#7:第5日 (2) ハンサム・インストラクター
しばらくするとノーミと男3人がやって来た。
確かに素晴らしい景色だが、これを本当に仮想世界として正確に再現できているのかが気になる。ウルルの上から地平線を眺めた時もそうだったが、この広い空間を実現するのに、どれほどのデータと計算量が必要なのだろう。それとも、100ヤードほど向こうは実は
そういうつまらないことを考えながら風景を眺めているだけで、どんどん時間が経つ。ヘリコプターにでも乗ってみるかな、と思いながら、デッキから海に突き出した桟橋――たぶん、もう一つ船を係留して乗り移るためのものだと思うが――の上で海を見ていると、下から声がかかった。
「ハイ、アーティー!」
見ると、スノーケリング用のデッキのところで白い水着の女が手を振っている。ノーミだった。うっかり見つかってしまったらしい。しかたなく、手を振り返す。しかし、男3人に囲まれているのに、俺に向かって手を振るとはいい度胸だ。
4人はどうやらスノーケリングをしようとしているらしい。そのデッキは一部が海の中に沈んでいて、腰の辺りまで浸かるようになっている。そこで講習を受けてから沖へ泳ぎ出す、というわけだ。インストラクターの男の指導に従って、顔を水に浸けたり、海の上に浮かんだりしている。
やがて、インストラクターに連れられて少し沖の方へ泳いで行った。チャーリーはあばらの浮いた痩せ型、中年紳士は太り気味、そして褐色青年は恵まれた素晴らしい体格だった。その中で、ノーミの真っ白なワンピースの水着が波間に一際目立っている。
泳げるってのはいいことだねえ、と思いながら見ていると、先ほどの少し横で、短髪の小柄な男――いや、違った、凛々しい顔立ちの女――が俺に向かって“来い”の合図をしている。何かの間違いだろうと思って無視していると、しつこく合図を続けている。しかたなく、手を挙げてそこへ行く意志を示し、デッキに降りた。
上から見たとおり、とても“ハンサム”な若い女が、海に浮かびながら愛想のいい笑顔を浮かべている。ウェット・スーツを着ているから、インストラクターだろう。デッキの縁の柵越しに話しかける。
「何か?」
「暇そうだから、スノーケリングをしてみない?」
インストラクターだけに、砕けた口調で気さくに話しかけてくる。美人に声をかけられるのは嬉しいが、水の中に引っ張り込まれるのは嬉しくない。ティーラの時に十分懲りている。ティーラの名前が簡単に思い出せたのは、彼女が
「暇じゃない、ゆっくり景色を楽しんでるよ」
「海の中の景色もとっても綺麗よ。海の上からでは判らないわ」
「下の展望室にも行ったし、
「そんなこと言わずに、せっかく来たんだから。泳ぐととっても気持ちいいわよ」
「泳げないんだ」
「あら、大丈夫よ。スノーケリングなら、水に浮くだけだから。もし心配なら、私が手をつないであげるわ」
泳げる女というのは、どうして泳げない男を泳がせたがるんだろう。しかし、ここまで言われてやらないのでは
2階に移動しながら、水着を持っていない旨をペイシェンスに伝えると「もちろんお貸しします」と言う。レンタルの手続きをし、更衣室に行って着替え、再び下に降りてくると、ハンサム・インストラクターは他の客にスノーケリングを教えていた。男の4人組だ。あいつらと一緒に教わるのか、と思っていたら、ハンサム・インストラクターは俺が来たのを見て、そいつらに声をかけ、自由に泳いできていい、というようなことを言った。おいおいおい、1対1で教えるつもりか。
「そこの階段から降りて、海に入って」
デッキの端に階段があって、海の中に降りられるようになっている。その下には金網が張ってあるのだ。透明度が高く、底まで見えている。水は思っていたよりも冷たかった。
「ううーん、とってもいい身体してるわね。本当に泳げないの?」
ハンサム・インストラクターのところまで行くと、俺の身体を見て目を細めながら言う。さては身体を見るのが目的だったか。
「筋肉の付き方と泳ぎの能力はそんなに関係ないと思うな」
「そうでもないわよ。まあ、いいわ。私、ダイヴィングとスノーケリングのインストラクターのアイリーン・ターナーよ。あなた、名前は?」
「アーティー・ナイトだ」
「OK、アーティー、じゃあ、フィンとゴーグルを着けて」
アーティーと呼んでくれとは言わなかったのに、アーティーと呼ばれた。まあ、いい。ペイシェンスが上から渡してくれたフィンを足に履き、ゴーグルを頭に着ける。一度、目のところに正しく装着して、ストラップの長さとスノーケルの位置を調整するようにアイリーンが言う。
「じゃあ、腰を落として、肩まで水に浸かって、それから顔を水に浸けてみて」
言われたとおりにする。顔を海に浸けると、アイリーンが海の中で手を振っている。
「手を振ってるのが見える? 見えたら軽く頷いてみて」
耳は水の上に出ているので、声ははっきり聞こえる。言われたとおりに頷く。
「じゃあ、手を動かすから見ていてね」
アイリーンが海の中で、両手を上下左右に動かしたり、大きな円を描いたりしている。目だけで追っていられるが、顔を少し動かして見る。左手の薬指に指輪。今回はやはり人妻に縁がある。「顔を上げて、立っていいわよ」と言われて立ち上がる。目の前にアイリーンが立っているが、さっきまでと少し様子が違うような気がする。何が違うのかはよく判らない。
「ゴーグルに水は入ってこなかった?」
「ああ」
「泳げないって言ってたけど、水が怖いわけじゃないのね?」
アイリーンがティーラと同じようなことを言う。
「怖くはないよ」
「泳ぎの練習をしたことがないの?」
「あるけど泳げるようにならなかった」
「プールで練習した?」
「そうだ」
「海ではプールより身体が浮きやすいのは知ってる?」
「一応は」
「スノーケリングは水に浮けばいいんだから、簡単よ」
まあ、概念的にはそうだがね。しかし、現実は往々にして違うんだよ。もっとも、ここは仮想世界だってことは理解してるけどな。
その後、手を持ってもらって、海の上にうつぶせで浮かぶ練習。しかし、それを1回やっただけなのに、アイリーンは早くも「OK、スノーケリングに行きましょう」と言う。ここでようやく、さっき感じた“様子の違い”が判った。彼女のウェット・スーツのフロント・ジッパーが、胸の谷間の辺りまで下がっているのだ。ウェット・スーツで圧迫されているはずなのに、とんでもなく深い谷間だ。彼女が話をしながら何度かそこに手で水を流し込んでいたので気付いたのだが、わざとらしく見せつけてないか?
「ほとんど練習をしてないけど、大丈夫なのか?」
「大丈夫よ、私が付いてるんだから。3人以上ならもっと練習してもらうけど、あなた一人だけだし」
何たるいい加減さ。まあ、彼女がずっと見ていてくれるのなら、溺れることはないと思うが。
水中で使うハンド・シグナルをいくつか教えてもらい、「OK、行くわよ」とアイリーンが俺の右手を掴んで泳ぎ始めた。引っ張られていくだけで身体が浮く。時々足のフィンで水を蹴る。下を見ると、キュランダで森を空から眺めたときのごとく、珊瑚が海底に林立している。展望室や
しばらく泳ぐと、アイリーンが俺の手首を引っ張り、何かに掴まらせようとする。海面近くにワイヤーが張ってあった。ポンツーンとつながっていて、ブイで海に浮かぶようにしてあるものだ。掴まって休憩するためのものであることは、上から見て解っていた。海から顔を上げる。アイリーンもすぐ横にいる。
「どう、海の底の眺めは? 綺麗でしょう?」
「ああ、そうだな」
ポンツーンからだいぶ離れてしまったように見えるが、それは俺が泳げないせいであって、実際は30ヤードほどだろう。万一、アイリーンに見捨てられたら、ワイヤーに掴まりながら帰るしかない。見捨てられないとは思うが。
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