ステージ#5:第6日

#5:第6日 (1) 夜の女王

  第6日-1975年2月21日(金)


 約束どおり、夜中の1時にサン・デッキへ行った。ベスは、今度は左舷のデッキ・サイドにもたれて、風を浴びていた。真っ白なドレスのスカートがせわしなく翻っている。パーティーの時から、わざわざ違う服に着替えてきてくれたらしい。真夜中の、秘密のデートというところだな。俺はパーティーの時と同じスーツを着ているが、シャワーを浴びて、シャツだけは取り替えてきた。

「待たせたかな」

「いいえ、私も今来たところよ」

 しかし、俺は10分前から開放甲板でここを見上げていて、ベスが既に来ているのを知っていた。彼女のことだから、俺がそんなことをしていたことすら気付いているかもしれないが。

 俺が黙って右手を差し出すと、彼女も右手を差し出す。そして白い華奢な掌の上に、6ペンス銀貨をそっと置いた。彼女はそれを左手に移し替え、親指と人差し指で持って、月の光にかざして眺めながら、右手の甲を俺に向けて差し出した。女王陛下から騎士へ、手の甲にキスする栄誉を与える、というところか。まあ、この方が彼女に似合っている。ご意向どおりキスをしてみたが、ベスはそんなことに気付かなかったかのように、ただ銀貨を見つめ続けていた。

「年も同じなのね。本当に取り替えてきてくれたの?」

「女王陛下に嘘はつかないよ」

「そうね、信用するわ、だって私の騎士ナイトの言うことだもの」

 ベスは銀貨を大事そうに両手で包むように持つと、俺の方に向かって微笑んだ。だが、やはりいつもの彼女の笑顔とは違っていた。もしかしたらこれが彼女の本来の笑顔かもしれないが、わずか4日間しか付き合っていない俺には判らない。

「それで、ベス、一つ頼みがあるんだが」

「何?」

「もしよければ、その6ペンスを、俺に……」

 だが、ベスは俺の言葉を聞き終わる前に、振り返って俺に背を向けると、両手を海の方に向かって差し出し……そしてゆっくりと開いた。銀貨は鈍い煌めきを放ちながら、暗い海へ……

「ごめんなさい、アーティー。あなたのお願いに応えられなくて。でも、あれは存在してはいけないコインなの。だって、誰も幸せにできないんだもの。解ってもらえるかしら?」

「ああ、いや……解った」

 そうだ、俺は解っていた。もし彼女へ銀貨を渡したら、捨ててしまう可能性があることを。彼女へ渡さずにそのまま俺が持ち続けて、それでステージを終わらせてしまうべきだった。それが正しいと解っていても、俺は彼女の言うことに従いたかった。それが騎士ナイトとしての務めだからだ。

「他に俺にできることは?」

「優しいのね、アーティー。いいえ、もう何もないわ。できることなら、もっと前にあなたに会いたかったけど」

 それは、絶対に無理だ。なぜなら、君はこの仮想世界の人間だからだ。たとえ現実に存在する人間でも、俺とは時代が90年も違うんだ。だが、俺も彼女の子供の時に会ってみたかった、と思った。きっと、あらゆる人に優しくて、あらゆることに努力を尽くしていて、それでいてそんなことは何でもない、という素振りを続けていたのだろう。アンディーに出会う前から。

「お休みなさい、アーティー。明日の朝、また一緒に走りましょう。その時は、あなたもいつもの笑顔で挨拶してね」

「ああ、お休み、ベス」

 いつもの笑顔で、か。それは彼女自身に言い聞かせるための言葉であったかもしれない。彼女も、今夜はいつもと同じ笑顔ができないことに気が付いていただろう。ベスは小さく手を振ると、サン・デッキを降りていった。そして開放甲板まで降りると、俺に向かって投げキッスをした。ああいうのも本来のベスがなりたい姿なんじゃないのかな。

 10分間の、秘密のデートは終わった。見張りの航海士が一部始終を見ていたに違いないが、彼が口外することはないだろう。


 今朝もランニングしているのだが、ひどい状況だ。何がひどいって、走る奴と、デッキから見物する奴が倍増したことだ。新しく増えたランナーのほとんどは10周もしないうちに走り終えて、後ろの開放甲板で俺たちが……いや、淑女たちが走るのをにやにやしながら眺めているだけだった。しかも走るのが遅いので、次々に抜きながら走るのがどれだけ大変か。

 見物客の方はリヴィエラ・デッキに鈴なりになっていた。そして俺がノーラを追い抜かそうとすると、ブーイングする奴までいる始末だった。俺はいいが、淑女たちが可哀想なので、開放甲板で追い抜くのを辞めざるを得なかった。

 そのために余計なスピード調整が必要になって、昨日と同じ時間だけ走ったのに、1周少なくなってしまった。ティーラを抜かすのも1回少なくなってしまったので、彼女にも悪いことをしたと思う。

 部屋に戻り、シャワーを終えてもエレインはまだだらしなく寝ていたので、叩き起こそうかと思ったが、その前に裁定者アービターと話さなければならないことがあるので、30秒間深呼吸をして、心を落ち着かせてから呼びかけた。

裁定者アービター

裁定者アービターが……応答中です」

 珍しく言い淀んだと思ったら、アヴァターがベッドから起き上がった後で、パジャマの乱れを直しているのだった。そういう姿を見ていると一気に心が和む。まあ、髪はくしゃくしゃのままなんだけれども。

「ターゲットを獲得した後に、それを落としたりくしたりしたらどうなる?」

「獲得後に遺失ロストした場合、本人または他の競争者コンテスタンツによる再確保リカヴァリーが可能となります」

再確保リカヴァリーが不可能な場合は?」

「ゲートがオープンしていれば退出可能です。オープンしていない場合は遺失ロストして12時間後を目安にオープンし、退出可能となります。ただし、遺失ロストが意図的な行為である場合、審議の対象となり、ペナルティーまたは退場エリミネーションの可能性があります」

 ベスのあの行為は俺の意図したところではないので、ペナルティーの可能性はないだろう。

「ゲートが開いたことはどうやって通知される? 他の競争者コンテスタントが獲得したのと同じように、通知できそうなタイミングでってやつか?」

「はい」

「ところで、エレインはまだ寝てる?」

「はい」

「ひっぱたいて起こそうかと思ったんだけど、君のことが可哀想だからやめたよ」

「お気遣いありがとうございます」

「君がエレインを起こすことはできないのか?」

「潜在意識に働きかけて、怖い夢を見せれば起きるかもしれません」

「それはいくらエレインでも可哀想だ。目覚ましを1分後にセットして寝てくれ」

「了解しました」

 アヴァターが枕元の目覚まし時計をセットし、ベッドに横になった。きっちり1分後に目覚ましが鳴り、エレインが眠そうな声を上げる。

「ああ、どうして目覚ましなんか……セットした憶えないのに……」

「俺がセットしたんだよ。さっさと起きろ。朝食へ行くぞ。みんなもう待ってる」

「昨日はあんなに遅くまでパーティーしてたんだから、みんなまだ寝てるんじゃない?」

「何言ってんだ、もう8時だぞ、8時! アカプルコに到着してるんだよ」

「嘘!」

 エレインが飛び起きた。嘘じゃないっての。船旅クルーズはまだ6日目だが、汽船シップは明日の夕方まで使うことができる。つまり、ここはホテルの代わりって訳だ。まあ、今日中にステージから退出すると思うけどな。

 ダイニングへ行き、ノーラたちと落ち合う。今日はまた一緒に観光をしたいと言ってくれているのだが、どうなるのか不明だ。というのも、彼女たちは3時から結婚式に出席するため、観光できるのは午前中だけ。結婚式の後はホテルでパーティーがあり、彼女たちはそのままそのホテルに泊まる――高級ホテルだが、その代金も新婦の父親に持ってもらったそうだ!――ことにしているため、午後には下船ディセンバークしてしまう。

 そういう時間的事情があるため、ヨットでアカプルコ湾とプエルト・マルケスを巡るツアーをあらかじめ申し込んでいたらしい。だから俺とエレインが一緒に行くには、キャンセル待ちしかないわけだ。事務長パーサーを通じて状況を確認してもらっているそうだが、もし一緒に行けなかったらどうしようかしら、などとノーラが言う。

 今朝のノーラは昨日までと“距離感”が違っていて、おそらく俺に対して積極的にアプローチを仕掛けてきているものと思われるが、こちらはそれに応えることができないから困る。俺の現在の仕事のことは曖昧にぼかしてあるのだが、ノーラは過去のことを過大に評価してしまっている。しかも旅先で出会ったことで、運命的なものと勘違いをして浮かれているのではと思う。まあ、それもこの世界がクローズされるまでのことなので、もう少しだけ彼女の夢に付き合ってやるのも悪いことではないだろう。

 それはさておき、ノーラたちは他のオプショナル・ツアーをチェックし直しているところらしいのだが、ツアーは事前申し込み制なので、どれにしてもキャンセル待ちになりそうだとのこと。そもそも、アカプルコで何も行動予定がないというツアー客は、俺とエレインくらいのものだろう。エレインも自分がくじで当てたツアーなのだから、もう少し真面目に予定など考えていりゃいいものを。

「もし今日、一緒に行けなくても、明日の午前中はどう? 私たち、午後の飛行機で帰る予定にしてるけど、それまでは市内観光かビーチで遊ぶくらいしか考えてなかったから、よければ一緒に……」

 今日と明日を逃したら、もう二度と会えないとでも思ってるだろうから、かなり積極的に誘ってくるが、ちょっとあからさますぎる気がしないでもない。連絡先は、写真の送り先としてエレインの住所を教えてあるだけだからな。

 ちらりとベスの方を見てみると、いつもと同じ涼しげな表情を浮かべている。昨日の夜のことが嘘のようだ。エレイン次第かな、とかわしておいたが、俺たちの帰りの予定はどうなっているのだろう。エレインはちゃんと飛行機を予約しているのか? まあ、どこにも帰ることはないから、気にしなくてもいいことなのだが。

 エレイン次第と言ってしまったので、ノーラがエレインに何か予定はあるかと訊く。どうせ大したことは考えてないだろうから、一緒にと誘うのは簡単だろうな。

「そうねえ、ケブラダの崖からのダイヴィング・ショーは見てみたいと思ってたけど、他には特に考えてなかったから、一緒に観光できるととても嬉しいわ」

「あら、そうなの。じゃあ明日、一緒に見に行きましょうよ。それとも、ホテルのビーチへ遊びに来る? パラセーリングとか、水上スキーもできると思うわ」

 俺が泳げないことを知っているからか、泳ぎには誘わなかったな。とにかく、キャンセル待ちがどうなるか次第なので、朝食の後でいったん客室に戻る。俺たちは待っているだけだが、ノーラたちは荷物をまとめなければいけない。さて、その間に……

裁定者アービター!」

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