俺のポケットに突っ込んで、何食わぬ顔で退出していった……

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