#6:第5日 (4) アナベルの恋人

 あっという間に1時間が経って、休憩になる。中年の婦人が出てきてみんなにコーヒーとサンドウィッチを配る。婦人は親方の娘ではないかと思われる。もし、親方の奥さんだったとしても驚かないでおこう。

 婦人は引っ込み、親方が戻ってきて、作業の感想を聞く。スペイン人、フランス人、イタリア人、みんなよくしゃべる。ライナー氏がしゃべる前に親方が、手短に願う、と釘を刺す。ライナー氏は憮然としていたが、ダマスキナードは素晴らしい、スペインが誇る最高の伝統工芸だ、今日はこの体験に来られて光栄だ、といった調子でダマスキナードを褒め称える演説を1分半ほどしゃべった。

 最後が俺だが、もう時間がない。この作業は以前にもやったがとても楽しい、という感じで25秒ほどにまとめた。婦人がコーヒー・カップと皿を下げに来て、また作業に戻る。が、俺の彫り込みはほとんど終わってしまっているので手を止めて待つ。しばらくするとアナベルが、呼びもしないのに俺のところへやって来た。

「あの……どうしましたか?」

「一応終わったんで、待ってるんだ」

「あ……」

 アナベルは黙り込んで5秒ほど固まっていたが、それが解けると前の工房へ行ってしまった。親方に助けを求めに行ったのだろう。戻ってくると、緊張した顔で言った。

「あの、その鉄板を、親方のところへ持って行って下さい」

 言われたとおりに鉄板を外し、前の工房へ行く。親方は作業中だったが、俺が来たのを見て、手振りで椅子を勧めた。粗末な感じの木製の丸椅子だ。座って親方に鉄板を差し出す。親方は黙ってそれを見ていたが、指で表面をさっと一撫でした。見るよりも、触った方が判るのかもしれない。

「ふむ。まあ、ゴメスから聞いていたが、大したものだな」

「それは褒めてくれてるのか?」

「もちろんだ。だが、褒めてもお前さんが嬉しがらないのも聞いておるよ」

「それはどうも」

「では、工房に戻ってこの鉄板もやってみてくれんか。残りの半分だけだが」

 親方から別の鉄板を受け取り、工房へ戻る。残りの半分、と言われたが、確かに半分は彫り込みが済んでいる。何をやらされているかはだいたい想像が付く。

 作業台について彫り込みを始めたが、半分も終わらないうちにアナベルから声がかかり、真ん中のテーブルの周りに集まる。アナベルが鉄板と金線を持ち、重ねて見せる。ポーズが昨日のバレリアと全く同じだ。

「皆さん、細かい作業、お疲れ様でした。彫り込みはおおかた終わったと思いますので、次の作業に移ります……」

 言う内容まで昨日と同じだ。親方は来ない。たぶん、ここはアナベルが一人でやる段取りになっているのだろう。しかし、スペイン語と英語で説明しなければいけない。アナベルもそれくらいの英語はしゃべれるようだ。

 埋め込みの作業について説明する。手本の見せ方も昨日と同じだ。ただし、工房の金線を盗まないでほしい、とは言わなかった。ジョークについてはバレリアが独自に加えているのかもしれない。

 順番に手本を見た後で、また各自の作業に入る。アナベルが鉄板を持って俺のところへ来る。さっき手本に使ったのは、俺が親方に渡したものだったようだ。それを作業台に取り付けながらアナベルが言う。

「あの……埋め込みの作業の方法については解りましたか?」

「もちろん。君の説明は解りやすかったよ。二ヶ国語で説明なんて、君も大変だな」

 俺がそう言うと、アナベルの頬が赤くなった。いやいやいや、この程度のことなんて、いつも言われているだろうに、何をそんなに照れる必要がある。

「ありがとうございます。それでは作業を始めて下さい……」

 それだけ言うと、他の奴のところへ行ってしまった。それから1時間、アナベルが俺の方に寄りつくことはなかった。

 ただ、やはり視線だけは感じる。親方から何かを吹き込まれて、それで俺を気にしているのだろうが、どういう目で見られているのかがよく解らない。昼の休憩前になって、親方が戻ってきた。

「あー、埋め込み作業の途中まで進んだことと思うが、恐らく皆さん、予想以上に難しいと思っておるのではないかと思う。が、反対に、そろそろ作業が面白くなってきたという方もおられるのではなかろうか。この後もまだ作業体験は続くが、2時になったので、ここでいったん、昼食の時間にする。4時にここへ戻ってきてもらうまで、食事なり観光なり、自由にして頂いて結構だ。それでは、解散」

 この工房では職人との昼食は付いていないらしい。バレリアと違って、アナベルは話上手でもないだろうし、男5人と食事に行くなんてのも苦手なのだろう。しかし、あと数年して慣れてきたら、そういうこともやるのだろう。

 さて、この辺りはレストランが少ないので、地図を見ながら昨日昼食を摂った店へ行くことにする。歩いて5分ほどだった。バレリアが来ているかと思ったら、いなかった。作業体験でない日は、家へ食べに帰っているのかもしれない。

 サラダとパエリアのランチを食べ、しばらく時間をつぶしてから3時頃に土産物屋へ行く。予想どおり、バレリアが店番をしていた。

「あら、アーティー、いらっしゃい。ダマスキナードを取りに来たの? でも、仕上げがまだなのよ」

 店にいる時のバレリアは非常に真面目で有能な女性に見える。夜とは大違いだ。もっとも、人間が仕事と私生活で二つかそれ以上の顔を持つなんてのはよくあることだが。

「そうか、少し早すぎたな」

「お店が終わるまでにはできると思うわ。今夜も夕食を一緒にどう? それとも、もうアナベルと約束しちゃったのかしら」

 なぜそれを知っている。

「約束どころか、ほとんど話をしてもらえないよ。俺が今日、あの工房へ行ってることはゴメス親方から聞いたのか?」

「ええ、親方はあなたのことがよほど気になったらしくて、アルバレス親方へ報告したそうなの。興味深いアメリカ人アメリカーノが来たって。そしたらアルバレス親方は、その男はたぶんうちにも来そうだって」

 ゴメス親方は俺の才能を買いかぶりすぎていると見える。

「アーティーは私よりアナベルみたいな愛らしいタイプがお好みなのかしら?」

 どうしてそういう話になる。

「アナベルが目当てで行ったわけじゃないよ」

「そう、よかった、じゃあ、まだ私にもチャンスオポルトゥニダードがあるわね。それに、彼女には恋人がいるから、アーティーには振り向いてくれないわよ」

「そりゃあ、あれだけ可愛ければ恋人の一人や二人はいるだろうさ」

「ところで、明日からの旅行のこと、考えてくれてる?」

「夕方までに答えを用意しておく」

「そう、いいお返事を待ってるわね」

 軽く会話をしただけで店を出る。そういえば、ロベール氏はどうしたのだろう。昨日の時点ではバレリアから情報を得るのに失敗していると思われるから、リトライに来ていてもよさそうなものだが。それとも、もうターゲットを突き止めて、盗もうとしているのだろうか。今日あたり、全ての情報が手に入るはずだろうからな。

 とりあえず、工房へ戻ることにする。もちろんまだ再開前だが、アナベルと話くらいはできるかもしれない。もっとも、ライナー氏が彼女を独占していたら無理か。

 工房の近くまで来たら、小さなカフェの戸外オープン・エア席に、何とアナベルがいた。男が一緒だ。だが、ライナー氏ではなかった。軽い口調でアナベルに熱心に話しかけていて、その声はどこかで聞いたような……

「そうだよ、そういうことなんだ。だからあと1年、いや、半年だけ待っていてくれればいいんだ。あと半年で僕は1部プリメーラのクラブに昇格できるだろう。そうなれば誰もが僕の実力を認めることになる。世界が僕のことを知る日まで、もうすぐなんだよ。そうしたら、アナ、僕が君を迎えに来てあげるよ。だからその日を楽しみにしておくれよ。そして、アナ、君もマドリッドへ一緒に行こう。君のこと、絶対に幸せにしてあげるよ」

「でも、フアニート、私は今の仕事を辞めたくないの。私は立派な職人になりたいの。父さんや母さんとも約束したのよ。あなたが私を愛してくれることは、とても嬉しいわ。あなたの仕事はとても立派だと思うわ。でも、私もやりたい仕事があるのよ」

「違うんだよ、アナ、君の本当の仕事は職人になることじゃない。僕を愛することだ。毎日僕に微笑んでくれるだけでいいんだ。僕は、アナ、君のことを片時も手放したくないんだよ。ゲームフエーゴへ行く時も一緒だよ。もちろん、海外へ遠征する時も連れていくよ。その美しい瞳に僕の姿を映していてくれるだけで僕は幸せなんだ。そして僕は僕の本当の力を発揮できるようになるんだ。ああ、アナ、なんて美しい目をしているんだ。君こそが芸術だ。君のことを世界で一番愛しているのはこの僕だ。僕は君のことを世界で一番幸せにしてあげるよ。僕はもう君のことを愛しすぎておかしくなりそうだよ」

 なかなか面白い寸劇だ。アナベルに甘い言葉を囁いているのは、一昨日、美術館でマルーシャを口説いていた女たらしじゃないか。どうやらアナベルの恋人というのはこの男らしいが、やはり本当に女たらしだったようだな。さて、どうするか。面白そうだからもうしばらく隠れて見ておこうか。

 しかし、せっかく盛り上がっていていいところだったのに、勇敢な騎士ナイトがさっそうと登場した。もちろん、ライナー氏。マルーシャを助けに行った俺よりも十分かっこいい現れ方だ。

失礼パルドン、君がフアン・フェリクスだな」

「誰だい、君は。僕とこの愛しいアナとの大切な時間を邪魔しないでもらいたいな」

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