#6:第6日 (4) マドリッドの襲撃者

「じゃあ、まだマドリッドは観光してないのか」

「空き時間にレティーロ公園と植物園だけ見たわ。他はまだ見てないの。プラド美術館とソフィア王妃芸術センターはぜひ行きたいわ。それから時間があれば王宮も」

「芸術センターでは『ゲルニカ』を見るといいよ。他の作品が目に入らなくなるくらいの傑作だ」

 俺は他のものは見せてもらえなかったからな。時間があってももう見に行く気はないが。

「『ゲルニカ』は私たちも楽しみにしてるの。ねえ、メイベル?」

 マリオンがメイベルに同意を求める。メイベルはずっと俺を睨んでいる。

「そうね。マドリッドって、意外に観光するところが少ないから。美術館は絵画や彫刻に興味がないと何ヶ所も見る必要はないし、大聖堂はトレドで見たし、他にも歴史的な建築物が多いけど同じようなデザインばかりだし、スペイン広場なんかも有名らしいけど見るものといえば噴水くらいだし」

 ヨーロッパの観光都市の特徴を言い当ててるな。そのとおりだよ。俺もここ何週間か、大聖堂だの美術館だのには何ヶ所も行っているが、これは見る価値があったなと思ったところはほとんどないし、いい加減、飽きてきたね。できればもっと自然が多いところがいいな。山や海や湖を見る方がよっぽどいいよ。王女がいた国には景色が綺麗でよかったなあ。

「トレドは狭いけど、街全体が迷路のようで面白かったな。ミラドールから見た町の風景もよかったし」

「ええ、そうね。ところで……」

 だから、メイベルはどうして俺のこと睨むんだって。それとも、単に目が悪いだけ? その眼鏡、結構よく似合ってるんだけど、度が合ってないのかな。

「あなた、もしかしてマイアミ大ハリケーンズのアーティー・ナイト?」

 メイベルが責めるような口調で言う。どうして知ってるんだよ。前回限定の設定じゃなかったのかよ。

「そうだ。君もマイアミ大?」

「ええ、でも、あなたが入学する前の年に私が卒業してるから、一度も会ってないわね」

 そうか。それで、何? 奇遇だねってこと? 仮想世界のシナリオだから、何だってありなんだろ? そうじゃないんなら仕事紹介してくれよ。真面目に働くからさ。

 メイベルがマリオンに、オレンジ・ボウルの“ミラクル・カムバック”を説明する。1999年のことになっていた。「あら、すごいわね!」とマリオンが感心する。いくらすごくても、今はパート・タイマーだっての。話を無理矢理ITSの方に戻す。国際会議でどんな発表がされていたのか?

「交通に関する情報システム全般。道路交通の研究発表が多いわ。交通流シミュレーターの開発とか、交通管制システムの紹介とか、近距離路車間通信を使った次世代情報システムの実証実験の成果とか……」

 ただ、世界中の研究者が数多くの論文を発表するため、レヴェルは様々で、中にはとんちんかんなものもあるらしい。今回一番“トンデモアウトレイジャス”だったのは「アクセル・ペダルをある一定の位置以上に踏み込むとエンジン内のガソリン噴射が止まる装置“アクティヴ・ガス・ペダル”を開発し、その実証実験において車のスピードが一定以上に上がらなくなることを確認した」という発表だったそうだ。

 聞いた限りでは“後付けのリミッター”でしかないと思われるのだが、実際そのとおりで、しかし発表者はそれを大発明であると信じているらしく、得々として説明し、最後に自作のリーフレットまで配ったそうだ。「興味があれば、ぜひ連絡をくれ」だと。

 もちろん、この発表は“現実の世界”で開催された学会のものを、そのまま仮想世界にコピーしてきているはずで、仮想世界だからこんな珍奇な発表が、というわけではないだろう。国際学会なんだから発表するにはもちろん査読があるはずだが、それがちゃんと機能しているのか心配してしまった。

 バスは1時間かかるところを50分で着いた。鉄道より早い。交通量に左右されるのだろう。が、着いたのはアトーチャ駅から南西に2マイルほどのところにある、エリプティカ広場のバス・ターミナルだった。ここから中心部までバスかタクシーで行かねばならないことを考えると、所要時間は鉄道と大差ない。マリオンが「一緒にタクシーに乗りましょうよ」と言ってくれたので、ありがたく相乗りする。

「君たちはどこまで?」

「ソフィア王妃芸術センターだけど、あなたも行く?」

「いや、他に行きたいところがあるが、コイン・ロッカーに荷物を預けたいな」

 運転手に訊くと、アトーチャ駅にあるらしい。それならソフィア王妃芸術センターと道路を挟んで向かい側なので、ちょうどいい。10分で到着し、二人に礼を言って別れた。

 コイン・ロッカーに鞄を預け、さてどこへ行くかというと、ドロレスの部屋にあったメモを信用するしかない。国立装飾芸術美術館ムセオ・ナシオナル・デ・アルテス・デコラティバスだ。レティーロ公園の西側にあり、ここから歩いて15分ほどのはず。

 地図はトレドのバス・ターミナルから持って来た簡略版しかないが、公園の西側のアルフォンソ7世通りを北へ行って、モンタルバン通りに入ってすぐ、ということくらいは判るから、それを頼りに向かう。

 行ってみると赤い煉瓦の共同住宅テネメントにしか見えない地味な建物で、入口の上の石板に刻まれた"MUSEO NACIONAL DE ARTES DECORATIVAS"の文字も、陰翳が薄いので危うく見落とすところだった。

 中では中世の寝室や食堂が再現されていて、そこに家具や皿が展示されている。一般の博物館のように整然と展示品を並べている部屋もある。陶器、絨毯、家具、タペストリー、織物、ガラス細工など、いかにも手作りという工芸品がたくさんある。宝飾品、金細工などにしても、派手なデザインは少ない。ただし、中には俺の背丈ほどもあるような巨大な陶器や、悪趣味とも思えるほど凝ったデザインの金細工の置き時計もごく少数展示されている。こんな物ばかりだから、観光客は少ない。

 ゆっくり見れば2時間はいられると思うが、人を探しているだけなのでどんどん部屋を移動していく。下の階の方が時代が古く、上の階へ行くほど現代に近付く。そして18世紀のキッチンを再現した展示室に、何とドロレスがいた。さすがは仮想世界、ここへ来れば追い付くようにシナリオができていたということか。

 ドロレスはフェデリコと一緒にキッチンを……いや、横にいる男はフェデリコじゃないな。ハンサムではあるが、フェデリコよりレヴェルが一段落ちる。それでも俺よりはずっと上だが。しかし、あれは誰だ? フェデリコはどこへ行った?

 男はドロレスに何か話しかけているが、ドロレスは壁の装飾を見るのに夢中なのか、上の空で返事をしている。もちろん、俺のことにも気付かない。さて、どうしたものか。ここで声をかけるのはさすがに間が悪いなあ。このままこっそり付いていくしかないか。尾行は苦手なんだけど。見つからないように、隣の部屋からこっそりと覗く。

 二人はなかなか次の部屋へ行かない。いや、ドロレスが動かないだけか。隣の男は退屈しているように見える。壁には絵入りのタイルが張り巡らされている。バレンシアのどこかの館のキッチンの壁を剥がして持ってきたらしい。デザインとしては面白いが、毎日ここで食事の用意をするとなると落ち着いてできるかどうか、という気がする。

 ドロレスは熱心に見入っている。ダマスキナードの参考になるのだろうか。部屋中を歩き回りながらじっくりと10分以上も見て――実際は俺が来る前から見ていたはずだからもっと長い時間だったろうが――ようやく次の部屋へ行った。こんなに時間をかけて見てるから、俺が追い付いたんだな。

 次の部屋は19世紀の居間と食堂を一緒に展示した部屋。ソファーの前に陶製の丸テーブル、その横のダイニング・テーブルにはガラス食器。壁には漆喰の上に直接風景画が描かれている。そしてなぜかピアノ。ただし、アップライト式よりももっと小さく、リード・オルガンのような形をしている。ドロレスはピアノよりもその上に置かれた置物を熱心に見ている。隣の男もそうだが、俺も退屈している。何しろ俺は展示すら見ていられないから。

 ようやく全部を見終わったのは12時半だった。二人が仲良く……とも見えないが、美術館を出る。次はどこへ行くのか、と思いつつ、俺も外へ出ようとしたとき、外から男の悲鳴が聞こえた。さっきの男の声に聞こえるので、慌てて外へ出る。ドロレスに見つかってしまうかもしれないが、気にしていられない。

 出ると、男がいない。いや、通りを向こうの方へ走っていく。ドロレスは? 歩道にへたり込んでいる。その前に赤いドレスの女が立って、何かわめいている。手にはナイフ! そしてドロレスに斬りかかる。

ひゃあっアイ!」

「逃げろ!」

「え、アーティー!?」

 間一髪で、女を後ろから羽交い締めにする。女がじたばたと手足を動かす。すごい力で、振りほどかれそうだ。興奮しているのか錯乱しているのか。

「どうしてここに……」

「いいから早く逃げろって!」

 ドロレスは飛び起きて、歩道を走っていった。男が行ったのと反対側だ。それはともかく、女は俺から逃れようと、ナイフを後ろへ振ってくる。頭に当たりそうになって、思わず女の身体を投げ倒した。地面に四つん這いになった女が、憤怒の形相で俺を睨む。美人だが、多分に狂気が入り交じっている目つきだ。フットボールでは相手守備ディフェンスがこんな目をすることはさすがにない。

「ミェルダ!」

 女は叫び、地面に落としていたナイフを掴んだ。まずい、こっちに斬りかかってくるのか? しかし、女はナイフを俺に投げつけると――もちろん避けたが――、立ち上がってドロレスとは反対側へ逃げていった。何だったんだ、一体。

 ここは人通りが少なくて、警官どころか、助けようとしてくれる人も……いや、向かい側の歩道に女が……グレイのハットにグレイのコート! ドロレスの部屋へ入ろうとしていた女だ。しかし、サングラスをしていて、顔は判らない。

 女は顔を背けると、さっきのナイフ女と同じ方へ足早に歩いて行った。ただの通りすがりじゃあるまい。あの女が、ナイフ女にドロレスを襲わせたのか?

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