#7:第7日 (5) 暗闇の指輪

 食事の後で、アイリーンをビーチへの散歩に誘ってみる。安物だがせっかく指輪を渡すのだから、ちょっとロマンティックな場所で、と言ってみたのだが、素直にOKしてくれた。いくらワインが入って気分がよくなっているとはいえ、暗いところへ行こうと誘う男に人妻が簡単に付いてくるのはどうかと思う。誘っている俺の方にも問題があるのだが、今夜ばかりはしかたない。

 マクロッサン・ストリートを東に歩いてビーチに出る。ところどころに、木立から漏れてくる家や街灯の薄暗い明かりが見える程度で、ほとんど真っ暗だ。あまりにも情緒がなさ過ぎるので、記憶を頼りに近くの階段を登り、昼間なら4マイル・ビーチが見渡せるはずの、少し広くなった場所に出た。眼下にささやかな夜景が広がっている。他に人がいなくてよかった。

「あら、素敵! ここは知ってたけど、夜はこんなふうに見えるなんて知らなかったわ」

「近くにある場所は意外と行かないものさ。でも、こんなに暗いとは思わなかったな。これじゃあ指輪が見えない。ちょっと照らしてみるか」

 ポケットから指輪ケースを取り出して開け、もう一方の手でペン・ライトを持ってケースの中を照らす。弱々しい光だが、石を照らせばそれが輝いて、値段以上にいい指輪に見える。

「あら、石が付いてるのね! 素敵だわ。青いから、サファイアかしら?」

「そうだ。0.1カラットくらいしかないがね。サファイアは好きか?」

「ええ、好きよ。私の誕生石とは違うけど。ルビーよりはサファイアの方が好きだわ」

 サファイアってのは“色欲を封じる”効果があるらしいから、彼女にぴったりだと思ったんだが、彼女自身は知ってるのかね。俺も今日、宝石店の店員に聞いて始めて知ったし、普通は夫が妻に浮気をさせないために贈るらしいから、俺が彼女にサファイアをプレゼントするのは間違ってるような気がするけれども。

「ねえ、これ、本当にくれるの?」

「もちろん。が、俺は今両手がふさがってるから、自分で着けてみてくれないか。落とさないように注意してくれ」

「わかったわ」

 アイリーンが左手で指輪を摘まんだ。そしてそれを右手の薬指にはめる。左手にはめなくてほっとした。ペン・ライトで右手を照らしてやる。

「ぴったりだわ! ねえ、どうして私の指のサイズを知ってたの?」

 それには答えずにペン・ライトを消した。辺りがまた真っ暗になる。

「あら、どうして消しちゃうの?」

 アイリーンが驚いて声を上げたが、危機感は全く感じられなかったので、それもどうかと思う。とにかく、ここからが肝心なところなのだが、うまく行くかどうか。目の前に立っているアイリーンの影に向かって両手を伸ばし、背中に腕を回してしっかりと抱きしめてやった。

「あっ……」

 アイリーンがまた驚きの声を上げたが、全く抵抗しようとせず、むしろ全身の力を抜いて身を俺の方に預けてきた。どうしてそうなるのかと思うのだが、彼女は男から抱きしめられることがよほど好きなのだろう。何しろ筋肉フェティッシュらしいから。

「アーティー……どうしたの?」

「君が強く抱いてもいいと言ったから、それを実行しているのさ」

「ああ、そうなのね……ありがとう、あなたの抱き方、とっても優しいわ……」

 そう言ってアイリーンは無抵抗を続けている。それどころか、彼女の方からも腕を俺の背中に絡めてきた。それにしても、胸の辺りの弾力がすごい。仮想世界の人間とは思えないくらいだ。彼女の顔はちょうど俺の肩の辺りにあるが、ため息のような深い息がちょうど俺の首筋に当たってくすぐったい。髪からは、香水と、微かな潮の香りが立ち上ってくる。

「どれくらい抱いていればいい?」

「あなたに任せるわ……」

「ランドール君はどれくらい抱いていたんだ?」

「憶えてないわ……でも、彼の抱き方はもっと強くて……」

 アイリーンがそこで言葉を止めて、呼吸も止まる。そしてしばらくした後で、一際深く長い息を吐いた。

「ごめんなさい……やっぱりあなたには判ってたのね……」

「そうでもない。単なる勘だ。間違っていてくれた方がよかったと思ってるよ」

「もう離していいわ。全部正直に言うから……」

「このままでいいよ。たくさんしゃべってくれれば、それだけ長く君を抱いていられる」

 こんな台詞は考えただけでも恥ずかしいのだが、今夜ばかりはしかたない。アイリーンの話すところによると、アスリート・ガイと最初に会ったのは日曜日、彼がツアーに参加した時から。彼女がスノーケリングを指導したのだが、休憩時間に彼女が彼に話しかけて――もちろん、彼の筋肉を鑑賞するのが目的だったらしいのだが――そうしたら彼は実は出版社から取材に来たのだと自己紹介した。

 仕事の後でいいからとインタヴューを申し込まれ、食事をおごってもらいながら、色々話をした。しかも、月曜と火曜は彼女は仕事が休みだったのだが、取材に協力して欲しいと熱心に申し込まれ、彼女の夫もどこかに遊びに行ってしまったこともあって、デートのような形で彼の取材に付き合うことになった。

 ここを訪れる有名人がいたらインタヴューしたいと言っていたので、フレイザー夫人がツアーに申し込んでいることを教えたら、根掘り葉掘りインクイジティヴ聞かれた上、インタヴューの仲介を頼まれたり、指輪について話を聞いてきて欲しいと言われたりした。断ろうとするたびに抱きすくめられてうっとりしてしまうので、断り切れなかった、ということらしい。

 いやはや、どれだけ筋肉に弱いんだ。今だって彼女の手が俺の背中を上下しているのだが、背中の筋肉の具合を確かめられているんじゃないかという気がする。

「それで昨夜もあんなに指輪を話題にしたのか?」

「ええ、彼はどうしても指輪の写真を撮りたいんだけど、ノーミがOKしてくれないから、指輪の置き場所だけでも聞いてきてくれって……彼女は明日……って今日のことだけど、あの指は着けないと言っていた、だから彼女が出掛けている間に、ホテルの知り合いのスタッフに頼んで部屋に入れてもらって、写真を撮るだけだからって……ねえ、彼は本当に、指輪を盗むつもりはなかったんでしょう?」

「さあ、俺には判らないな。それで君も今日、彼にそのことを訊こうと思っていたが、彼は約束と違って来なかった。そうだろう?」

「ええ、そうよ……ツアーが終わる頃に彼がマリーナに来て、その後、食事に連れて行ってもらう約束だったけど……さあ、もう全部話したわ。離してもらってもいいわよ」

「あと一つだけ。彼は俺のことも調べて欲しいと言っていた?」

「いいえ、でも、取材の邪魔になりそうだから、できればあなたの気を惹いて、ノーミから遠ざけてくれないかって言ってたわ」

 それで金曜日も来るように誘っていたわけか。いくら筋肉のためとはいえ、節操がないな。俺とランドール君のどっちの筋肉が好きなのかは敢えて訊くまい。

 解放して、肩に手を回しながら、一緒に階段を降りる。マクロッサン・ストリートまで戻ってから、街灯の下でノーミの顔を見たが、まだうっとりと夢見るようなのぼせた表情だった。

「お別れね、アーティー。この指輪、本当にもらってもいいの?」

「もちろんだ。その指輪は、親切丁寧にスノーケリングを教えてもらってくれたことへのお礼だよ。他意はない」

「ありがとう、大切にするわ。もしまたここへ来ることがあったら、ツアーに参加してね。そして一緒にダイヴィングしましょう」

 軽く抱擁ハグし、頬へキスをした。アイリーンはマリーナの方へ戻っていったが、彼女がどうやって家に帰るのかは判らない。もしかしたら、彼女の夫とどこかで待ち合わせをしているのかもしれない。

 8時頃にホテルへ戻り、部屋に閉じこもる。メグへの手紙を書く時間が全くなかったので、ホテルを出るまでの1時間で仕上げなければならない。こういうときに世話係がいるのは便利で、荷物のまとめはメグがすっかりやってくれていた。しかし、あの大量の服はどうしたのだろう。後で訊かなければならない。

 それはそれとして、ラップトップを借りて手紙作りにいそしむ。音声認識付きの情報端末ガジェットがあれば一番便利だったのだが、この時代にはそんなものがなかった。手紙に何を書くかは、空き時間に少しずつ考えた言葉があるので、それをまとめて手紙らしくするのに1時間、更に便箋に手書きで!清書するのに30分かかった。

 出発の時間を過ぎているが、最後にノーミと会わなければならない。なので、出るのを1時間遅らせてくれるよう、メグに頼んだ。場所はプランテーション・バーにした。服装をあまり気にしなくてよく、エントランスにも近くて、出たらすぐに車に乗ることができる。

 そのバーへ行くと、既にノーミは来ていて、窓際の席でカクテルを飲んでいた。珍しく、ワイン・レッドのドレスを着ている。見た目が新鮮だ。

「やあ、待たせた」

「いいえ、ちっとも。それより、ご出発前のお忙しいときにわざわざお招きいただいて、嬉しいですわ。ご滞在中に色々と付き合っていただいたので、お見送りしようと思っていましたから」

「そこまでしてもらうほどのことはしてないよ」

「でも、指輪を守っていただきましたから」

「ああ、そのことだが」

 そこでいったん話を切り、ウェイターを呼んで、オレンジ・ジュースを注文する。既にワインが入っているので、今夜はフロリダすら飲めない。

「夕方、ホテルに戻ってきてから、何もなかったかい?」

「テリーザがいなくなりましたわ」

 そう言ってノーミは明るく微笑んでいる。メイドがいなくなるのは笑いごとじゃないと思うのだが、どうやら彼女にとっては想定の範囲であるらしい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る