#7:第6日 (6) 涙の理由
「結局、彼女がこれを俺に預けた理由がよく解らないんだがね。もしかしたら、なくすことよりも、盗まれることを心配したのかな。彼女と親しくしようとしていた男が3人ばかりいたが、そのうちの誰かがそういう素振りを見せたのかもしれない。まあ、いずれにしろ、明日の朝になればこれを彼女に返せるわけで、その時にもう一度理由を訊いてみてもいいかと……」
妙な雰囲気を感じて、言葉を止めた。メグの様子がおかしい。小刻みに肩を震わせていたが、突然、うつむいたかと思うと、顔を両手で覆って泣き始めた。
「メグ、どうした!?」
「申し訳ありません……申し訳ありません……私、私は……」
なぜ泣いているんだ? 俺がこの指輪を軽々しく扱っているのが、それほど彼女の気に障ったのだろうか。まずいな、やっぱり指輪のことは言うべきじゃなかったな。しかし、理由もわからず泣いている女への声のかけ方を知らないので、黙っているしかない。
しばらくして、ようやくメグが顔を上げ、手を膝の上に揃えた。あの神々しいまでに魅力的だった笑顔はすっかり消え失せて、涙で濡れた頬がプールの灯りで輝いている。
「申し訳ありません、取り乱してしまって……でも、やっぱりあなたには、全てを見抜かれていたんですね……」
何のことを言っているのか判らない。メグが一人で何かを勘違いしているとしか思えない。とにかく訊いてみることにする。
「話してくれ」
「はい……私、夫に頼まれて、一昨日からフレイザー夫人の指輪のことを調べていました。夫は探偵です。夫人に迷惑はかけないから、とにかく指輪の話を聞いて欲しいということだったので。もちろん、夫人に直接お話を伺うことはできませんから、ジャッキーにそれとなく話を聞いてもらうくらいで……」
何とね、メグの夫が探偵で、彼女が内通者だったってことか。指輪のことを調べてたってことは、あの3人のうちの誰かと契約でもしてたのかな。
「私が夫人に遠慮して、情報をあまり集められないので、彼は、夫人のスケジュールを教えてくれと言いました。私は、スケジュールはお客様のプライヴェイトに関わることなので、教えられないと断りました。そうしたら彼は、ホテルのスタッフの誰かを買収したらしくて……」
「君は彼に、そういうことはやめてくれと言ったが、彼は聞き入れてくれなかった」
「はい……やっぱりあなたは、ご存じだったんですね……」
いや、全然何も知らないよ。今聞いた話から、想像できるありがちな展開を言ってみただけだ。何しろここは架空世界だからな。
「もしかしたらフレイザー夫人も、探偵に調べられていることを知っていたかもしれないな」
「そうかもしれません。とてもご聡明な方ですから……彼はその後も、私に色々なことを頼んできましたが、私は全て断りました。ジャッキーやテリーザにも、夫人のスケジュールや行動のことを、他の人に話さないように注意しました。でも、彼の依頼を断り続けるのは、とてもつらかったです……あなたのお世話をしている時は、それを忘れることができました。ただ、信じていただきたいのは、つらさを忘れるために無理をして楽しそうに振る舞っていたわけではなくて、あなたと一緒にいるときは、本当に楽しくて……」
いや、メグの笑顔が本物なのは信じていて、全く疑わなかったけどね。しかし、こんな思わぬ告白をされて、俺は一体どうしたらいいんだ。だいたい、ヴァケイション・ステージなのに、どうしてこんなミステリーまがいのシナリオが含まれてるんだ?
「済まない、君にそんなつらい告白をさせるつもりはなかった。俺は君の誠意と笑顔を疑ったことは一度もない」
「ありがとうございます。そうおっしゃっていただけるだけでも、気持ちが少し楽になります……」
とは言いつつも、メグはまだ泣いているし、どうしたものか。そもそも、彼女はどうしてこのおかしな“自白”をしたんだろう。指輪が誰かに狙われていることを匂わせるようなことは言ったかもしれないが、いくら彼女の夫がそれに関わってたからって、彼女自身がそれほど気に病むことかね。
どうも彼女は、必要以上に俺を買いかぶっているようだな。考えられるのは、俺が所属している“財団”とやらが何か関係していることくらいか。それを彼女に訊くわけにはいかないし。
しかし、こんなに優しくて美しくて有能な淑女を困らせるなんて、彼女の夫はとんでもない奴だな。いや、それもこれも、やっぱりこの架空世界のシナリオのせいだよ。どうしてこんな訳の解らないことになってるんだ。落ち着いてヴァケイションが楽しめやしない。
「とにかく、君は何も悪いことをしていないんだから、気にすることはない。この指輪をどうするかについては、俺が考えることだ。誰かに盗まれそうだというのなら、阻止するまでだ。しかし、君が何かを知っているのなら、ぜひ協力してもらいたい」
「はい……」
「君の夫の仕事を失敗させることになるかもしれないが、それでもいいな?」
「はい……はい、それはもちろん……」
「彼を裏切ることになるんだぞ?」
改めて念を押すと、メグがビクンと身体を震わせる。どうして彼女にこんな厳しいことを言わなきゃならないんだろう。だいたい、ノーミの指輪が盗まれようが、俺の知ったことじゃないはずなんだがな。俺はメグの笑顔を取り戻したいがために、余計な騎士道精神を発揮しようとしているに過ぎない。いや、騎士道精神どころか、下心だな。
「構いません。私は、あなたのなさることが、正しいと信じます。それに、もし指輪が盗まれたら、フレイザー夫人もお可哀想ですから……」
いくら夫の仕事でも、盗みには関わって欲しくないだろうから、見かけ上は俺の方が正しく思えるよな。しかし、泥棒である俺が、泥棒の仕事を阻止する側に回るとはなあ。しかも、プロならともかく、素人だぜ。
それに、俺が何かできるのは明日の、このステージがクローズするまでだ。明日中にノーミが指輪を持って旅立ってくれれば万事OKなんだが、果たしてどうなるか。
「君の夫が、誰から調査を頼まれたか知らないか?」
「存じません……彼は何も言いませんでしたし、私も訊きませんでした」
まあ、そうだろうな。だが、あの3人のうち、探偵に依頼しそうなのは1人しかいないような気がするけれども、断定はしないでおくか。
「とにかく、指輪は俺が持っていて、フレイザー夫人のところにはないから、彼女のところに今夜泥棒が入っても、盗まれることはない。俺が持っていることは、今のところ彼女と君と俺が知っているが、ジャッキーは知っているだろうか。世話係なら、夫人が指輪をしていないことは気付くだろうし、夫人自身がジャッキーに言うかもしれない」
「ええ、そうですね……あと、テリーザも気付くのでは……」
「そうか。そうだな」
メグが真剣な眼差しで俺を見つめてくれているので、ドキドキする。彼女の夫は、これほど哀願力の強い視線で制止されても、指輪の調査をやめようとしなかったのだろうか。電話だったので通じなかった、とかかもしれないが。
「他に、知っていそうな人物はいるだろうか。夫人は、デイントリーのツアーに一緒に行った連中には、ホテルに置いてきたと言ったらしい。今夜のパーティーの時には、アイリーンとペイシェンスに、誰かに指輪を預けているとは言ったけれども、それが俺だとは言わなかった。それ以外に夫人と接触した人間がいるかどうかだが……たぶんいないだろうな」
「ジャッキーに確認いたしましょうか?」
「うん、あの3人の男の誰かと接触があったかくらいは訊いてもいいが……」
だが、腰を浮かしかけたメグを引き留め、もう一度考え直す。いくら何でも、そんな直接的に接触してくるはずはないだろう。メグがそうされかけたように、内通者を使うに違いない。ジャッキーが内通者かもしれないが、それならデイントリーへ行く前に、ノーミが指輪を持っていないことが伝わるはずだし……
「ジャッキーとアイリーンは仲がいいか? それとも、ジャッキーとペイシェンス」
「ジャッキーと……ええ、彼女とアイリーン、いえ、ターナー夫人は子供の頃からの友人です。休みの日が合えば、一緒に買い物に行ったりするらしいですし……」
「例えば、ジャッキーとアイリーンが、今夜のパーティーの帰りがけなんかに話をしていて、指輪のことをうっかり漏らしてしまうとかいうことは考えられないか?」
メグが息を呑んで俺を見つめる。目が真剣だ。彼女に今ここで結婚を申し込んでも、こんな表情をしてくれるかどうか。
「それでは、あなたが指輪をお持ちだということは、もう誰かに……」
「うん、その可能性はあるな。そうすると、今夜俺のところに泥棒が入ってくるということになるかもしれない。一番いい対策は、一晩中起きていることだが……」
「あの……それでしたら、私が起きて見張りを致します。ぜひ、そうさせて下さい」
「さっきも言ったとおり、この指輪をどうするかについては、俺が考えることだ。君の責任にはしない。起きている必要があるのなら、俺がやるさ」
「でも……私、どうしてもあなたのお役に立ちたいんです」
いい表情だ。もしこの表情で結婚して欲しいと頼まれたら、たとえ彼女が架空世界の人間だと理解していても、結婚してしまうだろうな。
「もちろん、協力はしてもらう。君に頼みたいことは二つだ。まず、俺は今から30分後に仮眠を取るが、指定した時間に起こしてくれ。一人でも起きられないことはないが、君が起きていてくれないと少し困ることがある。夜中だが、できるな?」
「はい、かしこまりました。必ず、お起こしいたします……それで、もう一つは……」
「涙を拭いて、化粧を直してから、もう一杯フロリダを作ってきてくれ」
メグが俺の方を見て、呆気に取られた表情をしている。ああー、いいな、この表情も捨てがたいぞ。彼女を本気で手に入れたくなりそうだ。
「はい……はい、
万全ではないけど、ようやく笑顔が戻ったな。フロリダを持って来てくれるときが楽しみだ。
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