#5:第6日 (8) 策謀の女
「何ですと?」
運転手が窓から顔を出して訊き返してきた。
「1968年のオリンピックの会場だ。アカプルコはヨット競技が開催されたんだろう?」
「ああ、そうだったかなあ。さあて、どこだったかねえ、もうずいぶん前のことで」
主会場でなかっただけに、関心が低いようだ。オリンピックを記念した見所があるわけでもないし、なおさらだろう。
「だが、ヨット競技なんだからヨット・ハーバーの近くのはずだ。この辺りで一番大きいハーバーはどこだ?」
「ああ、それなら向こうの半島の方でさ」
「湾の向こう側の?」
「ええ」
たぶん、そこだ。フォルティーニ氏を撃った銃弾も、
「そこへやってくれ」
「
ティーラと一緒にタクシーに乗り込む。俺は自分自身がやっていることが正しいか不安なのだが、ティーラは俺のやることは全て信じるというような顔で見ている。彼女の信頼度が高まっている分、こっちの気が重い。キー・パーソンでもないのに、どうして彼女の信頼度が高まるようなイヴェントが発生したんだろう。シナリオの不備じゃないのかという気がする。
朝、ヨットに乗った突堤を過ぎ、いくつかの狭い砂浜を横に見ながら走ると、ヨット・ハーバーまではすぐだった。近くに小さなホテルがいくつかあるようだ。さて、ここからどうするか。
「オリンピックの時に競技者や関係者が泊まったホテルはどこだ?」
「さあね、
「すぐそこにホテルがあるから訊いてきてくれ」
あまり客あしらいのよくない運転手に5ドル紙幣を差し出しながら言うと、中途半端な愛想笑いを見せながら車を降りて、ホテルへ入って行った。が、すぐに戻ってきた。
「カレタ・ホテルだそうで」
「どこにある?」
「すぐそこでさ」
運転手はそう言いながら車に乗り込んでエンジンをかけた。そこまで連れて行ってくれるつもりだろう。5ドルがよほど効いたようだ。しかし、ほんの4分の1マイルほど走っただけでまた停まった。運転手にチップをはずんで降りる。目の前にあるのはコンドミニアムのような簡素な建物だが、壁にカレタ・ホテルと書いてある。中へ入り、
「ここに友人が泊まっているので、会いたいんだが」
「さようですか。それではあなた様のお名前とお泊まりのお客様のお名前を頂戴できましょうか」
少しスペイン訛りがあるが、聞き取りやすい英語だった。どうやらメキシコの有名観光地のホテル・スタッフというのは、英語を話せないと仕事にならないようだ。
「アーティー・ナイトだ。客の名前はマリヤ・チュライ。あるいはマルーシャの名前を使っているかもしれない」
「ありがとうございます。ご都合をお伺いして参りますので、少々お待ちを」
そういう名前の客が泊まっているかどうか調べる、とは言われず、いきなり都合を訊いてくる、と言われたということは、どうやらこのホテルで当たりだったようだ。これで外れてたら、もう次に行く当てがなかったので、運がいい。
しばらくすると
一番奥の、一際大きくて海に近いコテージの前まで来た。ベル・ボーイがドアをノックし、ご訪問の方をお連れしました、と言う。
「どうぞ。開いてるわ」
紛れもなくマルーシャの声だった。ティーラは呆気に取られた表情をしている。居場所を知らないと言っていたはずなのに、どうしてこんなにすぐに判ったのかと思っているのに違いない。いや、本当に運が良かっただけだっての。
ベル・ボーイがドアを開けようとするのを制して、チップをやって追い返し、自分でドアを開けた。海に向かって大きく窓が開けた、広く明るい部屋の真ん中で、マルーシャがソファーに座っていた。本を読んでいたようだ。カヴァーが掛けてあって、何の本かは判らない。テーブルの上にはサンドウィッチとティー・カップとポット。こんな時でも彼女は何かを食べているんだな。
「ありがとう、ナイトさん。お願いしたとおり、妹を連れて来ていただいて」
部屋の中へ入っていくと、マルーシャはこちらに向かって澄ました顔でそんなことを言った。シルク光沢の白いミディ丈ドレスに、ラヴェンダー色の短い肩掛け。ティーラと色違いで、対になったような服だ。窓の向こうの海に浮かんでいるヨットと一緒に見ていると、どこかのセレブの別荘に来たかのようだ。
「ヒントが少なすぎて連れて来られる自信がなかったんだが、運が良かったよ」
「ええ、でも、あなたは頭も良さそうな方だから、きっと探し当ててもらえると思ってましたわ。予想より早かったもの。ティーラ」
「はい!?」
「ナイトさんは、私がここにいることを、本当に知らなかったの。彼を疑ってはダメよ。彼は運がいいだけではなくて、とても
「マルーシャ、それより私の言うことも聞いて! 私、またナイトさんに助けて頂いたの!」
「何ですって?」
いや、その表情、演技だよな。だって、君、さっきの騒動のこと、確実に知ってるだろう?
しかし、ティーラが話を続けると、マルーシャはみるみるうちに顔色を変え、卒倒するんじゃないかと思うほど青白くなった。演技でそんなことができるのか? それもすごいが。
「まあ! 何て恐ろしいこと……ナイトさん、一度ならず、二度までも妹の窮地を救って頂いて、本当にありがとうございました。先ほど、あなたを試すようなことを申した失礼を、お許し下さい。本当に、お礼の申しようもありません。あなたには私の命を捧げても感謝の意を尽くせませんわ」
そしてその言葉が間違いなく真実だと思わせるほどの、彼女の切実な表情はどうだろう。これもたぶん演技だとは解っていても、どう見たって本心に思えるところがなあ。
「いや、まあ、気にしないでくれ。単に運が良かったんだ。そもそも、俺が彼女を部屋から連れ出したのがいけなかったのかもしれない」
「いいえ、妹が一人で部屋にいたら、不審者が船員を騙って部屋に押し入ろうとしたかもしれません。そうなっていたら、妹は助からなかったかもしれませんわ。あなたが一緒にいて下さったからこそ、妹は無事だったのだと思います。あなたほど妹に相応しい男性はいないと確信します。どうか妹をあなたの恋人に、そしてゆくゆくは妻に迎えて頂けませんか?」
いや、どうしてそうなる!? そもそも、マルーシャはこの
「恋人って、急にそんな……」
「それとも、この
いや、待て、どうしてノーラとの関係まで知っている? やっぱり誰かを使って俺を見張っていたのか?
「あれはノーラが単に一人で熱を上げているだけで、俺は彼女と付き合う気はないよ」
まあ、性格もいいし、容姿もそれなりに、いやかなり好みなんだがな。多少、打算で男を選ぶところがありそうだけれども。架空世界の中の人物じゃなけりゃあ、付き合ってみたいタイプだよ。だから、そういうことじゃなくて。
「それであれば、ぜひ妹と……」
「もう一度言うが、ちょっと急ぎ過ぎだ。少し時間が欲しい」
「でも、明日になって合衆国へ帰った後、それきり連絡が付かなくなったら困りますもの」
それはこの架空世界がクローズすることを言ってる? そうじゃなくて、
「連絡先は教えるよ。それに、明日はティーラと一緒にいられるように何とか都合を付ける。それではいけないか?」
「今夜からではいけませんか?」
今夜? 今夜から一緒って……おいおいおい!
「だから、急ぎ過ぎだと……」
「妹と二人で夕食へ行くのも急ぎ過ぎなのですか?」
なんだ、そっちか。紛らわしい言い方しやがって。いや、俺が勝手に勘違いしただけか。完全に彼女のペースに乗せられてるな。
「夕食は先約がある。さっき名前が出たノーラとその友人と、俺の従妹と約束したんだ。俺は約束の順番は守る主義でね」
「それでは致し方ありませんわ。ですが、明日は妹のことをよろしくお願いします」
そしてマルーシャはティーラの方を向いて言った。
「ティーラ、さっき聞いたような怖い出来事があったのなら、もう船には戻らない方がいいわ。荷物は明日取りに行くから、今夜はこのホテルに一緒に泊まりましょう。この部屋に二人で泊まれるよう、頼んでみるから」
「ありがとう、そうするわ……」
そう言ってティーラは少し未練がありそうな表情で俺の方を見た。俺と離れるのがそんなに嫌なのだろうか。それとも、このホテルに俺も泊まれって? いや、無理無理無理。
「
何だと?
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