#5:第6日 (4) アヴァター・クライシス
「はい、一昨日の朝、泳ぎました」
「一昨日というと、プエルト・バジャルタに寄港した日か」
「はい、他の方は皆さん町へ出られていて、空いていたので、少しだけですが……」
「気持ちよかったかい」
「はい、とても……」
なぜかティーラが黙り込んでしまった。何か考えごとをしているのだと思うが、彼女の発想は少し独特で予想できない。
「あの……」
「何?」
「もしあなたさえよろしければ、今からリド・デッキのプールで、私が水泳をお教えしてもよろしいですが……」
いや、そんなことを頼もうと思って泳げない話題を出したわけじゃないんだが。それにしても、いきなり水泳を教えようかなんて言い出すとは、よっぽど水泳に自信があるのか? 君、本職はピアニストなんじゃ?
「それはまた今度……明日の朝にしようか。ところで、
「……え? あっ、はい、存じています。見に行ってみたかったんですが、ここからは遠くて……」
一瞬、返事が遅れたが、何か他の考えごとでもしていたんだろうか。まさか、“明日の朝”のことを想像してたんじゃあるまいな。
「ケンジントン・スイートに泊まっている
「はい、伺っています。私たちも招待されたんですが、姉が他に用があるというので、お断りしましたが……」
他に用がある、か。しかし、マルーシャはターゲットが新婦の持っている6ペンスかもしれないということに気付いていたはずなのに、なぜ招待を断ったんだ? 出席予定にしていたほうが、新婦にも近付きやすいだろうし、そうすればターゲットを獲得するチャンスが増えたはずなのに。彼女の行動は、ティーラとはまた別の意味で想像がつかない。
「礼拝堂を見に行きたいと言ったよな」
「はい……」
「もし、君さえよければ、今から俺と一緒に礼拝堂を見に行かないか?」
「えっ……礼拝堂……一緒に……あなたと……?」
ティーラの目の焦点が合わなくなってしまった。そして突然、自分で自分を抱きしめる。何か、またおかしな想像をしているように思われる。恐らく、自分がウェディング・ドレスを着ていて、その相手が……まあ、どうでもいいか。
「はい……はい、喜んで……」
「君の姉さんに断る必要はないよな。1、2時間のことだから」
「ええ、それは……はい、姉には秘密にしておきますから……」
いや、秘密にするってほど大袈裟なことじゃないと思うが。ちょっと黙って出掛けるだけじゃないか。
「よし、じゃあ、行こうか。外に出るには少し用意が必要か?」
「はい、礼拝堂へ行くのなら、フォーマルに着替えた方が……」
「そうだな。じゃあ、下のプロムナード・デッキで待ち合わせよう。そうだ、俺は君の姉さんから借りている本を返さないといけないから、部屋に行って取ってくるよ」
「はい……あの、すぐに着替えてきます……」
「いや、ゆっくり用意してくれ。もう一度言うが、君の一番いい姿が見たい」
「あっ……解りました……」
ティーラの顔が赤い。俺と出かけることになったのがことさら嬉しいようだ。彼女を呼び出したのは実はマルーシャの様子を伺うためだったのだが、成り行きでこんなことになってしまった。まあ、ベスにも会わなければいけないから、一人で行くより「ティーラが礼拝堂を見たいと言うから連れて来た」ということにしておく方がいい。
ラウンジを出てナイツブリッジ・スイートの前までティーラを送り、自分の
「
「
そして彼女がきちんと座り直すのを待つ。眠そうな顔もしていない。
「これからティーラ・チュライと礼拝堂へ行ってくる。1時間半くらいで戻ると思うが、エレインが起きて独り言で俺に文句を言っていたら記憶しておいてくれ」
「ティーラ・チュライとですか?」
「そうだ。彼女はマルーシャ・チュライの
「はい、報告は受けています。しかし……」
「他に何か問題があるのか?」
「本ステージの
何だ、そりゃ。まさかそんな仕様があったとは。
「しかし、可能性はゼロじゃないんだろう?」
「はい。ですが、このままあなたとティーラ・チュライが行動を共にし続けると、ステージの規定に抵触する可能性があります。その場合、ティーラ・チュライの行動に対して大幅な制限が発生します」
「例えば?」
「急病に罹って動けなくなる、あるいは事故に遭って重傷を負うなどです。報告によれば、既にティーラ・チュライは一度そういう状態に陥ったことがあるとのことですが」
急病……というと、昨日のマンサニージョでのあれのことか? あれはそういう仕様によるものだったのか。しかし、おかしな仕様だ。それに、マルーシャだって、ティーラが俺に会いたがってるからって、部屋に呼んだりしたんだぞ? 彼女はこんな仕様が存在することを知らなかったのか?
「しかし、俺はさっきティーラと二人で上のラウンジで会っていたが、彼女は何ともなかったぞ」
「その報告はまだ受けていませんが、それが事実であれば、非常に可能性の低い状況が発生していることになります。ただ、現時点では何らかの要因で規定に抵触していないだけで、何か特定の行動を取ることで制限が再発することが考えられます」
「解った。可能な限り慎重に行動するよ」
「一つ補足しますが、ティーラ・チュライの行動に制限が発生しても、あなたがペナルティーの対象となることはありません。例外はターゲットの獲得に関連しない状況において、あなたがティーラ・チュライに直接危害を加えた場合です」
「そんなことは絶対しないと約束するさ。じゃあ、行ってくる」
「
プロムナード・デッキへ上がり、ティーラが来るのを待つ。10分ほどで現れた。シルク光沢の黒いミディ丈ドレスに、薄手の白い……何というのか知らないが短い肩掛けを羽織っている。それとパールのイヤリングにパールのネックレス。結婚式の招待客のようだ。ピアノのコンクールに何度も出ているようだから、こういうコーディネイトはお手の物なのだろう。
俺の方はさっきの服の上からグレーのジャケットを羽織っただけなので、彼女に比べてかなり見劣りする。マルーシャの本を渡すと、ティーラが戸惑いを交えた上目遣いで俺を見つめながら言った。
「あの、失礼ですが、一つお伺いしたいことが……」
「何?」
「あなたと姉は、その、どういうご関係なのでしょう?」
いやあ、難しいこと訊いてくれるなあ。俺もどういう関係なのかよく解らないんだよ。
「ああ、実は以前、イングランドを旅行しているときに会ったことがあるんだ。博物館の近くで俺が落とし物をしたのを、彼女が拾ってくれてね」
それが今から35年も未来の話でね。しかも彼女、それを持って逃げようとしたんだぜ。すんでのところで追いついて、半分だけ取り返したけどな。ティーラの表情が少し明るくなった。
「そうでしたか……姉はオペラの公演で色々なところへ旅行していますので、各地に知り合いが多いのですが、姉の話でお名前が出てきた男性はあなただけでしたので……あ、いえ、個人的なことを伺ってしまって、申し訳ありませんでした」
全くあの女は、俺のことを
「なに、気にすることはないよ。そのおかげで君ともこうして知り合いになれた。さて、礼拝堂へ行こうか」
「はい」
ティーラがとても嬉しそうな顔をする。こういう表情は保護欲をそそる。
「車に酔うことはないか?」
このタクシーにはエアコンが付いていない。窓を開けていると風が気持ちいいのでさほど暑くはないが、ティーラにとってはどうか判らない。
「いえ、そういうことは……」
そう答えるティーラは顔色もよくて、急病で倒れそうにはとても思えない。事故だけ気を付けていればいいのだろうか。
「そうか。でも、気分が悪くなったらすぐに教えてくれ」
「はい、お気遣いありがとうございます。とても嬉しいです……」
しかもすぐこれだ。嬉しさのあまり、気分が悪いのを忘れてるとかいうんじゃないだろうな。だいたい、海がよく眺められるように右側の席に座らせてやったのに、海を見ようともせず、少しうつむき加減に前を向いて、時々俺の方をちらちらと見ている。初めて男とデートしている女子中学生のようだな。
「君の年を訊いてもいいか?」
「はい、26歳です」
26歳……ノーラたちよりも年上か。というか、俺と同い年じゃないか。てっきり21、2歳だと思っていたが。
「君の姉さんとはいくつ違うんだ?」
「同じ年です」
「同じ年……双子なのか!?」
「はい。いつも私の方が年下の妹に見られてしまうのですが……」
いや、絶対そう見えるって。マルーシャの方が身長も高いし、顔立ちも年相応だし、物腰も落ち着いてるし、度胸も据わってるし、胸も二回りくらいでかいし。顔が似ている以外、双子に見える要素がほどんどない。
「ふむ、そうだったのか。まあ、君の姉さんは大食いだから発育がいいんだろうな。君は少食なんだろう?」
「はい、そうなんです。あの、私もたくさん食べた方がいいでしょうか?」
ティーラが真面目な顔で訊いてくる。マルーシャのように食えないことに対して何かコンプレックスでもあるのだろうか。
「いや、君は今のままでいいと思うよ。君と姉さんはよく比較されるんだろうが、姉さんには姉さんの魅力があるし、君には君の魅力がある。君にしかない魅力をもっと伸ばしていけばいい」
ティーラがはっとしたように俺の方を見つめてくる。その瞳がわずかに潤んで輝いている。俺の言葉を聞いて胸を高鳴らせてるってのがよく判る。
「はい……ありがとうございます……私、そんな風に褒めて頂いたの、初めてです……」
うん、まあ、そうなんだろうけど、俺の時代ではこういう“他人と違うのがあなたの魅力だ”的なモットーは、子供の頃から何度も何度も教え込まれてるだけなんだ。で、それで調子に乗って解錠なんていう非常識な趣味の技術を伸ばして泥棒もどきになった
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