#9:第4日 (3) 論文講義会
警備詰所に着いたのは8時15分で、ローラン主任は既にいなかった。やはり俺には何も期待していないようだ。ワテレ主任もいなかったが、カロリーヌがまだ着替えもせずに、打ち合わせスペースの椅子にぽつんと座っていた。俺の顔を見て慌てて立ち上がる。
「
「何?」
伝えたいことがあれば
「はい、本日はカナダ・グランプリに出場するレーシング・ドライバーが大勢到着する予定のため、もし賭場で見かけたら、必ず報告するようにとのことです」
そんなこたあ、言われなくても解ってるって。昨日、俺がジャンヌを見かけたのに報告しなかったことを根に持っているだけじゃなくて、他のドライヴァーも見逃すなよというプレッシャーをかけるつもりだな。
「解った、ありがとう。ところで、今日は8時半から講義だったと思うので、そろそろ着替えてきたら?」
「はい、これから着替えに行きます。あの、それで、講義の場所の件ですが」
「場所?」
「はい、ワテレ主任が
講義になるかどうかも判らないのに、VIPルームを使わせてもらえるとはねえ。しかし、彼女たちは就業時間外なんだけど、VIPルームに入っていいのかね。コレットが許可してるんだから気にすることはないか。
敬礼をした後でカロリーヌは去って行き、5分ほどで戻って来た。女の着替えにしてはやけに早い。襟付きの真っ白な
宿泊室に鞄があったはずだが、それは持ってこず、大きめのタブレットを持っている。そしてまた敬礼をして言う。
「お待たせしました。これから、VIPルーム#2に案内いたします」
「ありがとう。ああ、それから一応注意しておくが」
「はい、何でしょうか?」
すぐには答えず、詰所を出るように手で促す。そして外に出て、ドアを閉めてからカロリーヌに言う。
「君、今は就業時間外なんだから、敬礼なんてしなくていいよ」
「はい、了解しました」
「それと、君のことをまたカロリーヌと呼ぶから、そのつもりで」
「あ、はい……」
別館3階のVIPルームに着くと、ドアの前にカロリーヌと同様に小柄な女が立っていた。ディーラー並みの美人だ。ブルネットのショート・ヘアだが、長く伸ばした前髪を、額の中央から左右に分けて逆V字を作っている。オレンジとグリーンのバイアス・チェックのブラウスに、ライト・ブルー・ジーンズ。胸はカロリーヌよりだいぶ大きい。いや、そんなところを見てはいけない。
女は俺の顔を見て、「WOW!」と大袈裟に驚き、頭を抱えている。そんなに驚くようなことか。
「ドクター・アーティー・ナイト?」
「ドクターと呼んだら返事しないことにしてるんだ。カロリーヌに聞いてないかね」
「
「もちろんだ。他の呼び方はないからそのつもりで」
「解りました! 自己紹介が遅れて失礼しました、ミレーヌ・ロザリー・リードです!
言いながら俺の手を掴み、ぶんぶんと振り回す。活発そうな見た目どおり、元気のいい女だな。
「あの、ミレーヌ、彼のことは
「えっ!? でも、アーティーって呼んでいいって言ってもらったのに!」
「ヘイ、カロリーヌ、今は就業時間外だから、君も俺のことをアーティーと呼ぶんだぞ。とにかく、中に入ろう」
VIPルームに入るのはこれで3度目だが、毎回違う部屋に入っている。一昨日は#4、昨日は#3だったが、今日は#2だ。こちらの方が#3よりも狭くて、しかし応接セットはあったので、そこを使う。
カロリーヌとミレーヌを向かい側に座らせたが、ミレーヌの方が早く講義が聴きたくて待ちきれない、という顔をしている。よく判らない状況だが、俺が口を切った方がいいのだろうか。
「さて、今日は俺の講義を聞きに来てくれてありがとう。改めて自己紹介する必要もないと思うから、早速始めることにするが、ミレーヌ、俺の論文一覧を調べてきてくれたそうだな」
「はい、アーティー! こちらに」
ミレーヌが元気に返事して紙を差し出す。こういうのをわざわざプリント・アウトしてくるところに時代を感じる。上からざっと目を通すが、こんなに書いたのか。似たようなのばかりで、粗製濫造だなと思うほどタイトルが並んでいる。そのうちいくつかに印が付いていた。マーゴが言っていたタイトルもある。
「さて、これを全部説明している時間はないから、君たちが聞きたいものを優先することにしよう。まず、どれにする?」
「はい、あの、印が付いているのは私が聞きたかったものなんですけど、カロリーヌとも相談して、最初は『複数プレイヤーが相互回避行動を取る場合の行動競合率とフィードバック学習による競合率の変化について』の解説をお願いします!」
「
「はい、こちらに!」
今度はラップトップの画面を俺の方に向ける。タイトルから予想できるような内容が書いてある。俺が書いたことになってる論文はこんなのばっかりだな。しかし、変化というタイトルであるからには、やはりグラフが描いてあって、それがないと論文の本質が判らないわけだ。さて、どうやって説明するかなあ。
「OK、では、説明を始めよう。まず具体的な例を挙げるが、例えば家から車である目的地へ行く場合としよう。この時、便利な道路は渋滞している可能性が高いとする。すると、迂回していけば早く着くかもしれない、と人は考えるわけだ。しかし、他の奴も同じように考えるかもしれない。そうすると、今度は迂回路の方が渋滞する可能性もあるわけで……」
つまり、どんな考え方をしようとある割合で競合者がいるわけだが、みんなが毎日考え方を変えると、その割合は日々変化することになる。各人が試行錯誤の結果、ある一定期間が過ぎれば、みんなが自分に適切なルートを見つけて、平衡状態に落ち着くかに思えるが……
「ところが、この例のプレイヤー、つまり車を運転する人というのは、毎日同じではない。新しく運転を始める人もいれば、辞める人もいる。日々少しずつ入れ替わっていくわけだ。そうすると、そういう奴らの影響で、せっかく見つけた最適なルートが変わってしまうこともある」
自分と競合するルートの運転者に入れ替わりがあると、最適なルートが変わってしまう可能性があるし、そうでなくしばらくはルートが変わらない場合もあるだろう。つまり、ランダムな割合によって、自分にとっての平衡状態と試行錯誤状態が入れ替わるわけだ。この辺りまで持ってくると、俺が本当に自分で書いた応用数学の論文に近いので話がしやすくなる。
「さて、ここまでは理論の話で、論文の主眼はこの例のような人間の行動を数学的にモデル化して、計算機でシミュレーションすることだ。学習が早い奴、遅い奴、情報を与えると素直にそれに従う奴、頑固に従わない奴、まあ今のはごく簡単な例だが、もっとたくさんのモデル化を行う。そのモデル化した行動パターンを組み合わせて、個人の行動様式を表現できると仮定する。その個人をたくさん集めて集団を構成し、与える情報の量を変えながら何度もシミュレーションを行って、集団としての行動様式と、その中の個人の行動様式を推定する。グラフとしては、情報量に対して行動が推定できた確率をプロットしてある。そのグラフは見せられないので残念だが、だいたいこんな内容だ。何か質問は?」
「ええと……集団の行動様式というのは、どの程度現実世界を反映してるんですか?」
ミレーヌが質問してきた。やっぱりそれを訊かれたか。さて、どう答えるかなあ。
「うん、いい質問だ。実は財団ではコンピューターの中に仮想世界を作り上げている。隣のサンテレーヌ島にバイオスフィアがあるが、あれは人工的な生態系シミュレーションで、それをコンピューター内の仮想空間として模擬していると思ってもらっていい。シム・シティーというゲームがあるが、あれをもう少し現実に近くしたものだ。俺の説明したシミュレーションはその中で行う」
どうしてこれだけ流暢に口から出任せが言えるのか、自分でも感心するね。俺の本質は嘘つきなんじゃないだろうか。
「一つのシミュレーションにどれくらい時間がかかるんですか?」
これはカロリーヌの質問。本質を突いてるなあ。本質ってのは俺にとって苦しいところのことだけど。
「時間はシミュレートする内容にも依るから、様々だな。ただ、仮想世界の中の時間の進み方は現実と違って、早く進めることができる。もちろん、時間の粒度を大きくするとシミュレーションが雑になって結果が変わってしまうから、そこは調整が必要だ。が、おおむね10倍くらいのスピードで進めることが多いな」
「シミュレーションが失敗することはないんですか?」
またミレーヌの質問。
「もちろん、失敗することはある。しかし、シミュレーターだから、初期状態を同じにして、条件のパラメーターだけを変えて何度でもやり直すことができるし、基本は複数のシミュレーションを同時進行させる。失敗したシミュレーションはすぐに終わらせるんだ。失敗したときの結果やパラメーターを参考として論文に記載することもあるよ」
「パラメーターはいくつくらいあるんですか?」
カロリーヌ。どうして二人で交互に質問してくるんだ?
「シミュレーター自体のパラメーターは数百万以上あるが、目的のシミュレーションで設定するのはそのうち数十から、多くても100程度かな」
論文の内容よりも、シミュレーターの方に興味が行ってるようだな。大学のどこかの研究室でやっていた交通流シミュレーターの記憶を頼りに答えているが、あながち間違ってはいないだろう。
その後もミレーヌ、カロリーヌと交互に質問に答える。質問が尽きたら次の論文に移る。『不適合プレイヤーによる行動攪乱効果及びパラメーターどうしの演算による不適合度の推定について』。
実生活において、なぜか他人の邪魔になるような行動をしてしまう人間がいるように、シミュレーションの世界でも、ある一人ないし数人のプレイヤーが、うまく動いている系全体をダメにしてしまうことがある。しかし、そうなるのは特定のパラメーターが作用するのではなくて、系全体のパラメーター傾向との相関によって決まる……という内容の論文だ、と思う。
さっきの論文といい、俺が大学時代に他の学生に聞いたことがある研究内容にどういうわけか似ている。パラメーターの相関は当然のことながら重回帰分析で求めるのだが、まず二人が回帰分析という言葉を知らないので、それを説明しなければならなかった。俺自身が忘れているはずなのに、説明しながらだと思い出せるのがどうにも気持ち悪い。
というか、この研究自体、どう考えても俺が大学でやっていたのより高度なものに思えるが、どうしてそれを解説できてしまうのかが判らない。口から出任せのわりに、矛盾はないし筋が通ってるんだよなあ。
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