#6:第4日 (3) 工房作業体験へようこそ
工房へ入り、こんな狭いところでできるのかと思ったら、さらに奥に広い工房があった。作業台も五つある。たぶん、かつてはここにたくさん職人がいたのだろう。部屋の真ん中の小さなテーブルを囲むようにして座る。
バレリアが前に立つ。くすんだ青い長袖ブラウスに、ゆったりとしたグレーのパンツを穿いていて、いかにも職人という感じがする。が、ブラウスの胸が盛り上がりすぎている。なので、みんなの目が彼女の胸に集中しているのがよく判る。
「本日はようこそダマスキナード作りの作業体験へ。私はこの工房の職人のバレリア・ポサダです。ダマスキナードはトレドの有名な工芸品の一つです。このような金属、特に鉄の板の上に、金や銀を埋め込んで模様を作った物です。アクセサリーや、お皿などがあります。シリアのダマスカスから伝わったのでダマスキナードといいます。詳しい歴史については後で説明することにして、早速、作業の説明をしましょう。ダマスキナードを制作する工程は、大きく分けて五つあります。
バレリアがはっきり、ゆっくりとした英語でしゃべる。まるで舞台の台詞のようだ。さらに続けて言う。この楕円形の鉄板で作りますが、これに模様を彫るところから始めるととても時間がかかりますので、あらかじめ輪郭だけは彫ってあります。皆さんに彫って頂くのは輪郭の中の部分ですが、それでもとても難しいと思います。埋め込みも全部の模様にするととても時間が掛かりますので、一部分だけ、時間がある限りやります。今日作ったものをそのままお持ち帰り頂いても結構ですが、ご希望なら私が最後まで完成させてから皆さんに国際小包でお送りします。ただし、それにはもう少しお金が掛かります。最後の言葉でみんなが笑う。
バレリアが続ける。鉄板の表面には、鳥と花の輪郭が描かれています。その輪郭の中に、この専用のナイフで、平行な線をたくさん彫っていきます。彫ると言うよりは、傷を付けると言った方がわかりやすいかもしれません。今から私が、お手本を見せます。皆さん、たくさんおられて一度には見られないと思いますので、順番に、交替して見て下さい。
言ってからバレリアはテーブルの上の作業台に鉄板を固定し、彫刻刀のようなナイフで彫っていく。なるほど傷と言っていたとおり、さほど深くはない溝を、何本も平行に刻んでいく。ペンを持つようにナイフを持ち、もう一方の手を後ろに添えているのは、ナイフを動かす速さを調整するためだろう。
「ご覧のとおり、1ミリメートルの間に何本も線を彫ります。普通は7本から8本くらい、熟練の職人ですと10本から12本くらい彫ります」
イングランド人が「
「線が歪むと、隣に彫った線とくっついたりしてしまいますが、もちろん皆さん初めてのことですので、上手にできなくてもあまり気にしないで下さい。慣れてくると、きっと上手にできる部分があると思います。後の埋め込みではその部分を使いますし、どうしても上手できない場合でも、後の、埋め込みの時にごまかす方法をお教えします」
またみんなが笑う。それでは皆さん、どれでも結構ですので、作業台の前に座って下さい、とバレリアが言い、めいめい自分の一番近い作業台の前に座る。鉄板はもう作業台に取り付けてあります。一つだけ、ないのがありますが、これを使います、と言ってバレリアは例のフランス人の作業台のところへ行った。そして作業台に鉄板を固定しながら言う。まだ、始めないで下さい。私が皆さんのところを一人ずつ回りながら、ナイフの持ち方や線の入れ方を、順番に説明していきます。
そしてフランス人に説明を始める。名前を聞いたりしているが、フランス人は英語が苦手のようだ。彼がもし
既に4回も説明を見聞きしてしまっているので、特に難しいところはない。名前を聞かれ、言われたとおりにナイフを持って鉄板を削ると、「そうそう、お上手ですね」とお褒めに与る。ただ、俺だけ手を添えてくれなかった。何となく悔しい。
「それでは皆さん、やり方はお解りになったでしょうか。今からめいめい作業を始めて頂きますが、怪我に気を付けて下さい。怪我をしても、お薬はお出ししますが、治療費はお出しできませんので……」
そう言って笑いを誘ってから、バレリアの合図で各人が作業に入る。バレリアがまた一人ずつ見て回る。時々「
30分ほどするとイングランド人はみんな細かい作業に疲れたのか飽きてきたのか、私語が多くなる。フランス人は真面目にやっているようだが、半分くらいの時間はバレリアがつきっきりになっている。1時間ほど経って、バレリアが俺のところへ見に来たときに、うんうんと何度も頷いてから、俺の耳元で囁いた。
「とってもお上手です。でも、他の人と進捗が合わなくなるので、少し休憩していてくださいますか?」
内容は普通なのに、言い方があまりにも色っぽすぎて、背筋がゾクゾクしてしまった。バレリアは作業中は男性的に見えるのに――もちろん、身体以外――こうして他人に教える立場に立つと、母性的な魅力に溢れている。職人よりもダマスキナードの指導者や語学学校の講師をする方が、生徒がわんさと集まってきっと儲かるだろう。今日の作業体験は、空きがあったせいで俺が入り込めたわけだが、もし誰かがキャンセルしたせいだとしたら、そいつは後で事情を知ってきっと悔しがるに違いない。
そういうつまらないことを考えながら、休憩がてら、店の方へ行く。団体客はもういなくなっている。作業体験が終わる頃にまた来るのかもしれない。店主はカウンターの中に座って何かの雑誌を読んでいたが、顔を上げて俺の方をじろりと睨む。まあ、顔の作りのせいでそう見えるだけで、実際は睨んだわけではないだろう。
「どうです、作業体験は」
ショーケースに並んでいる皿を眺めていると、店主が訊いてきた。
「予想どおり、面白いよ」
「それはよかった。もう休憩に入ったのですか?」
「いや、俺だけだ。他の連中より進んでいるから休んでいてくれと言われた」
「そうですか」
そう言うと店主は雑誌を置いて、工房の方へ行ってしまった。店内は俺一人になる。客が来たらどうするつもりなのだろう。いや、俺がそこらの陳列品をかっさらって逃亡したら、一体どうするつもりなのか。が、すぐに店主は戻ってきて、カウンターに座り込んだ。そして腕組みをして唸っている。何か気に入らないことでもあったのだろうか。
しばらくするとバレリアが呼びに来たので工房へ戻る。また中央のテーブルの周りに集まり、みんながバレリアの胸に注目する。
「これで1時間ほど作業して頂きました。皆さん、最初は慣れていなかったので大変そうでしたが、だんだん慣れてきて、とてもお上手にできるようになってきたと思います。それではここで、少し休憩したいと思います。ご存じかもしれませんが、スペインでは今頃の時間に
バレリアは盛んにジョークを交えながら進めているが、もしかしたらあらかじめシナリオが決まっているのかもしれない。バレリアが奥へ引っ込み、サンドウィッチとコーヒー・カップの乗ったワゴンを押しながら戻ってきた。誰が用意したのか定かではないが、バレリアはずっと工房にいたし、店主はずっと店にいたので、たぶん店主の奥さんか家政婦であろうと思われる。
食べながら、バレリアが彫り込み作業の感想を順番に訊く。イングランド人はみんな難しいと言う。しかし、3人とも口を揃えて、このような繊細な作業は我々イングランド人に向いていると主張している。さすがは几帳面な国民性だ。
次にフランス人――ここで彼の名前がロベールであるとようやく判った――に訊くと、身振り手振りとフランス語を交えながら熱心に語り始めた。俺に向かっては一言もしゃべらなかったくせに、バレリアに対してはやけに饒舌だ。ダマスキナードについて調べてきたことを語ったり、歴史のことを質問したりしている。しかし、イングランド人は誰も真面目に聞いていないように見える。もちろん、フランス人のことが嫌いだからだろう。ついでに、きっと俺のこと――合衆国民――も嫌いに違いない。
俺の順番が来たら面白いとか楽しいとかはあまり言わないようにしようと思っていたが、ロベール氏がひたすらしゃべり続けたので、それだけで休憩時間が終わってしまった。俺だけがバレリアとほとんど会話をしていない。今日の目的の一つはバレリアと話をすることだったので、どうしたものか。
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