#6:第4日 (10) 砥石と狂喜

「じゃあ、早速始めましょうね」

 バレリアに言われてまた俺がコイン・トスで最初のディーラーを決める。最初の3マッチは順当にバレリアが勝った。しかし、次のマッチの最初のラウンドでは、俺が1回目のターンで奇跡的にジンになって一気に70点近くを稼ぎ、結局そのマッチを取った。バレリアは負けたのにやけに嬉しそうな顔をする。ドロレスと反応が同じだ。

「すごいわ、ようやく本気になったのかしら?」

「たまたま運がよかっただけだよ」

 しかし、その後はディールされるカードが妙によかったり、ノックされてもうまく付け札レイ・オフができたりして、2回か3回に1回くらいは勝てるようになってきた。ただ、本来は相手が集めていそうなカードを推測したり、ノックするタイミングを計ったりという戦略を使わなければいけないのだろうから、運だけで勝っているのは心苦しいくらいだ。しかし、バレリアの機嫌がいいので黙っておくことにする。

「あら、もう11時半ね。ちょっと休憩しましょうか。コーヒーでも淹れてくるわ」

 バレリアが立ってキッチンへ行った。何ゲームやったか憶えていないのだが、バレリアは実によく点数を憶えているので感心する。まあ、それだけゲームが好きなのだろう。

 横で寝ているドロレスの方を見た。まだ安らかに寝ている。しかし、突然キッチンの方から悲鳴が聞こえてきた。何だ何だ、鼠でも出たのか。急いでキッチンへ行こうとすると、廊下の向こうからバレリアが走って来て、突き飛ばされた。バレリアは居間へ入って、ドロレスの肩を持って激しく揺り動かしている。

「ロリータ! 起きなさいよ、ロリータ! これは一体どういうことなのか説明して!」

「ふわっ、はあっ、な、何……」

「これ、これ、これ! これよ、これ!」

 バレリアはそう叫びながらドロレスの胸に何かを押しつけている。しかし、ドロレスの方は起きたばかりだし、酔いも醒めていないだろうから、何のことだか判らないだろう。俺だってバレリアが何をそんなに必死になっているのか判らない。何しろ、バレリアがドロレスの胸に押しつけているのは、例の砥石なのだ。

「これ、これ! この砥石! どうしてあなたがこんなすごい砥石を持ってるのよ! 説明して! 説明しなさい!」

「え、な、何……砥石? ああ……その、砥石なら、アーティーが……」

「アーティー!?」

 バレリアが振り返って俺を見た。今までの優しそうだった表情はどこかへ消し飛んで、恋人を奪われそうになって錯乱している女のような顔をしている。もっとも、そういう女の実物を見たことがなくて、映画で見ただけだが。

「アーティー!」

 バレリアが大股で歩み寄ってくる。後ずさったがポロ・シャツの胸ぐらを両手で掴まれて、部屋の壁に押しつけられた。いつの間にか笑顔になっているが、多分に狂気の入り交じった感じだ。

「教えてくれるわよね、アーティー。こんな素晴らしい砥石を、どこから入手したの? どうしてドロレスなんかにプレゼントしたの?」

「あー、今から話すが、落ち着いて聞いてくれるよな?」

「私は落ち着いてるわよ、アーティー」

 ご冗談を。ブラジャーの肩紐が、両方とも腕の途中までずり落ちて、カップの中身が見えそうになってるじゃないか。

「ドロレスの包丁が切れなくなってたんで、研ぎ器シャープナーを探したんだ」

「あんななまくらのために研ぎ器アフィドラルを? 無駄なこと考えたのね。まあ、いいわ。それで?」

「昨日、町をぶらついていたら、たまたま知り合いに会って、そいつに連れられてパラドールまで遊びに行った時に、そこのコンシエルジュに相談してみろと言われて、そうしたらあれが出てきたんだ」

 経緯はだいぶ端折ったが、嘘は言っていない。ただ、“そいつザット・ガイ”のことを女だと言わなかっただけだ。

「パラドールで? どうしてパラドールにこんなすごい砥石が?」

「調理場に日本人の料理人がいて、そいつが使ってたんだとさ」

日本人ハポネス!? じゃあ、やっぱりこれは日本の砥石なのね……」

 話をしているうちに、バレリアの眼がだんだん正気に返ってきたのが判った。バレリアは俺の胸ぐらを掴んでいたのにようやく気付いたようで、さっきまでのあの優しい表情に戻ると、手を離し、その手でポロ・シャツのしわを伸ばしながら言った。ついでに身体を触られているような気がする。

「ごめんなさい、アーティー、ちょっと興奮しちゃっただけなの。私、こんなすごい砥石が前から欲しくって、探してたんだけどなかなか手に入れられなくて、こんな思いもしなかったところで見つけたものだから……ちょっと、待っててね」

 バレリアは振り返ると、呆然とした顔でソファーに座っているドロレスのところへ行った。そしてその横に座り、ほとんどドロレスを押し倒すようにして身を乗り出しながら言った。

「ねえ、ロリータ、聞いて、この砥石はとってもいいものなのよ。超高級品なの。悪いけどあなたには宝の持ち腐れテソロ・イヌーティルだわ。私に譲ってくれない?」

「ええ? でも、それ、アーティーからせっかくもらって……」

「あら、そうね。解るわ。せっかくのプレゼントを、簡単に他人には譲れないものね。アーティーにも悪いもの。じゃあ、こうしましょう。私にこの砥石を時々貸してくれない? ああ、いいえ、私にも時々使わせてくれない? もちろん、勝手に借りていったりしないわ。使いたい時にはここへ来るから。ね、それならいいでしょ?」

「え、あー、うん、いいわよ、それくらいなら……」

 ドロレスにしてみれば、まだ寝ぼけているところに無理矢理頼み事をされて、イエスと言わされたって感じだな。しかし、バレリアは一体何だってそんなに砥石にこだわっているのだろう。

「ありがとう、ロリータ。私はあなたが友達で、本当によかったわ。ああ、ごらんなさい、この砥石の素晴らしさを……特に、この仕上げ石。この滑らかな肌触りが、本当に素敵……ほら、あなたも肌で感じてみて……」

ひゃあウイ、冷たい! 何するのよ!」

 バレリアが砥石をドロレスの胸の谷間に押しつけている。ドロレスは悶えながら逃げようとするが、バレリアにのしかかられていて逃げ切れない。

「ロリータにはこの素晴らしさが解らないのかしら。残念だわ。そのうち教えてあげる。ああ、なんて素敵な肌触りなの……今夜はこれを抱いて寝たいわ。ねえ、ロリータ、今夜、私がこの砥石を抱いたまま寝てもいいでしょう?」

「いいから、私の上からどいて! どいてったら!」

「ありがとう、ロリータ。私、もう寝るわね。だって待ちきれないんだもの」

 バレリアはソファーから立ち上がり、宙に浮くような足取りで俺の方へ歩いてきた。既に夢を見ている表情だ。

「アーティー、ごめんなさい、取り乱しちゃって。でも私、今夜はもう冷静じゃいられそうにないわ。だから、残念だけど、あなたとのゲームフエーゴは今夜はもうおしまいにするわね。お休みなさいブエナス・ノチェス

 そう言って伸び上がりながら俺の頬にキスをすると、砥石を胸に抱いたまま、足下をふらつかせてドロレスの寝室へ入っていった。ソファーに寝ると言っていたはずなのに、勝手にベッドを借りるつもりらしい。

 ドロレスの方を見ると、まだ呆然としてソファーに座っている。まあ、当然だろうな。俺だって訳が解らない。

「ドロレス」

「えっ、何!?」

「下着がずれてるから直した方がいいぞ」

「えっ? あー……」

 さっきのバレリアのご乱心のせいで、ドロレスのブラジャーの片方がめくれてしまっていた。ドロレスが無造作にそれを直す。下着を見られるのは恥ずかしくないと言っていたが、中身を見られてもさほど恥ずかしいものではないらしい。

「バレリアはどうしてあんなに砥石に執着してるんだ?」

 ソファーの方に行って、ドロレスの向かいに座りながら訊く。ドロレスはようやく頭がはっきりしてきたようだ。

「えーと、バレリアは……言っていいのかしら。ナイフクチージョ・マニアなのよ。部屋にナイフをいっぱい飾ってるわ。だから彼女の部屋へ遊びに行くと、怖くてしょうがないのよ」

「なるほど」

 そういうことか。ナイフのマニアだから、それを研ぐための砥石にも興味があるわけだ。仕事はナイフに関係があるし、離婚寸前の夫は軍人だったと言っていたから、やっぱりナイフに関係がありそうだ。夫が家出した原因は、バレリアのマニア度が高すぎて付いていけなくなったから、というのもあるかもしれない。博愛精神も、あるのかどうか判らなくなってきた。

「で、どうする? 目が覚めたついでに、1回やっておくか?」

「えっ!? な、何を?」

「ゲームだよ。やりたかったんだろ?」

「え、あ、うん、そうね……じゃあ、ちょっとだけ……」

 ドロレスがまた複雑な表情をしている。さんざん紛らわしいこと言って俺をからかったくせに、自分が同じことされると困るのかよ。まあ、まだ酔いが残ってて頭がはっきりしてなかったってことにしておいてやるよ。

 そういえばバレリアがコーヒーを作っていたはずだが、と思ってキッチンへ行ってみると、やかんケトルが火にかけっぱなしだった。危ないところだった。結局、コーヒーは飲まず、ゲームを始めたが、あんなことがあったせいでドロレスも気分が乗らないらしく、15分ほどで切り上げて寝ることにした。

「バレリアがベッドの真ん中を占領して寝てるの。狭いよぉ」

 シャワーを浴びた後でドロレスはそう言って困り果てていたが、居間の方へは戻ってこなかった。

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