ステージ#10:第0日

#10:2049年3月14日(日)

 傾きかけた日射しの差し込む船尾スタンデッキのシートに座り、イライザはジェイムズ・フェニモア・クーパーの『水先案内人』を読んでいた。海洋小説のさきがけとなった古典の名作だが、イライザには退屈すぎた。主人公が、とにかく陰気だったから。

 しかし、本を読むのをやめたら、他にすることがない。TVを見てはいけないし、ゲームをしてはいけないし、音楽を聴いてもいけない。周りの音を聞いていなければならないのだ。例えば他の船が近付いてくる音、そして海底からの呼び出し音。

 読書に没頭していれば、それらの音すら耳に入らないかもしれないが、今のところ没頭する心配はない。要するに、イライザの役割は船の上で見張りをしながら待っていることだった。海に潜って、海底を調べ回っている二人の仲間を。

 退屈しのぎに読書を選んだのにはもう一つ理由があって、それはいわゆる“教養”を身に着けるためだった。イライザが乗っているこのクルーザーは、彼女が港からここまで運転してきたが、彼女の所有物ではない。彼女の兄であるロジャーの所有物だ。

 彼女が住んでいる邸宅コテージも、出掛けるのに使っている車も、時々気晴らしに運転する軽飛行機も、みんな兄の物だ。

 いや、正確には兄の物でもない。父の物だ。名義は全て父になっている。だが、父は病床にあって、余命いくばくもない。その父が築き上げた財産――世間にはヒギンズ財閥として知られる――は、全て兄が引き継ぐ。遺言によって、そう決まっている。

 もちろん、イライザにも多少の遺産が回ってくるのは判っている。しかし、一生を遊んで暮らせるような額ではない。ただし、兄にはイライザを養育する義務がある、ということになっている。だから、この先何もせずとも楽に一生を過ごせることだろう。だが、彼女は兄の世話になるつもりはこれっぽっちもなかった。

 イライザは兄が嫌いだった。兄も私のことを嫌っているだろう、と彼女は思っていた。いや、思っているだけではなく、知っていた。兄は彼女のことを、役に立たない人間だと信じているのだ。ずっと遊んでいたわけでもなく、一流ではないが大学にちゃんと通って、優秀ではないけれども規定の成績を上げて、落第することもなく卒業したのに。

 ただ、卒業後に就職しなかっただけだ。イライザは大学の同級生たちと違って、普通の会社では働けないと思っていた。父が興した幾多の会社のうちの、いずれかに就職することもできないではなかったが、そうなれば名目だけで仕事もせず給料をもらえるような役職に就かされただろう。兄がそうするに違いないのだ!

 兄は、自分の妹には特筆すべき能力もなく、仕事を任せてもまともに達成できず、事業の邪魔になる、と信じているためだ。そんな役職に就いたら、社内でどんな陰口をたたかれるか判らない。そんなのはまっぴら御免だ。

 だからイライザは、自分一人で生活したかった。生活できるようになりたかった。遺産のおこぼれを兄から分けてもらうのではなく、独力で金を稼ぎたかった。

 ただ、そんな生活を今から準備するには、時間がかかる。そしてもちろん彼女一人ではできない。だから、事業を興そうとしている友人を援助することにした。

 事業といっても投機ヴェンチャー同然なのだが、友人のホリーは成功する見込みが十分あると言う。ホリーが言うのなら信用するしかない。もう一人の友人であるサブリナは、知識はないが体力に優れていて、勘が鋭かった。参謀と、実働者。その二人と組み、イライザが支援者となれば、事業ができるはず。

 そして成功すれば、3人で裕福な生活ができる。そうなると人付き合いも増えるのだが、その時に教養がないと見くびられてしまう。だから今のうちに教養を付けておかなければならない。小説を読むだけで教養が付くとは思えないけれど。

 しかし、読書はもう限界だった。目で文字を追うことに疲れ果て、本を置く。空と、そして海を見る。綺麗に晴れ渡った青い空、そして波の穏やかな青い海。風が少し強まってきた気がするが、3月の半ばでもここは暖かい。今の季節は気温よりも水温の方が高いだろう。ただし、海に入るとすぐに体温を奪われてしまう。水の方が空気より熱が伝わりやすいから。

 テーブルの上に置いた受信機の、チャイムが鳴った。チャイムには音が何種類かある。緊急を報せる音もあるが、今のは水の中の二人が、これから安全に浮上するときの音だ。

 水面を見遣る。砕ける波間に泡が立ち上ってくるのが見えて、やがて黒いフードに包まれた頭が一つ、そしてもう一つ浮かび上がった。イライザの友人たち。

 二人がラダーを上がり、船尾スタンを倒したスイム・プラットフォームに座る。ブルーのウェット・スーツから海水を滴らせながら、サブリナがゴーグルを外す。グレーのウェット・スーツはホリー。彼女がゴーグルを外すと、その下にも水泳用の小さいゴーグルを着けているが、あれは近視用だ。

 二人がそれぞれ網袋を海から引っ張り上げてくる。金属片らしき物が多数入っているのが見えた。それが今日の成果。

「どうでした?」

まあまあねソー・ソー

 イライザの問いかけに、サブリナが返事をしながらフードを脱ぐ。ピクシー・カットの黒髪は、ほとんど濡れていないように見える。肌が水を弾き、玉になって首筋を流れ落ちた。

 ホリーもフードを取ったが、こちらはブルネットの髪を後ろでまとめていて、それがしっとりと濡れているのが判る。たぶん、フードの隙間から海水が染み込んだのだろう。

 彼女は物事の考え方も実行時の段取りもきっちりしているのに、自身の身繕いに関してはいい加減だ。本人に依れば、軽薄な男が寄りつかないようにわざとそうしているということなのだが、そうでない男が寄りついてきたこともないはず。少なくとも、イライザが知っている限りでは。

「あら、それは?」

 そのホリーが網袋とは別に、錆びた長い棒のような物をプラットフォームにゴトリと置いたのが、イライザから見えた。

「カットラスみたいね。凝った形だから、拾ってきたの」

「まあ、本当に面白い形ですね。メアリー・リードのカットラスですかしら」

「まさか」

 ホリーが鼻で笑った。

 伝説の女海賊で、アン・ボニーと共に知られるメアリー・リードは、カットラスの使い手と伝えられるが、その形はもちろん全く判っていない。絵は何点か残っているものの、それは単なる想像図のようなものであって、伝聞から推定で描いたものでしかないのだ。博物館“パイレーツ・オヴ・ナッソー”に展示されている人形も、それらしい形のカットラスを持たされている。

「休憩してからもう一本潜りますか? それとも、今日はもう終了しますか」

「そうね……今日はもうやめておくわ。明日は午後から天気が悪くなるらしいから、もう一本行っておきたいところだけど、今の場所はもう見込みがなさそうだから」

「解りました。では、帰投しますね」

 イライザは操舵席コックピットに戻ると、パネルを操作して錨を巻き揚げた。このクルーザーにはGPSを利用した定点保持機能が付いていて、錨を降ろさなくても海面の同じ場所に留まっていられるのだが、ダイヴィングをする二人にとって錨の鎖が浮上の目印にもなるので、降ろしていたのだった。

 エンジンを始動させ、ニュー・プロヴィデンス島へと船を走らせる。サブリナとホリーはウェット・スーツを脱ぐと、水着姿になって船尾スタンデッキのシートに座り、網袋の中の金属片を机の上に並べ始めた。それらは錆びてはいるが、昔の硬貨や装飾品などだった。つまり、ここで遭難した船と共に沈んだ財宝の一部だ。

 大航海時代以来、世界の海でどれくらいの数の船が沈没してきたか判らないくらいだが、カリブ海は特に沈没船の多い地域で、莫大な財宝が今も海底に眠っているとされる。海洋考古学者が過去の記録と入念な調査からその位置を特定し、引き上げるサルヴェイジ計画も進められている。

 無事、引き上げに成功した例も多いが、全ての財宝が沈没船と共にあるわけではない。沈む過程で、広い範囲に積み荷を撒き散らすことは容易に想像できる。

 沈没船の中、あるいは周囲に落ちている財宝は、発見者、その船の“所有者”、そして沈没地点を領海とする国の三者で争いになることが多い。しかし、沈没船から十分に離れたところに落ちている財宝は、所有者、つまりどの船の積み荷だったかが特定しにくいこともあって、意外にすんなりと発見者のものになることがほとんどだ。

 特に、バハマで数年前に制定された『海上遺棄財産法』により、少量でかつ所有者が特定できない“海上遺棄物”は、公的機関にごく簡単な申請をするだけで、その価値に相当する金額を受け取ることができるようになった。

 もっとも、それを探す場所は、既に発見された沈没船から一定距離だけ離れた範囲に限定されていて、公的機関が発行する地図に載っている。沈没船は無数にあるし、スクーバで潜ることができる深さにも限度があるため、素人が探せる範囲はほんの僅かだ。

 しかし、「沈没船の進行方向と、付近の海流から、積み荷が沈んでいる蓋然性の高い範囲を特定できる」というホリーの理論を元にして、イライザたちは――正確にはリーダーはサブリナだが――“海中捜索事業”を続けているのだった。

 約1年前に始めたばかりで、回収した“財宝”は数万ドルほど。クルーザーや3人が住む邸宅コテージがイライザのものでなかったら、とても続けていられなかったに違いない。しかし、同じような事業をやっている他の連中と比べたら、彼女たちの成果はかなりましな方だった。

 とはいえ、今のような稼ぎでは、そのうち行き詰まることは必至だ。何とかしなければいけないのだが、どうすればいいのか。今のイライザには全く思い付かなかった。

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