ステージ#8:第7日

#8:第7日 (1) 真夜中の猫

  第7日-2041年4月7日(日)


 夜中の1時というのは泥棒にとって少々早い時間帯なのだが、明日のロンドのせいなのか、みんな早寝をしたらしく、ホテルの周辺は人通りもない。もっとも、グラン・プラス辺りなら12時まで開いている店もあるだろうから、まだ人がたむろしていたりするだろう。

 しかし、そこから遠く離れた王立美術館の近辺は夜中のデートを楽しむペアもなく、俺が一人で歩いていても怪しまれることすらない。ただし、途中の芸術の丘にある庭園の中で何かしているペアなら何組かいたようだ。わざわざ外でするな!

 聖ジャック・クーデンベルグ教会は、12時まではライト・アップをしていたようだが、今は全ての灯りが消えている。その横、ベルビュー博物館の入口の前に立つ。

 もちろん扉は閉まっているし、錠も掛かっている。が、錠のタイプは知っている。ピンタンブラー錠だ。電子錠の方がもちろんセキュリティー・レヴェルは高くなるのだが、たとえ博物館といえど、国宝級の逸品や、値の張る絵画を置いていないと、ここまでレヴェルが下がる。

 俺にとっては都合がいいことだし、現実の世界ではもっとセキュリティーがしっかりしていても、仮想世界用にレヴェルを落としているのではないかという穿った見方もできる。

 ともあれ、開けて中に入る。錠が上下二つあるが、どちらも同じ鍵で開くものだったので、造作もない。

 中に入り、懐中電灯フラッシュ・ライトを点け、階段を降りる。館内に赤外線系の防犯センサーがないのも、夕方来たときに判っている。夜になって、外の気温は下がっているが、地下の温度は夕方とほとんど変わっていない。ただし、やはり寒い。

 ゲート・マシーンを乗り越え、迷宮を歩いて、“博物館”のエリアに出る。さて、ここからが問題。展示用のガラス・ケースはチューブラー・ピンタンブラー錠で、これも開けるのはさほど難しくない。ただし、俺は開けるつもりはない。これを開けに来る人物を待つ。どれくらい待てばいいのか判らないし、もしかしたら今夜は来ないかもしれない。

 とにかく、この“博物館”を見張れる場所を探す。探したが、適当な場所が見つからないので、近くの部屋に隠れて、音だけ聞いておくことにする。

 電灯ライトを消すと真っ暗になり、地下墓所カタコンベに忍び込んだようで、気味が悪い。寒いが身体を温めるために走り回るわけにもいかないし、上着を持って来ればよかったと後悔しながら待つ。

 頭の中で秒を数え、1分間に1回ずつくらい時計を見る。2時を回って数分経った頃、廊下から微かな足音が聞こえてきた。靴音ではない、裸足の足音だ。意外に近い。俺は耳がいい方だが、かなり近付くまで聞こえなかったから、よほど忍びやかに歩いてきたのだろう。まるで、猫のように。

 その“猫”が、ほんの僅かな足音を立てながら、俺が隠れる部屋の前を通り過ぎる。電灯ライトも点けず真っ暗なのに、それでも廊下が見えているかのようだ。廊下の配置を憶えていたのだとしたら、大した記憶力だ。俺の方は動かずに、廊下の先で何が行われるかを、音だけで“聴察”する。相手も、真っ暗な中ではガラス・ケースすら見えないだろうから、そこでは灯りくらい点けるだろう。

 と思う間もなく、部屋の入口から見える廊下が、ほんの僅か明るくなった。蝋燭のような、頼りない灯りだ。そして、もしケースの中にあるヴェネツィアン・グラスがターゲットであれば、“猫”がそれを手に取って確認したときに、俺にも通知が行われるはずだ。

 しばらく待つと、ガラスがきしむような音が聞こえてきた。が、何ごとも起こらない。再びガラスがきしむ音がして、灯りが消えた。どうやら外れだったようだ。そしてまた足音が聞こえ、去って行く。全く聞こえなくなってから3分待って、ようやく腰を上げる。

 さて、“猫”は次にどこへ行くだろう。3分も待っていたので後を尾けることなどできず、予想するしかないが、次は聖ミシェル大聖堂であろうと推察する。もちろん、そちらに行ってからここに来たのなら大外れだが、大聖堂に行ってみて誰もいなければ、次の所へ行けばいい。

 博物館を出て、コーニンク通りは広いから人目があるかもしれないので、その西側の裏道を通っていく。ラヴァステン通りから、カンセラリ通りへ。建物の窓からところどころ漏れてくる灯り以外、何も照らすものがない、ほとんど真っ暗な道だ。

 道に沿って緩やかに曲がると、星空をバックにして大聖堂のシルエットが見えてきた。出た先は南側の側面なので、西側の正面へ回る。中に入ると“猫”にバレてしまうかもしれないが、バレたら早々に退散することにして、入口の錠を開ける。ここもピンタンブラー錠だった。

 宝物庫というと地下を想像してしまうが、実は地上階の祭壇の左奥、北東の一角がそれだ。これは、リーフレットに書いてあった。袖廊トランセプトの一部が仕切ってあり、その先に宝物庫とチャペルがある。仕切りにはもちろん錠付きの扉が付いてるが、そこは開けず、音だけを聞く。

 中で微かな足音がする。うん、結構。“猫”がいることだけ判ればそれでいいので、こちらも足音を忍ばせて、外に出る。もちろん、ここで“猫”がターゲットを獲得したら俺にも通知が来るはずだが、何事も起こらなかった。

 もう1ヶ所、行くところがあるのだが、そこには先回りしたいので、大聖堂の外に出て、ベルグ通り、フーヴェル通りを抜け、グラン・プラスへ。

 3時前なので、さすがに人はいない。が、時折、警官と思われる人影が通り過ぎる。急いで市立博物館に入ってしまいたいが、あいにくこの建物は正面の入口しかなくて、“裏の通用口”からこっそり、などということができない。僅かな幸いは、建物の正面が回廊のようになっていて、その柱にうまく隠れながらなら解錠ができそう、というだけだ。

 もちろん、そのとおりにするしかなくて、しかし、こんな建物のピンタンブラー錠なら一瞬で開けられるので、誰も見ていないことを祈りながら、開けて入った。

 1階の奥の洗面所に隠れながら、“猫”が来るのを待つ。と、隣の女子用で音がする。まさか、そこから入ってくるのか! これは昼間来たときに何か仕掛けをしておいたんだな。用意周到なものだ。

 微かな足音が出ていくのを待ち、その後をそっと追う。ただし、俺の方は靴は脱がない。いざというときに、逃げにくいからな。“猫”は予想どおり3階に上がったらしい。銀器を一通り確認するつもりだろう。

 小便小僧の衣装部屋から、特別展示室をそっと覗く。ペン・ライトの頼りない灯りが揺れている。時折、“猫”の身体の線がシルエットになって映し出される。何という素晴らしいプロポーション。やはりセシルだったか。

 身体にぴったりフィットした、黒いボディー・スーツかライダー・スーツを着ているらしい。いかにも泥棒らしい格好で、感心する。モデルを隠れ蓑にした、本職の泥棒なんだろうな。名画泥棒か、宝石泥棒か。

 セシルはケースを一つ一つ開けながら、いくつもある聖杯型の銀器を取り出し、腕を近付けて確認している。そういう器は7、8個もあったと思うが、それらを全て確認しても、何事も起こらなかった。セシルは腕を組み、悩ましげで色っぽいため息を一つついた。彼女の考えは全て間違っていたということだが、俺の最初の考えも同様に全て間違っていた、というわけだ。

 さて、彼女はこれからどうするかな。1階の陶器と白鑞器ピューターも確認しに行くか。たぶん行かないだろう。セシルが銀器を全て元通りに片付け、1階に降りていくのを見送る。その後で俺も降り、陶器と白鑞器ピューターの展示室に行ってみたが、セシルはいなかった。その他の部屋も回ってみたが、どこにもいない。

 最後に女子用洗面所に入り――こんなことは普段なら絶対にできないのだが――、窓を確認すると、クレセントが外れていた。やはり。それを掛けておく。そして隣の男子用に入り、窓を開けてみたが、格子が嵌まっていた。隙間は狭くて、俺なら絶対無理だが、セシルは出られたのだろう。スリムだからなあ。

 仕方なく、正面から出ることにする。扉を開けた瞬間を誰かに見られるのが一番困るのだが、ほんの少しだけ開けて隙間から外を確認しながら、そっと滑り出た。誰にも見つからなかったようだ。

 さて、セシルがこの後、どうするのかは判らないが、俺はもう一つ行く場所がある。グラン・プラスを斜めに横切り、市庁舎の左手、“黄金の木ラルブル・ドール”という名が付いているが、要するにビール博物館だ。元はビール醸造ギルドの建物だったものだ。入口は奥まっていて、市立博物館に侵入するときほどは目立たない。型の古くなったピンタンブラー錠を開けて中に入る。


「ふぅん……」

 グリーンが静かな吐息を漏らした。レッドが小さく舌打ちをする。ブルーは薄い笑みを浮かべてディスプレイに見入っている。右上に表示された訪問場所リストの、1行だけ赤くなっていた文字が、緑に変わった。同時に"ALL GREEN"のメッセージが表示される。グレイはデスクの上に両手で頬杖をつき、特に表情もなく、ホログラムの被験者エグザミニーを見つめていた。


 地下1階が展示施設だが、博物館といっても、狭いバーのような広さのスペースに、昔のビール醸造に使われた道具が置かれ、解説用のヴィデオ映像を流すためのスクリーンがあり、“試飲”用のテーブルとカウンターがある、といった具合だ。

 ただし、醸造道具の一部は貸し出し中――アントワープのMASへ――なので、そのスペースが空いていて、代わりにガラス・ケースが置いてある。中にはビール用のカップやマグがいくつか陳列されている。どれも陶器製の古い物だが、その中に一つだけ脚付きのカップがある。

 白地に金で綺麗な絵が描いてある。どこかで見たような気がしないでもない絵だが、下に説明書きが付けられている。曰く、"Caliceカリス de Rubensルーベンス"。ルーベンスがこれを使ってビールを飲んでいたなんて冗談だとは思うが、そう書いてあるんじゃあ仕方ない。

 ガラス・ケースの錠を開け、その"Caliceカリス"を取り出し、腕時計にかざす。辺りは真っ暗なままで、幕が下りているかどうかすらも判らない。

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