#8:第7日 (5) 罪深き女
ホテルを出て、すぐ目の前にある聖マリア・マグダレナ教会へ行く。もちろん、俺が何も言わないのに、セシルがそこへ行こうとする。彼女は本当に、ターゲットの隠し場所に気付いていたらしい。
どこからともなく、大きな歓声が聞こえてくる。ロンドが始まったのだろう。だが、この辺りはひっそりしていて、観光客すら見えない。
教会の中に入る。誰もいない。左側の
ただし、俺は左の隅の目立たないところに置いたのだが、それが真ん中に動かしてあって、しかも花が飾ってあった。花の色といい挿した角度といい、“聖杯”にぴったりと似合っているので、まるっきり花瓶のように見える。なるほど、これが本当に“隠す”ということなんだなあ。俺は知恵が足りない。
「どうかしら?」
「うん、いいと思うよ。さすがだな。君はファッションだけじゃなくて、フラワー・アレンジメントのセンスもある」
「褒めてもらって嬉しいけど、回収するわね」
セシルは“聖杯”から花を取り出し、他のいくつかの花瓶に分けて挿し込んだ。中の水も他の花瓶に移す。携えていたバッグからスカーフを取り出し、“聖杯”を綺麗にくるむと、バッグの中にしまい込んだ。
「今は私が預かっておくけど、勝手にこれを持って退出したりしないって、信用してもらえるかしら?」
「もちろん」
「私のこと、全然疑わないのね」
「君を信用せずに他の誰を信用すればいい?」
「あなたみたいな
「それはクリエイターに訊いて欲しいな。彼が俺を泥棒だと判断したから、ここにいるんだ。こっちこそ、君はどんな罪を犯してここに連れて来られたのか知りたいね」
「もちろん、私が“
「君が
「今朝の私を見ていてもそう思う?」
「
セシルの目が細くなって、俺を少し睨んだ。
前から知っていたわけではなく、今回、いくつかの美術館で絵を見ているときに仕入れた知識で、どんな絵の解説だったかはおろか、どこの美術館のリーフレットで見たかすら憶えていない。だが、彼女ならきっと解るだろう。
「褒めてるの、それ?」
「褒め言葉になってないのなら謝るけど」
「いいわ、あなただから、許してあげる。要するに、ただの
いやあ、ほとんど痴女だったけどね。計算ずくでああいうことをしたんだろうけど、あの媚態は、元々そういうのが好きなんじゃないかって思ったくらいだったから。
「そろそろ壁の絵を見に行かないか」
「そうね、すぐに見終わっちゃいそうだけど」
教会を出て、デュケノワ通りからサン・ジャン広場を抜け、ロンバール通りへ。人通りは少ないが、すれ違う人がみんなセシルを見ている。セシル・クローデルだわ、という声も聞こえる。さすが有名人。誰かが「ル・マドモワゼル!」と興奮気味に叫ぶ。セシルがそちらの方を見て、笑顔で「ボンジュール」と言う。
今頃気付いたのだが、“ル・マドモワゼル”というのはどうやら彼女のニックネームらしい。カメラや
エチューヴ通りに入るとすぐ右の、少し出っ張った壁に“タンタン”の絵が描かれているのが見えた。タンタンというキャラクターを俺は全く知らないのだが、金髪で前髪が
建物の1階は土産物屋で、特にゲートらしいとは思えない。セシルが立ち止まって絵を見上げる。前で写真を撮っていた二人組の女が、俺たちに気付いて振り返り、セシルを見て驚いている。たぶん、俺の方は目に入っていないだろう。
「どう?」
セシルが、俺を見ずに訊いてくる。
「屋根には登れるかもしれないが、上から何が見えるんだろうな」
「同感ね」
言い残してセシルが歩き出す。壁の頂上に登るからには、そこに何か特別なものがないといけないだろう、と彼女も思っているようだ。
少し先へ行くと、小便小僧の像がある。小さな十字路の角に立っている、小さな銅像で、世界有数の
「あれは見た?」
セシルが、今度は俺の方を見ながら訊いてくる。少し、嬉しそうな顔をしている。
「いいや。君は昨日見たのか?」
「もちろん」
「そういえば昨日は誰と来てたんだ?」
「ソフィー・ボック。ニールスの従姉。でも、あなたは
うん、確かに見たことがなかった。今回、俺が会わなかった関係者は何人くらいいるんだろうな。10人くらいはいるんじゃないか。ステファンに構いすぎたせいだ。
「彼女と何らかのイヴェントが発生して、それでブリュッセルに来られるようになったんだな」
「そういうこと」
「ところで、あの像はどう思う?」
それほど見入るような大した像ではないと思うのに、セシルは人垣越しに、ずっと見上げている。が、俺が訊くと振り返って、唇の端に少しだけ笑み――意味ありげな――を浮かべながら言った。
「私はもっと大きい方が好きよ」
そしてグラン・カルム通りの方へ歩き出す。なるほどね、こんな小さい像じゃなくて、もっと大きくて、広場の真ん中にでも立ってたら良かったのにって意味だと思っておくよ。
続いて、ボン・スクール通りにある“リック・オシェ”。ここは昨日来たノートル・ダム・ド・ボン・スクール教会のすぐ近くだが、この道は通らなかったので、もちろんこの絵のことも知らない。
2階の屋根にぶら下がって落ちそうになっているのがリック・オシェという男で、それを助けようとして窓辺――もちろん絵の窓だ――に女がいて、1階の戸口にいるブルダン警部がそれを見上げながら驚いている、という構図だ。リックはジャーナリストだが、活動的なアマチュア探偵でもあるのだろう。
で、この建物は民家で、特に重要なことは何もない。
「あなたはああいうアクションに向いてると思うけど?」
「しないよ。俺は解錠が専門だから、1階のドアから入るのさ。ところで、君が市立博物館に入ってきたときの手口はなかなか良かったけど、何が専門なんだ?」
「だから、モデルよ」
「俺には本当のことを教えてくれてもいいと思うけど」
「教えたくないこともあるのよ」
「解った。だが、一つ忠告させてくれ」
「何?」
「尻を大きくしたら、狭い隙間を通れなくなるから、注意した方がいいな」
「そうなったら、引退して結婚するわ。私のお尻が好きな男を探して」
セシルは澄ました顔で言うと、アンスパック通りの方へ歩き始めた。次はサン・ジェリー通りにある“ネロ”。団子鼻で頭に毛が2本しかない太っちょの男が、木に登って鳥を捕ろうとしている。どことなく日本のテヅカの絵に似ているが、もちろん作者は違う。建物は床屋。
その隣に、“
観光客は壁の絵よりも市場を見に来ている方が多いようだ。もちろん、少なからぬ人がセシルに気付いて名前を呼んだりカメラを向けたりしている。どこへ行ってもこの調子か。慣れてはいるだろうが、外へ出たら“セシル・クローデル”のイメージを保ち続けなければいけないのだから、大変だろうな。
次はオート通りへ行くが、これは結構遠い。1マイルはあると思うが、セシルは「もちろん歩いて行くわよ」と先に立って歩き出す。そのために踵の低いウォーキング用の靴を履いてきたのだろう。横に並び掛けながら、俺も早足で歩く。もっとも、最高速度というわけではない。
「あなたは、私と並んで歩くのと、私の後ろからお尻を見ながら付いてくるのと、どっちが好き?」
セシルが変なことを訊いてきた。デボラが言いそうな質問だと思う。それに、俺は尻の評論家じゃないっての。
「もちろん、並んで歩く方がいいよ。そして、時々君の顔を見たり、話をしたりすると楽しいだろうな。もし、これがデートならね」
「じゃあ、腕を組むのと手をつなぐのと、どっちが好き?」
「ゆっくり歩くときは腕を組みたいが、こうして早足で歩くのなら手をつなぐ方が……」
「じゃ、つないで」
なぜそんなことを。横に連れているのは“恋人”であることを満天下に示したいのか? 今回は俺を恋人扱いにしてもらってるようだから、何の文句もないけど。
左から彼女に並びかけたので、必然、右手で彼女の左手を握る。しかし、恋人どうしのデートとは思えないほどのスピードで、歩きに歩く。
グランド・イル通りから、フォンテーナ広場を抜けて、ボガール通りへ。途中に寄れる“壁画”は全部、ただしどれもちらりとだけ見ていく。アレクシアン通りを過ぎ、アンブラール通りを横切るところで、信号に引っかかった。
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