ステージ#6:第5日

#6:第5日 (1) 週末の予定

  第5日-2003年11月21日(金)


 目が覚めると7時を過ぎていた。ドロレスはまだ起きていないのか。顔を洗ってから寝室の方へ行く。ノックをするとだいぶ間があってから足音がして、ドアが開いてバレリアが顔を覗かせた。眠そうに眼を細めてこっちを見ている。上半身は裸なのだが、肝心なところは砥石で隠されていた。

おはようオーラ、アーティー」

 そう言って一つ大きな欠伸をした。口を手で隠しているせいで、肘で押さえた砥石がずり落ちそうになっている。

「おはよう、バレリア。よく寝られたかい」

「興奮してなかなか寝付けなかったわ……この子たちのおかげで」

 そう言って砥石を愛おしそうに抱きしめながら微笑む。幸せな砥石たちだな。

「もう7時だぞ。起きなくていいのか」

「あら、そうなの、大変」

 バレリアは仰け反るようにして振り返り、寝室の中を見ていたが、また顔を出してきた。さっきよりちょっと眠気が薄らいでいるようだが、髪の毛がぼさぼさなのはご愛敬だ。

「ロリータはまだぐっすり寝ちゃってるみたい、起こすのに時間がかかりそうだから、アーティーが朝食を作ってくれないかしら?」

「解った。大したものはできないかもしれないが、やってみよう」

お願いねポル・ファボール

 寝ぼけ顔でもバレリアのような美形に笑顔で頼まれたら断ることはできない。しかし、サンドウィッチは飽きてきたし、何を作ろうか。冷蔵庫の中を覗いてみよう。

ああアイ! アーティー、ちょっと待って」

 キッチンの方へ行きかけたところで、バレリアに呼び止められた。ドアの隙間から手だけを出して手招きをしている。今度は何だ。部屋の前まで戻る。

「手、貸して」

 手を出すと、バレリアが手首を掴んでドアの中に引っ張り込む。と、掌が柔らかくて温かいものに押し当てられた。おいおいおい、これはもしかして……

「昨日のご褒美よ。ずっと見てたでしょ?」

 バレリアが俺の手を押し戻し、ドアを閉めた。ご褒美……まあ、確かにずっと気になってたけどね。しかし、見せてもらえずに触るだけってのも……あー、しまった。キッチンの方へ行きながら感触を思い返す。1回くらい、揉んでおけばよかった。惜しいことをした。

 冷蔵庫の中をあさる。ハムに卵に牛乳。食べ物で入っているのはそれだけだった。野菜が一つもない。よくこれで健康に生活できているものだ。仕方がないのでフレンチ・トーストでも作ることにする。

 廊下でバタバタと足音がする。バレリアかドロレスが起きてきて、シャワーを浴びているのだろう。そういえばこの家のシャワーは給湯制限があるんだった。女が二人も浴びたら、俺の分が残らないんじゃないだろうか。残しておいてもらえるといいんだが。

「アーティー」

 後ろから声がかかる。振り返るとキッチンの入口からバレリアが顔を覗かせている。

「あら、いい匂い。何作ってるのかしら。トリハス?」

「スペインじゃあ何ていうのか知らないが、フレンチ・トーストだよ」

「じゃあ、やっぱりトリハスね。今からシャワー浴びるから、覗かないでね」

 バレリアと言い、ドロレスと言い、どうしてシャワーを浴びに行く前にそれを宣言するのだろう。それとも、スペインの女というのはみんなそうなのだろうか。

「気を付ける」

ありがとうグラシアス!」

 バレリアの笑顔が引っ込む。トーストを焼きながらコーヒーを作る。シャワーの音が聞こえてくる。バレリアがどれくらい食べるか判らないので――昨日の夜の調子で朝も大量に食べるかもしれないので――多めに作っておく。調味料の棚をあさっているとシナモンが出てきたので、砂糖と混ぜてシナモン・シュガーを作る。

 シャワーの音が止まって、足音が寝室の方へ行ったのを見計らってから。フレンチ・トーストを載せた皿を居間へ運ぶ。コーヒーも運び終えたところで、バレリアとドロレスが来た。バレリアはすっきりした顔をしているが、ドロレスはまだ眠そうにしている。二人ともやっぱり下着姿のままだ。

「あら、とっても美味しそう。バターで焼いたのね」

「そうだよ。スペインでは違うのか?」

「トリハスはオリーヴ油で焼くの。でも、バターで焼くのも好きよ。一度、フランスへ旅行した時に食べたことあるわ。いただいてもいい?」

「どうぞ」

 バレリアがフォークで1片を突き刺して口に運ぶ。下品に見えるほど大きく口を開けて、一口で食べてしまったが、口に入れた後でもぐもぐとしている時はなぜか可愛らしく見える。

あらアイとっても美味しいムイ・リコ! アーティーって料理もお上手なのね」

「フレンチ・トーストくらい誰でも作れるだろ。下手に作る方が難しいよ」

「そうでもないわよ、ねえ、ロリータ」

「ぐふっ! どうして私に言うのよ!?」

 急に振られたドロレスが咳き込みながら、不機嫌そうな目でバレリアを睨む。ドロレスはフォークに突き刺した一片を小さくかじって食べている。まあ、お上品な食べ方だが、どちらにせよ二人とも食べながらしゃべっているのでマナーが悪い。

「あなた、料理が苦手でしょう? かき卵レブエルトくらいしか作ったことがないんじゃないの?」

「トリハスくらい作れるわよ!」

「あら、よかった。でも、もっと色んな料理を練習して、フェデリコに美味しいものを食べさせてあげてね」

「解ってるわよ」

「ところで、フェデリコって誰だっけ?」

「そういえば言ってなかったわね。言っていいかしら?」

「自分で言うわよ!」

 ドロレスがそう言いながらフレンチ・トーストをフォークでぐさっと突き刺す。なぜそんなに機嫌が悪いのか解らない。そういえば昨日の晩はフェデリコのことは言わなくていいと言っていたはずなのに、気が変わったのだろうか。突き刺したトーストを半分かじり、飲み込んだ後でドロレスが言う。

「フェデリコは私の恋人ノビオ。自転車競技やってて、今はトレーニングのためにフランスへ行ってるんだけど、もうすぐ……」

 そこまで言ってから何かに気付いたように目を見開き、TVの上を凝視する。振り返ると、壁にカレンダーが掛かっている。殺風景な部屋の中の、唯一の飾りのようなものだ。

「えっ、今日って21日!?」

「そうだ」

 俺はこの世界に来てからかなり日付を気にするようになったのだが、スペイン人というのはどうも日付を気にしていなさそうなので困る。

「じゃあ、今日帰ってくるじゃない!」

 ドロレスが嬉しそうに足をばたばたさせ、トーストの残りに笑顔でかぶりついた。夜のゲームで快勝した時のような顔をしている。

「ずいぶん嬉しそうだな」

「嬉しいわよ。だって、2ヶ月ぶりだもの。ブエルタの後で一度帰ってきてから、フランスへ行きっぱなしだったんだから」

「フエルタ?」

「ブエルタ・ア・エスパーニャよ。知らないの? スペイン一周自転車レース」

「ああ、うん、聞いたことがある。ツール、ジロと並ぶ三大自転車レース……」

「彼はバネストっていうチームに所属してるの。控えレゼルバなんだけどね」

 控えか。俺と同じだな。会って話をしたら解り合えるんじゃないかという気がするが。

「それでね、明日から彼と二人で、マドリッドとアランフエスへ遊びに行くの。1泊だけなんだけどね。アーティー、悪いけど、今夜は泊まれないわよ」

「あら、それは困ったわね。じゃあ、私のところに泊まりに来る?」

「親がいるからダメなんじゃなかったのか?」

「音を立てないようにすれば大丈夫よ。あら、そうだわ、私も明日から旅行に行くから、その準備をしなきゃ。アルバセテへ行くの! アルコスの刃物展示館、何度行っても楽しいわ。それからアルコスの直売店で高級砥石を買おうと思ってたけど、この砥石があるからやめることにするわ。ああ、いいえ、この砥石で研ぐにのふさわしいナイフを買ってこなきゃ。キッチン用の包丁だけじゃ物足りないわね。プロの料理人が使う包丁も買ってきた方がいいわ。それから軍用も。ああ、明日からの旅行が本当に楽しみ。アーティーも一緒に行かない? ナイフがどんなに素敵なものか、詳しく教えてあげる。だから、私のところへ泊まりにいらっしゃいよ、ね?」

「モニカのところに泊めてもらうわけにはいかないかな」

 ドロレスに訊く。ドロレスはフレンチ・トーストが気に入ったのか、いつもよりたくさん食べている。

「モニカも出掛けるわよ。ビトリア=ガステイス。今日の夜中から車で行くらしいけど」

「自分で運転して行くのか?」

「まさか。彼女の恋人が運転するのよ」

「恋人って誰だ」

「あ、えーと……」

「オスカル・エラス。ロリータの弟よ」

 バレリア、俺の顔ばっかり見てるから聞いてないかと思ってたら、聞いてたんだな。

「ほう、そうすると、ドロレスとモニカは将来親戚か。モニカはバレリアと従姉妹だったな。3人とも親戚になるわけだ」

「それだけじゃないわよ。さっき、ロリータは肝心なことを言わなかったわね。フェデリコは私の弟なの」

 なるほど、だからドロレスはバレリアに対して分が悪いわけだ。将来の義姉だからな。それにしてもややこしい関係だ。

「とにかく、そのうちみんな親戚になるわけだ」

「アーティーもその中に加わる気はないかしら?」

「君かモニカに姉妹がいるのか?」

 どこかでベルが鳴り始めた。「電話だわ。こんな朝早く……」と言いながらドロレスが寝室へ向かう。皿の上に残っているトースト4片を、バレリアが全部フォークに突き刺してしまった。

「残念ながら私には姉妹はいないわ。モニカにも姉妹はいないわね。弟ならいるけど」

「じゃあ、親戚になるのは難しそうだな」

「私じゃダメなのかしら?」

「まだ離婚してないんだろう?」

「アーティー、モニカが電話で話したいことがあるって」

 ドロレスが呼びに来た。よかった、助かった。ドロレスに付いて廊下へ出る。電話機が寝室から廊下にまで引っ張り出してある。よほど寝室を見られるのが困るらしい。しかも見張られてるし。

「ハロー、アーティーだ」

ハイオーラ、アーティー、今日の午前中、時間ある?」

 寝起きらしい、眠たげな声が聞こえてくる。上の階からわざわざ電話してくるとは何事だ。

「10時半くらいまでなら」

「それでいいわ。後であたしの部屋へ来て。ただし、ロリータには何も言わないこと。聞かれたら外で会うって言っておいて。バリーもそこにいるんだったわね。彼女にも同じよ。それじゃ、後で」

 モニカは一方的に言うと電話を切ってしまった。訳が解らない。ただ、モニカとも一度はゆっくり話してみてたかったので助かる。

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