#6:第1日 (5) 今夜は宿無し

「酔いつぶされないように気を付けるよ」

「そんなこと言って、全然飲んでないじゃないの。弱いの?」

「弱いのもあるが、腹が減ってる」

「ふーん、まあいいわ、あなた、変なこと考えてなさそうだし。食べたいならどんどん頼んで。モニカ!」

 ドロレスはウェイトレスに声をかけ、グラスを持ち上げて見せた。お代わりか。速いな。こっちはまだ半分なくなったところだ。メニューを開いたが、ダメだ、読めない。スペイン語しか書かれてない。英語メニューは、頼めば出てくるんだろうが。

旅行者トゥリスタ? どこから来たの?」

「合衆国。今日来たばかりだ」

「トレドの次はどこ行くの?」

「まだ何も決めてない」

 それどころか、トレドから出られるのかすら判ってない。ドロレスのビールが運ばれてきた。ウェイトレスが、胡散臭そうな目で俺を見る。

「注文?」

「そう。何かお薦めの料理はないか?」

「まだ決まってなかったの?」

 ウェイトレスに訊いたのだが、ドロレスの方から声が返ってきた。ウェイトレスは自分で決めてよというような顔をしている。ほとんど黒い髪で、肌が少し浅黒い。顔立ちはアラビア系が混じっているように見える。まあ、美人の方だ。

「メニューが読めなかった」

「先に言いなさいよ。何の料理が食べたいの?」

「魚か鶏」

「じゃあ、モニカ、塩鱈のクロケットクロケッタ・デ・バカラオ鶏のニンニク炒めポリョ・アル・アヒージョ

かしこまりましたシー・セニョリータ!」

 ウェイトレスがわざとらしい笑顔で去って行く。どうやらドロレスとこのモニカというウェイトレスは顔なじみらしい。しかし、塩鱈とはねえ。ここは内陸だから、生魚の料理のレパートリーが少ないんだな。

「君は夕食に飲んでばかりなのか?」

「そうね、そういう日が多いわ。食べても、サンドウィッチボカディージョとかポテトのオムレツトルティージャ・デ・パタタスとか、それくらい」

「腹が減らないのかね」

間食メリエンダするからよ。ああ、そうか、あなた旅行者だからきっと知らないのね。スペインじゃ5時くらいに軽い食事を摂るの。だから、夕食チェーナも普通はこんなおつまみタパスみたいなのばっかりよ」

 そういえばドイツとオーストリアに近い架空の国でも、夕食はサンドウィッチだけだったな。どうやらヨーロッパの一部では、日に4回か5回は食事を摂っているらしい。

「そりゃ、知らなかった。道理で、夕方レストランに入ったときも、周りの客が大量に料理を頼んでいたわけだ。俺はコーヒーしか飲まなかったんだが」

「ふーん、どうせ夕食も普段はこんな遅い時間じゃないんでしょ」

「そうでもないな。仕事の関係で、夜中を過ぎてから食べるときもあるよ」

「何の仕事?」

「それは言えないが、大した仕事じゃないと思っててくれ」

 この世界に来る前はただのパート・タイマーで、この世界に来てからは泥棒だなんて言えるわけがないからな。

「ふーん、そう。私に声かけてくる男は、自分はこんなすごい仕事に就いてるって自慢するのがほとんどだけど、あなた変わってるわね。ビールセルベッサのお代わりは?」

「頼むけど、別の銘柄はないか? これは何て銘柄なんだ」

「ドムスでしょ。クルスカンポにする? マドリッドの銘柄だけど」

「それでいい。ところで」

 ドロレスのビールがすごい勢いでなくなっていく。と思ったら、またウェイトレスを呼んで、ビールを2杯頼んだ。

「君、そこの土産物屋でダマスキナードを作っていたよな」

「あら、知ってたの。じゃあ、店に来たのね」

「ああ、実演しているところを見た。だから顔を憶えていて声をかけたんだ」

「ふーん、そういう男は少ないわね。店の中で食事の約束まで取り付けようとするのは多いけど」

「あの店で働いてるのか?」

「そうよ。あのお店の何人目かの後継者」

 そう言ってドロレスは薄く笑った。ビールの酔いがほどよく回ったか、肌のつやがよくなり、女の色気が発散されている。

「何人目かの?」

「そうよ。スアレス親方マエストロ・スアレスは彼の息子も含めて何人も弟子を取ったけど、みんな独立するか辞めるかしちゃったわ。私が最後の弟子だって言ってる。でも、私が一人前になるまではまだあと何年もかかるし、そもそもあのお店を継ぐかどうかも判んない」

 まるで他人事のように言っているが、こういうあけすけでぶっきらぼうな言い方をする人間というのは、逆に言ったことについて意外に真面目に考えているものだ。打算的なだけの女かと思ったが、根は真面目なのかもしれないな。まあ、もう少し話をしないと解らないが。

「働き始めて何年になる?」

「えーと……5年目ね。親方マエストロに認めてもらうには、もうあと5、6年はかかるんじゃないかしら」

 高卒から働き始めたとして、22、3歳というところか。

「他の店でも実演を見せてもらったが、あれは面白いな」

「面白い? どんなところが?」

 おやおや、俺を試そうとしてるのか? 仕事を褒めてもらうと無邪気に喜ぶ女は多いが、彼女の場合はちょっと違うらしい。それとも、理詰めでないと納得しないタイプか。

「そうだな、一見、芸術的な仕事に見えるけれども、実際は力学的な考察と、幾何学的なセンスが必要だ。金線を埋め込むのに必要な最適な溝を刻むのは力学的に精密に計算された手の動きが必要だし、なおかつその作業を部分的ではなく全体的な幾何学的プロポーションを俯瞰しながら行わなくてはならない。ただし、手の動きの方は熟練によって精密さを極められるかもしれないが、幾何学的センスの方は経験によって上達するかどうかは不明確で、もしかしたら天性のものが必要かもしれない。まあ、そういうところかな」

「何それ、よく解んない。あなた、学校の先生?」

 難しい言葉を並べ立てすぎたかな。こういう小難しい言葉をありがたがるようなタイプでもないようだ。

「要するに、あの仕事は画家よりも家具職人に近いってことが言いたかっただけだ。俺も手先を使う作業は好きなんでね」

「ふーん。まあ、私もあの絵柄より、溝にどんな風に金や銀が詰め込まれてるのかを見るのが好きだけど、そういう感じ?」

「まあ、そうだな。模様を彫る方と、金線を埋め込むのと、どっちが楽しい?」

彫り込みピカード! だって、彫り込みピカードがうまくできないと、埋め込みインクルスタシオンしても綺麗な模様にならないからね。でも、お客に受けるのは埋め込みインクルスタシオンだけど。料理食べないの?」

 塩鱈のクロケットと鶏のニンニク炒めが運ばれてきた。ドロレスはビールのお代わりを頼んでいる。塩鱈のクロケットはクリーム・クロケットのようで、思っていたよりも塩気は強くない。ただ、鱈が入っているという感じがほとんどしない。鶏のニンニク炒めはものすごい量のニンニクのかけらが入っている。こんなところで精力を付けても使い途がないので、避けて食べる。

 どちらも食べていると何か飲みたくなる。まあ、バルというのはそういう食べ物を出して、飲み物で稼ぐのがビジネス・モデルだから仕方ない。

「あの店は立地がいいから客も多いんだろう。どれくらい来る?」

「さあ、数えたこともないわ。団体客の観光コースに入ってるみたいだから、ひっきりなしに客が来るけど」

「君は一日中、ああやって実演してるのか?」

「そんなことないわ。いつもはお昼頃に親方マエストロの休んでる間に、1時間くらいかしら。それ以外の時間は奥の工房でずっと作業してるのよ。今日は外国の旅行会社の取材があったから、特別」

「ずいぶん遅くまで働いているようだが、残業?」

「ううん、この時間まで働くのが普通。お昼休みが長いの。3時間休むって言うと外国人はみんなびっくりするけど、あなたもびっくりする?」

「ああ、シエスタか。それで解った。そういえばフロリダでもヒスパニックの店は昼休みが長いところがいくつかあったよ」

「そういうこと。お店の方は、店番が時間をずらして交替で休みを取るから閉まらないけどね。他のお店は2時間くらい閉めちゃうところもあるけど。飲み物のお代わりは?」

 この女は俺の飲み食いの進捗状況を本当によく観察してるな。相手を酔いつぶすときの目安になるからか。

「ソフト・ドリンクにしていいか?」

「ダメよ、私と飲むならアルコールじゃないと許してあげない。薄いのがいいならクラーラはどう? モニカ!」

 ドロレスがまたウェイトレスを呼び、クラーラとサングリアを頼んだ。俺の意向は聞かないらしい。

「クラーラってのは何だ?」

ビールセルベッサレモネードリモナダス割り。メニューには書いてないけど、頼めば作ってくれるの。サングリアは知ってる?」

「知ってるよ。赤ワインに果物漬けたやつだろ」

 この前のステージで、船の中のメニューで見た。甘くて飲み口はいいが、アルコール度数が高いので注意が必要な酒だ。

「あら、知ってるのね。後で飲むでしょ?」

「君と飲むときはそれが決まりなんだろうな」

「そういうこと。もしかして、飲んだらつぶれちゃいそう?」

「たぶんな。シエスタの間は食事以外は何してるんだ?」

「暑い時期は家に帰って昼寝するけど、今なら絵を描いてデザインの練習をするか、店に戻って仕事の続きね」

「真面目でいいことだ。君が作ったものは店に並んでる?」

「特にうまくできたのはね」

「売れたか」

「売れたんじゃない? 見たことはないけど。ずいぶん眠そうね。ビールセルベッサ2杯とクラーラでつぶれちゃう男って、初めて見たわ」

 今日は昼からずっと歩き回っていたので、アルコールの回りが速いらしい。

「そういう男は君を食事に誘う資格がないのかね」

「そうでもないわよ。私は楽しく飲ませてくれればそれで満足なの。でも、あなたみたいに自分のペースで飲んでる男はほとんどいないわ。たいていは私のペースに無理して合わせてつぶれちゃうのに」

「最後の土壇場まで無理しないってのは俺の信条だからな。それに俺は君に勝つ必要もない」

「客引きから逃げられればそれでいいんでしょ。でも、店の外で待ってるかもしれないわよ。この後どうするの?」

「もうしばらく君と飲む」

「12時までなら付き合ってあげるけど、その前につぶれちゃうんじゃない? 財布はどこに入れてるか教えておいてね。そうしないと、この店の人が鞄の中まで掻き回しちゃうわよ」

「じゃあ、君に預けておく」

 ジーンズの後ろのポケットから財布を出してドロレスへ渡す。ドロレスが驚いた顔をしている。意外に札が詰まっているからだろう。心配するな、俺の金じゃない。

「ずいぶん持ってるのね。仕事何してるんだっけ?」

「実は無職だ。ついこの前失業した。今は退職金でリフレッシュ中」

「私に財布預けて平気なの?」

「君なら信頼できそうだからな」

「変な男。はい、返すわよ」

 ドロレスは財布の中から100ユーロ紙幣を1枚抜き取って、財布を俺の方に返してきた。あるいは200ユーロか500ユーロだったかもしれない。色で判るはずだが、そもそも憶えていない。俺の金じゃないからどうだっていい。ただ、全部抜かれるのはさすがに困るが。

「つぶれちゃったら、ここに置き去りにするわよ」

「それは困る」

「ホテルに戻ればいいじゃない」

「それがないから困ってる」

「部屋取ってないの? でも、私の部屋には絶対泊めないからね」

野宿スリーピング・ラフできるところないか?」

「そんなことしたら身ぐるみ剥がれるわよ」

「君が鞄と財布を預かっていてくれれば助かるんだが」

「変な男。だったら、この店に預かってもらえば? きっとそれくらいはしてくれるわよ。泊めてくれはしないだろうけど」

 仕方ない、美術館かアルカサルの錠を勝手に開けて入るか。美術館は防犯装置があるかもしれない。アルカサルは工事中だからそんなものはないだろう。錠はどうせ単純なピンタンブラーに決まっている。酔っていても、3分くらいかければ開くだろう。

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