#11:第7日 (12) 山小屋の非常食

 1時間近くかけて、ようやくレスト・ハウスにたどり着いた。4時を過ぎている。雪はさほどでもないが、風が強い。顔が凍っているような気がする。背中のマルーシャは一言もしゃべらなかった。

「俺の退出ゲートはこのレスト・ハウスだ。君もここから退出できるはずだが、どうする?」

「まだ退出しない」

 ターゲットをあきらめていない、ということだろうか。しかし、エルラン教授が持っているのなら、もうそろそろ退出してしまう頃だと思うのだが。

 それとも、どこかでターゲットをロストしたのか。とにかく、レスト・ハウスの中に入り、彼女を下ろして椅子に座らせる。それから救急ファースト・エイドセットを使って左腕を吊ってやった。

 応急処置はできても、治療は無理だから、患部を見てやる必要はない。さっさと退出してバックステージで治療してもらう方がいいと思うのだが、聞き入れてくれるかどうか。

 向かい合って座る。彼女は背筋を伸ばして座っている。

「何があったのか話してくれるか」

「まだ終わってないから、話せない」

 確かに、彼女が俺にステージの話をしてくれるのは、ターゲットの保持者がほぼ確定していると考えられる状況の時だった。そういうのは今までに2度あって、2度とも彼女が保持者だった。彼女が保持していないとしたら、今から再獲得できるようなチャンスがあるのだろうか。

 まさか、クレヴァスの中に落ちてるとかじゃないだろうな。もしそうだとすると、彼女が俺に救助するなと言った理由は理解できないでもない。

 しかし、骨折しててもまだターゲットをあきらめないとはねえ。もしかして、ターゲットのカラーが青で、それがあれば現実の世界へ戻れるから、とか?

「じゃあ、いつ話してくれる?」

「次に会った時に」

 このステージでは話してくれないのか。アカプルコやモントリオールでは話してくれたのに。

「次があるのかな。君が先に現実世界へ帰ってしまったら、会えないんだけど」

 俺の質問に、マルーシャは口を開かなかった。“次に会う時がある”という確信がありそうなのだが、その理由が全く判らない。

「じゃあ、今からここで何をするんだ?」

 彼女はまた無言で、テーブルの上のバッグを引き寄せ、中から水筒と、もう一つ円筒状の物体を取り出してきた。"Gjende"という文字の横に、ビスケットが描かれている。こんなときでもおやつスナックを食べるのか。いや、俺も非常食を持ってくるべきだったな。腹減ってるし。

 彼女は右手だけで器用にビスケットの袋を開けると、飢えたオオカミのようにむさぼり始めた。しかし、こういう姿がどうして浅ましく見えないんだろうなあ。動作が滑らかすぎるのか?

 ビスケットが、飲み物のように口に吸い込まれていく。ビスケットは飲み物じゃないんだけど。

「食べて」

 そう言って、マルーシャがビスケットを1枚俺に差し出してきた。そんなに俺は物欲しそうに見えたのだろうか。実際腹は減ってるけどね。

 ありがたく受け取って、口に入れる。見た目どおりの、プレーン・ビスケットの味だった。特に感想はない。しかし、こういうのは一つ食べると余計に腹が減ってくるので、氷河に置いてあるリュックサックを取りに行こうかと思ったが、もう4時半だし、明るいうちに戻ってくるのは不可能だと思われるので、やめておく。

 その後、2枚もらったが、彼女は20枚以上食べていた。

「何か話せよ」

 ビスケットを食べ終わり、飲み物で喉を潤しているマルーシャに言ってみた。

「ノルウェイは初めて?」

 今訊くようなことか。しかし、昨夜の夕食の時にもそういう話はしなかったな。

「現実、仮想、どちらでも初めてだな。そもそも、俺は現実ではカナダとメキシコと日本にしか行ったことがない。ヨーロッパはどこも初めてだ。君は?」

「ノルウェイは3回。でも、山は初めて」

「それはオペラ歌手として?」

「そうとは限らないけれど」

「じゃあ、他の肩書きだったこともあるのか」

「肩書きなんてあまり意味はないわ」

「いや、やはり気になるな。まず、なぜ今回は研究員の肩書きを選んだ」

「寒くて、喉を痛めそうだったから」

 確かに最初に幕が開いた時は吹雪のようだったからな。あれで喉を痛めるのはよくないと思ったのか?

 いやいや、よく考えたら、こんな山の中にオペラ歌手が休暇で遊びに来るはずがないよな。寒さで喉を痛める可能性があるんだから。考えてみれば当たり前の話だった。不自然に思われるのを避けて、研究員の肩書きを選んだわけだ。

「何の研究をしている? 架空の話だって構わないから聞かせてくれ」

「異常心理学。行動異常の研究」

「あまり聞かない研究だな。他人に言ったら、研究対象になりたくないと言われそうだ」

「そう。だから、研究の話はほとんどせずに済んだわ」

「俺もそういう研究に携わってることにしてもらいたかった。数理心理学なんていうと、みんなが興味を持つからな。おっと、君にもさんざん話したんだったか」

 マルーシャとしてではなく、ディーラーのマーゴとして、だったが。

「ただ、そんな肩書きがなくても、君は本物の心理学者になれるほどの知識を持ち合わせてるんだろう。俺の行動だってお見通しだろうし」

「個人の行動なんて、心理学では予想がつかないわ」

「さっき、君を救ったことを指してる?」

「それだけじゃなくて、いろいろと」

「そうか。これからは、君を困らせないように、行き当たりばったりで行動するのはやめておくよ」

「私も、あなたに頼らないようにするわ」

 俺を頼る? ああ、そうか、俺のことを監視したり、利用したりしてるんだった。確かに、そういうのをやめてもらうのはありがたい。ついでに、同じステージにいるのなら早めに存在を主張してくれると助かる。

「ハンナ・イヴァンチェンコは君の本名?」

「今回はそれが本名」

「じゃあ、偽名なのか。他にも名前がある?」

「ええ、いろいろと」

「どうして君は、正体を教えてくれないのかな」

「教えたら幻滅すると思うわ」

 いやあ、無差別殺人鬼スプリー・キラーでもない限り、幻滅しないと思うけどね。

 あれ、ちょっと待て、おかしいな、急に眠くなってきた。まだ5時前なのに。少し寝不足気味で、疲れているとはいえ、こんな時間に眠くなるなんて……

「まさか、ビスケットに……何か仕込んだのか?」

 訊いてみたが、マルーシャは黙って俺の顔を見ている。しかし、彼女だって食べてたじゃないか。しかも、俺よりずっとたくさん……立ち上がって身体を動かしてみたが、ちっとも効かない。外に出て、雪で顔を洗ったら眠気が覚めるかも。歩くだけで足下がふらつくほどの眠気って!

 ドアを開けて、レスト・ハウスを出た。

「ぶはあっ!?」

 猛烈に冷たい風で、身体が飛ばされそうになる。いつの間にか、外は吹雪になっていた。これで目が覚めるかと思いきや、雪が顔に吹き付けるせいで目を閉じたからか、そのまま寝てしまいそうになる。

 いや、こんなところで寝たら、本当に危ないって。足下の雪で顔を洗ってみたが、全く無意味だった。なぜこんなに眠くなる。おかしい。絶対おかしい。

 回れ右をして、室内に戻る。力が入らず、ドアを閉めるのが精一杯だった。解った、これは、眠いんじゃない。麻酔を打たれた時のように、神経が麻痺してるんだ。もちろん、頭も……

「やっぱり、君が……」

 バン!とテーブルを叩きながらマルーシャに詰め寄ったが、もう足に力が入らない。そのまま、彼女の方に倒れ込む。彼女は右手で俺を抱き止めようとしたみたいだが、そのまま一緒に床に転がった。これじゃあ、まるで俺が押し倒したみたいだ。そんなつもりじゃないんだが。

 彼女の身体から、清涼な柑橘類の香りが立ち上ってくる。眠りを誘う、甘い香り。彼女の手が、俺の頭を撫でる。安心して眠りなさい、とでもいうつもりか……

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