#8:第6日 (5) 三つの候補

 次は王立美術館へ行くが、その前にチョコレート博物館とビール博物館の位置だけを確かめておく。美術館を出るとグラン・プラスで、正面に立派な市庁舎があり、その右手にあるのがチョコレート、左手にあるのがビールだ。どちらも元々は普通の店だったのを改装したようだ。

 観光客が増えてきて、自転車に乗ると危ないので押して行く。グラン・プラスの南端から出ようとしたとき、「アーティー!」と聞き覚えのある声がした。もちろん、俺を呼ぶのは彼女しかいない。レストランの戸外オープン・エア席でデボラが手を振っている。こんな中途半端な時間に食事か。ビールまで飲んでいる。

「やあ、君もブリュッセルに来たのか」

「ええ、最初から予定してたのよ。日帰りだけど。調査は進んでる?」

五里霧中リング・ワンダリングだな。調べれば調べるほど判らなくなるよ」

「あなたなら大丈夫。頑張って」

「中立なのに応援してくれるのか」

「だって、あなたが勝ったら夜のデートに誘ってもらえるから」

 話が逆だな。普通は「勝ったらデートに誘ってあげる」と言って励ますもんだろうよ。まあ、いいか。

「ご期待に添えるように全力を尽くすよ」

「ええ、楽しみにしてるわ」

 手を振って別れ、シャプリエ通りからヴィオレット通りへ抜けて、サン・ジャン広場に出る。王立美術館へは南東に延びるオピタル通りを行くのが近いのだが、デュケノワ通りを北東へ行く。正面にヒルトン・グラン・プラスが見えているが、目的はそこではなくて、その手前の聖マリア・マグダレナ教会。ここが先ほどの“教会ツアー”中に寄らなかった唯一の教会で、理由はここだけが格段に小さいからだ。

 煉瓦造りで、その煉瓦の積み方もかなり乱雑。中は観光客もおらずひっそりしている。窓はステンド・グラスなのだが、中はなぜだか薄暗い。祭壇には燭台もない。

 一瞬だけ見た後で、ホテルへ行く。アントワープから荷物が届いていることを確認して――自転車で来るので、送ってもらった――、途中にある“芸術の丘”をちらりと眺め、王立美術館に到着。2階建てだが、1階にはさほどの展示はなくて、メインは2階。15世紀から18世紀の、主にフランドル派の古典絵画を集めてある。

 やはりルーベンスが多く、その他にはブリューゲル父子、ヴァン・ダイク、テニールスなどがあるのだが、見ているうちにここはたぶんターゲットと関係ないという気がしてきた。30分くらいは見る予定だったところを15分に短縮し、館内でつながっているマグリット美術館、世紀末美術館も無視して、ベルビュー博物館へ行く。2時間ほど前に見た聖ジャック・クーデンベルグ教会のすぐ北側だ。

 元々ここにはクーデンベルグ宮殿が建っていたのだが、18世紀に火事で焼失。その後、ホテルが建てられたが、20世紀に入ってから営業を休止。1977年に博物館として開館、2005年にリニューアルして再開館。

 展示はベルギーとベルギー王室の歴史が中心だ。とはいっても、昔の生活用品や電化製品、古い車の模型に鉄道模型、ベルギーの有名なクリスタル・ガラス・メーカー製の花瓶やビール・グラスなど、雑多としか言いようのないものが陳列されている。

 王室の歴史は写真展示が多い。しかも展示方法が子供向けというか、展示用パネルがジャングル・ジムのようなフレームに支えられていたり、そのパネルを手でぱたぱたと動かさなければならなかったり、ディスプレイの映像を見ながらボタンを操作したり。それが王宮風の重厚な部屋の中にあるというミス・マッチが面白いと言えば面白い。

 ただ、面白がってばかりはいられなくて、次は地下の展示施設へ行ってみる。地下には王宮、つまり、焼失したクーデンベルグ宮殿の巨大な遺構があるのだ。階段を降り、入場の時に渡されたコイン型のトークンをゲート・マシーンに投入すると、アームが回る。更に階段とスロープを降りると、上着が欲しくなるくらい冷え込んでくる。

 ライトで薄明るく照らされた廃墟の中の通路や部屋を見ていると、これこそアドヴェンチャー映画、という気がしてきた。デ・ルイエンよりも湿っぽくないのがいい。しかも、予想以上に広い。隣にある宮殿の地下まで入り込んでいるのだろう。

 綺麗な煉瓦積みのトンネルが残った廊下や、壁の一部が崩れかけた部屋、いくつもの廊下とつながったドーム状の広間、かつては地上とつながっていたであろう半壊した階段などを見て回る。途中に、発掘品を展示した小さな“博物館”がある。15世紀に造られた“使徒の像”や、ヴェネツィア様式のグラスが展示されている。グラス!

 対になって飾られている脚付きのグラスは、土の中から発見されただけあって、傷だらけで曇っているが、それなりの気品は備えているし、聖杯と言えなくもない。しかも王室で使っていたというのだから、ターゲットとしては申し分ない。しかし、判らなくなってきたぞ。ここにある“聖杯型のグラス”と、市立博物館にあった“聖杯型の銀器”と、聖ミシェル大聖堂にあるはずのまだ見ぬ“聖杯”と、三つも候補があるが、一体どれが正解なんだ?

 三つとも全部盗んでみるか、などと考えながら、博物館を出る。6時になり、もうどこの博物館もほとんど開いていない。が、辺りはまだ明るいので、可動範囲の調査をする。

 ブリュッセルの主要な観光地はR20道路の内側にほとんど集まっているのだが、東のサンカントネール公園の近くにもいくつか博物館がある。もちろん、もう閉館しているが、そこまで行けるかどうかだけは確認したい。

 王宮前の広場を東に行くのが一番早いのだが、閉鎖されている。祭のような賑わいで、たぶん、明日開催されるロンドの前夜祭か何かだろう。もしかしてここがスタート地点なのだろうか。

 王宮といっても、国王はここに住んでいなくて、川を挟んで北の方にあるラーケン王宮の方に住んでいるらしい。こちらの王宮は、夏期の一定期間だけ観覧用に一般公開されるそうだ。

 だからここで夜通し騒いでも王室には迷惑がかからないが、とにかくここは通れないので、コーニンク通りを北上し、ブリュッセル公園の北のウェット通りを東へ行く。R20道路との交差点を渡れば、サンカントネール公園まで一直線……と思っていたのだが、R20道路が渡れない! しかも上下車線の真ん中辺りに“壁”があるものだから、横断歩道を途中で引き返す羽目になってしまった。相変わらず不親切な仕様だ。

 ともあれ、R20道路が可動範囲の境界ではないか、ということは容易に推察できる。例外はたぶん北側の鉄道駅の近くだけだろう。道路は右側通行なので、それに沿って時計回りにR20道路を走ってみることにする。もちろん、全ての交差点で、道路の外側に行けるかどうかを確認するのは面倒なので、主要な交差点だけ調べる。

 南進し、まずはベリアード通りとの交差点を確認してみたが、不可。南へ行って、途中で南西に方向を変え、N4国道と分かれるラウンドアバウトがあったが、ここも不可。その次のN24国道も不可。上下線が分かれて、その間に広場が現れるが、そこが環状道路の最南端に当たる。

 広場の中にはハル門が建っている。この手の城壁都市によくある、出入りのための門だが、門というよりは城だ。やはりこの道路はかつての城壁の名残だ。一応、広場の中を少し歩いてみたが、ハル門には行けてもそれより南には行けなかった。公園の北半分だけしか歩けない!

 北北西に進路を取り、線路の高架をくぐる手前にあるN265国道、そしてくぐった先にあるジャマール通り、いずれも不可。北北西から北北東に曲がるところで分かれるN8国道もやはり不可。そこから川沿いに走るが、橋があるところはそれに近付くことさえできず。

 R20道路の北辺まで辿り着いた。東西方向に延びていて、ブリュッセルに最初に来たときにぶち当たった道だ。交差点を西へは曲がれず、東へ曲がるしかない。道のどこからか、北へも行けるはずだが、その可動範囲を調べるのは時間の無駄のような気がするので、東へ向かう。ヒルトン・ブラッセル・シティーの前を通り過ぎて、植物園の東側にあるN21国道の方に行こうとするも不可。少し先を南へ折れ、途中でN2国道の方へ向かおうとしても不可。

 スタート地点のウェット通りまで戻って来た。5マイルほどだったので1時間もかからなかったが、これほど範囲が狭いとは思わなかった。ともあれ、もはや調べるところもなくなったので、ホテルへ向かうしかない。出迎えてくれたフロント係デスク・クラークはやはり中年婦人だった。


 夕食はホテルのレストランにした。どこへ行くか考えるのが面倒だという理由に過ぎない。昨夜はたっぷりと栄養を取ったので、今夜はもちろん控えめ。前菜と肉料理は抜きで、季節のサラダと、ブルー・ロブスターのボイルを頼む。ブリュッセルは内陸だが、海産物もうまいそうで、ムール貝の白ワイン蒸しが一番お薦めだそうだ。貝類は好きだが、食べる手順が面倒だ。身を指で外して食べていいのなら頼むんだが。

 景気づけとして、ビールを頼む。この後のことを考えると、素面ではあまりよろしくない。ステラ・アルトワにした。ブリュッセルの東、ルーヴェンという町で作られるピルスナー・タイプ。これもゴブレットの形が特徴的だ。それを一人眺めながらニヤニヤしているのだから、料理を運んできたウェイターはさぞ困惑したことだろう。

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