#11:第7日 (4) アーベル群
カーヤがメッセージを覗き込んでくる。
「誰からだ? H・イヴァンチェンコ。ああ、あのクールな女性研究者だな。昨日、5分ほどだが立ち話をしたよ。とても聡明な印象を受けた。お前の婚約者なんだろう?」
待て待て待て、何の話をしたんだよ!
「違う。彼女とは全く別の研究所で働いていて、何度か顔を見たことがあるだけだ。婚約者でもなけれな、特に親しいわけでもない」
「そうなのか? しかし、昨日の夕食の時に、お前ととても親しげに話しているのを見かけたし、彼女はお前が来るまでは誰も近くに座らせなかったんだぞ。だから、彼女にとってお前は特に大切な男かと思ったんだ」
ウクライナの料理のことを聞いてる姿が、そんなに親しげに見えたのかね。ましてや、彼女は俺に対しては笑顔も見せなかったんだぞ。それとも、他人から見るとあれでも仲睦まじく見えるのか。
「重ねて違う。俺にとっては彼女よりも君の方が大切な女だよ」
「ははは、冗談でも嬉しいよ。ところで、何のメッセージだい?」
「さあね、訳がわからないな」
ともあれ、財布から5枚の紙幣を取り出してテーブルの上に置く。カーヤが興味深そうに覗き込む。
「これはクローネ紙幣なのか? こんなのは見たことがない。いやいや、待てよ、これはずっと昔のじゃないか? うん、肖像も全てノルウェイ人だし、そうなんだろう。ああ、これがアーベルだよ」
500クローネ紙幣を取り上げてカーヤが言う。それも知ってるんだけどね。
「それで、これがどうしたんだい? ああ、もしかしたら、彼女との待ち合わせ場所が、どこかに書かれてるんじゃないのか? お前が気付いていないだけで、彼女はずいぶんとお前のことを気にしてるようだったぞ。昨日話をしたときに、お前の名前を出しただけで、彼女はずいぶん動揺してたんだ。
勝手な解釈を並べ立てながら、カーヤは紙幣を回したりひっくり返したり光に透かして見たりしている。もし、マルーシャが動揺しているように見えたのなら、それは演技だよ。彼女はどんなことだってできるんだ。
しかし、紙幣自体にヒントが隠されているというのは思ってもみなかった。何かあるのだろうか。
デザインその物にヒントを織り込むわけにはいかないだろうから、あるとすれば、紙幣のシリアル番号だろうか。10クローネはアルファベット二つと7桁の数字だが、他はアルファベット一つと7桁の数字。しかし、ぱっと見ではランダムなアルファベットと数字で、ヒントが隠されているようには思えないが。
「アッハ、見つけたぞ。これじゃないか?」
カーヤが500クローネをテーブルに置き、シリアル番号を指さす。"C0382335"。特に意味のありそうな数字とは思えない。チェス盤にも当てはめられなさそうだし。
「これが、どうして?」
「透かして見てくれ」
言われたとおり、紙幣を持って頭の上のランプへ向け、透かして見る。窓の外は明るくなりかけているが、そちらはまだ光量が足りない。すると、番号のところに打ち消し線が引いてあるように見えた。しかし、先頭のアルファベットだけは打ち消されていない。
裏を返すと、確かに二本線が引いてある。紙幣のデザインの一部に溶け込んでいて、ぱっと見では気付かなかったのだ。
そして、その打ち消し線のすぐ横、透かせば“C”の右肩に当たる部分に、黒い丸が打ってある。いや、よく見るとアスタリスクだな。つまり"C*"となっているのだが。
「これが、何か?」
「“C”が太字になっているだろう?」
もう一度よく見ると、確かにそうだ。Cの左側の曲線に沿って、縦棒が付け加えられている。“ℂ”。いわゆる“
「うん、確かに」
「数学で“C”の太字は何を表すか知ってるだろう?」
Cの太字……ああ、そうか、Rの太字が実数全体の集合で、Cの太字は……
「複素数全体の集合」
「そう。そして、“C*”は“0以外の複素数全体の集合”を意味する。そうだな、ちょうどアーベル群の例として出てくる場合がある。アーベル群は演算の交換法則が成り立つ集合を表すが、“C*”は乗法に関するアーベル群の例になってるんだ」
「ほう」
まさかこんなところにアーベルが出てくるとは思わなかった。大学で群論の入門を履修したが、そこで習ったかどうかさえ憶えていない。
「だが、それだけじゃないぞ。もう一度よく見るんだ」
言われるままに、もう一度紙幣を透かし見る。まだ何か書いてあるのか。
「“C*”の上をよく見てくれ。これも裏のデザインに紛れそうになっているが……」
なるほど、“C*”に被さるように
「君たち二人の間に、“
二人の間で決めた場所じゃない、これは次に行くべき場所だ!
地図で原点とはどこを意味するか。普通なら本初子午線と赤道の交点だが、俺が持っている地図にはそんな場所は含まれていない。地図の左下隅を原点としてもいいが、地図自体を“複素平面”に見立てるのなら、地図の真ん中の経線と緯線の交点だろう。
地図は何度も見たから、そこには何が描かれているか、はっきり憶えている。ノルウェイ最高峰、ガルフピッゲンだ。なんてこったい、今から山登りしろってのか?
「誤解のないように言っておくが、彼女と待ち合わせをしてるわけじゃない。これは俺がノルウェイに行くと友人に話したときにもらったパズルの一つなんだ。昨日、彼女に話したら、今朝になってヒントをくれたってだけさ」
言い訳に聞こえるだろうが、ちゃんと釈明しなければならない。しかしカーヤは軽く首を振りながら、穏やかな笑顔で言った。
「今さら隠さなくてもいいんだ。私には判ってるよ。お前と彼女は似合いの
いや、だから、本当に違うって。どうしてマルーシャの演技を信じて、俺の言うことを信じてくれないんだ?
しかし、また彼女にヒントをもらったな。俺の頭が悪いから仕方ないのかもしれないけど、どうしてこうも一方的に。
ただ、俺にヒントをくれるということは、それが彼女のメリットになるということで、しかも俺にターゲットを奪われない準備がある、ということを意味している。ともあれ、ガルフピッゲンに登る用意をしなければならない。
「とにかく、君のおかげでパズルが解けたから、礼を言うよ。それに、君の研究についても聞かせてもらって、面白かった。ありがとう。君はこれからどんな予定が?」
「今からまた集会で、9時にはガール・スカウトたちと一緒にグリッテルヘイムに向けて出発する。しかし、私のことは気にせず、お前は早く約束の場所に向けて出発していいんだぞ」
余計な世話を焼きたがるなあ。しかも勘違いしたまま。とりあえず、レストランを出て受付へ行き、ガルフピッゲンのことを訊く。モードが答えてくれる。
「ガイド付きのツアーは先週で終了しました」
今週から来年3月初旬までは単独入山は不可で、必ず経験者を伴うこと、そして届け出して許可を受けることが必要らしい。届け出はともかく、経験者を探すのはどうしたらいいだろうか。もっと早く判っていれば手を打てたのに。
「当館のスタッフにも経験者がいます。私も経験者ですが……」
モードがそう言って嬉しそうに笑う。何、君を連れて行っていいのか。それは助かる。しかし、“黄金の林檎”を探して、それを“盗む”ところを見られるわけにはいかないんだが。
「私も経験者だが……」
横に立っていたカーヤが呟く。君、そろそろ集会って言ってなかったっけ。しかもその後、グリッテルヘイムへ向かうんだよな。
と、そこへ駆け寄ってきた女がいた。キティー・ブルン!
「何だ、ブルン。私に用か」
「はい、フロェケン・セルベルグ、集会の時間です。お越し願います」
「集会はフロェケン・スコーレムに任せてある。私は少し遅れて行く。先に始めておいてくれ」
「ですが、フロェケン・ヘーガードもおられないのです。フロェケン・スコーレムとフロェケン・フレロホルムの二人だけでは進行できず、困っておられます」
「何だって?」
「ところで、これは何の集会ですか?」
俺がいるので何かありそうと思ったのだろう。好奇心いっぱいの表情で訊いてくる。俺は言うつもりはなかったが、モードが親切にも「ドクトル・ナイトがガルフピッゲンに……」と漏らしてしまった。
「私も経験者です! 私も登りたいです! 私ならあなたのパートナーに適任です!」
「ブルン、君は去年一度登っただけじゃないか。それでは経験者とは言わない」
「一度で十分です! ルートは全部憶えてます!」
なぜこんなことになってるんだろう。面倒だな。む、どうしたんだ、3人してなぜ俺のことを見ている。まさか俺が選べというのか。
いや、そうだろうな。そりゃ、俺が選ぶのが当然だわ。さて、誰を選ぶ?
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