ステージ#7:第7日
#7:第7日 (1) おやすみ、泥棒君
第7日-2002年2月9日(土)
夜更かしをするのが楽しみだという人間は多いかもしれないが、TVも見ず音楽も聴かず、暗闇で身動き一つせずに木の床に寝転がって過ごすのが好きという人間は、この世に一人もいないだろう。そういう間抜けなことを始めて既に1時間。夜が明け始めるまでにはあと2時間ほどある。そろそろ待ち人が来てくれないと、苦労の甲斐がないというものだ。
ラグーン・プールを照らす灯りは12時でほとんど消えてしまったし、月はようやく昇り始める頃で辺りはほぼ真っ暗だし、今くらい絶好の時間帯はないと思うんだが。それともあと1時間待たなきゃいけないのか? 星の数でも数えようか。筋肉が硬直して、いざとなったら起きられないぞ。
そういえば、シャーロック・ホームズのシリーズの中に、ホームズが暗闇で悪党を待つシーンがいくつかあったな。『赤毛』と『まだら』と『空家』と? 『ガリデブ』は夕方だったかな。1分に時計を2回見たとか、なかなかの心理描写があった気がするが、今の俺はそれもできない。それに……ああ、ようやく来たか。
屋根からロープが1本、音もなく垂れ下がってきた。どうやって屋根に上がったんだろう。どうでもいいか。それからしばらくは何事も起こらなかったが、5分ほどして、ロープを伝って誰かが降りてきた。
下のプール付近の、僅かな灯りに照らされて、ぼんやりとした黒い影としか見えない。木の床が微かにきしむ音がして、影がバルコニーに降り立った。しかし、そのまま動かない。辺りの様子を窺っているのだろう。さすがは泥棒。たぶん素人だろうけど。もちろん、俺の方も動かない。
1分間に2回くらい時計を見る仕草をして、それを10回くらい繰り返してから、ようやく影が動き始めた。足音を忍ばせて、窓に近付く。窓の戸締まりは大型クレセントだから、ピッキングなんかでは開けられない。もちろん、ガラス・カッターで穴を開けようというのだろうが、そんなことを許すわけにはいかない。修理代なんかは気にしないが、俺がやったと思われたらたまったものじゃないからな。
相手がまだ準備中なのを見越して、音がしないようにゆっくりと起き上がり、
「
気を遣って顔を直射しないようにしてやっているが、身体つきで誰だかは判別できる。ハンサムで体格のいいランドール氏だ。予想どおりかな。アスリート・ガイは彼は慌ても逃げもせず、俺の方をじっと見て、ため息を一つ付いてから言った。
「気付いてたのか」
「そうでもない。来るという確信はなかったからな。まあ、確率は半分くらいだと思っていた。来てくれなかったら睡眠不足で、今日が使い物にならなくなるところだった」
「俺をどうするつもりだ?」
やけに落ち着いているな。こういう状況には慣れているのかもしれない。出版社の人間ということだったが、スクープのために色んなところに忍び込もうとして、何度も捕まった経験があるのかも。
「さあてね、どうしようか。屋根からここに降りてきたというだけで、窓を破ったわけでもないから、器物損壊で訴えるわけにもいかないし。せいぜい、私有地への不法侵入で警察に突き出すくらいかな」
「他に証人は?」
「中にいるよ」
「俺の負けだ。ホテルの警備員でも警官でも呼んで来いよ」
「ところで、首尾よく忍び込んで、指輪を奪ったら、どこから帰るつもりだった?」
「さあな、部屋のドアから出られるのならそうしただろうが、ダメならここからプールへ
なるほど、彼ならできそうだ。距離的には俺でもできそうだが、下が水なのがなあ。せめてエアー・マットなら。
「夜中にプールに飛び込むと、他の泊まり客が驚くだろう。大人しく部屋のドアから出て行ってくれるんなら、見逃してやるよ」
「
「ただし、もう二度と入ってくるなよ。それから、俺の世話係には指一本触れるな。もし彼女に手を出したら、それこそ俺は正気を失うだろうな」
もちろん、彼がそういう卑怯なことをするとは思っていなくて、力ずくで俺から指輪を奪おうとしても、体力なら互角だぞということを警告したつもりだ。アスリート・ガイが両手を持ち上げて
「約束するよ」
「では、お別れだ」
もう一度、
階段を降りるときに、窓を閉める音が聞こえてきた。ガイにドアを開けさせ、外に送り出す。
「おやすみ、ランドール君」
せっかく挨拶をしてやったのに、振り返ってこちらを見ただけで、無言で出て行った。念のためにドア・チェーンを掛けて振り返ると、メグが階段のところからこちらを覗いていた。
「あの……彼は出て行ったのでしょうか?」
「出て行ったよ。上の窓の錠は閉めた?」
「はい、閉めました。でも……どうしてバルコニーから入ってくることが、お判りになったのですか?」
それは後で話すと言ってあったからな。2杯目のフロリダを作ってもらった後で彼女に、2時になったら起こしてくれるように言った。2時までは彼女も仮眠していいと言っておいたのだが、結局、緊張で一睡もできなかったらしい。
2時に起こしてくれたときに、その後の作戦を説明し、俺がバルコニーに出ている間、部屋の中で待っていてくれるように頼んだ。
とりあえず、ソファーに座るように勧める。睡眠不足で目を少し赤くしているが、美貌がほとんど損なわれていないのが何よりだ。しかし、いつもより力のない座り方は、思わず支えてやりたくなるほど。
「他に入るところがない。この部屋のドアは電子錠だし、開けたとしてもドア・チェーンが掛かっている。それを無理に開けたら大きな音がしてしまう。それに、この部屋の窓は2階で足場がない。だが、上の部屋ならバルコニーがある」
「でも、屋上から降りてくるなんて……」
「高層住宅で泥棒が一番入りやすいのは屋上の直下の部屋だそうだよ。身軽な奴なら、ロープを使わなくても屋上からヴェランダに飛び込めるらしい」
もちろん、俺はピッキングが目的なのでそんなことはしない。そういえば、屋根からぶら下がっているあのロープはどう始末すればいいだろう。屋根に放り上げておくか。
「そうなのですか。では、3時から4時の間に来るというのは?」
「部屋の灯りが点いていたら入れない。灯りが消えて、寝静まった後で、夜明けまでに侵入して目的の物を探さなきゃならないとなったら、それくらいの時間に来るさ」
そのために部屋の灯りを点けたまま寝て、2時に起きてから消した。灯りを点けて寝るのはアイマスクをしていても苦手なんだが、今回の場合はしかたない。
「そうなのですか。やっぱり、あなたには全てが判ってらっしゃるんですね……」
だから、どうして俺が全て判ってるのが当然と思ってるのかなあ。一体俺は何の権威だと思われてるんだろうか。犯罪学か?
「さて、とりあえずこれで、夜明けまでは安心だろう。俺はもう一眠りするから、君も部屋に戻って寝なよ」
「はい、ありがとうございます。でも私、何だかまだ興奮していて、寝られそうにありません。それに……部屋の外に出るのが怖くて……控え室まで戻れそうになくて……ですから、夜明けまでここにいさせていただけないでしょうか? もちろん、夜が明けたら控え室に戻りますから……」
待て待て待て、君は自分で何を言っているか解ってるのか? たとえ2時間ばかりとはいえ、人妻が、夫でもない男が寝ているすぐ横に
「じゃあ、上の部屋を使うといいよ。そこなら錠も掛けられる」
「でも、上はバルコニーが気になりますから……」
「もう誰も入ってこないよ」
「ですけど……」
困ったな、どうすりゃいいんだか。しかしここで、俺が上の部屋で寝るなんて言うと、心細いから一人にしないでとか言うに決まってるし、泣き出されたらたまったもんじゃない。しょうがないから彼女の好きにさせるか。俺が色々と我慢すればいいだけだ。まったく、世話が焼ける世話係だなあ。
「灯りを消して、30分でも1時間でもいいから寝るように努力すること。いいな?」
「はい……はい、
メグはしおれた花のようにシュンとしているが、その姿が危険なほど愛おしい。本当に彼女は30歳なのだろうか。架空世界だけの設定であって、現実世界ではもっと若いのかもしれない。
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