ステージ#5:第3日
#5:第3日 (1) 追跡の方程式
第3日-1975年2月18日(火)
6時になった。が、昨夜寝る前に時計の針を1時間進めたから、状況は昨日の5時と同じだ。マサトランは合衆国でいう山岳部標準時に属している。正確には、昨日のサン・ルーカス岬の時点でタイム・ゾーンが変わっていたのだが、寄港しなかったので時間帯変更を今日まで延ばしておいたのだろう。昨日は6時半頃が夜明けだったが、あれからかなり南東に移動しているので、時計の針を進めたのにやはり同じ頃に夜が明けそうだ。エレインは当然まだ寝ている。何時に帰ってきたのかは知らない。
トレーニング・ウェアに着替えて、また上のデッキへ走りに行く。昨日と違って俺の他にも走っている奴がいる。ストレッチをしながら数えてみると5人いて、一人は女だった。特に深い意味はないが、その女の後ろについて走り出す。短いポニー・テイルにまとめた金髪が、白いポロシャツの背中で揺れている。スカイ・ブルーのショーツから伸びる素足が眩しい。しかし、あまりにもペースが遅い。
1周したところで、俺が後ろを走っているのを察知されてしまい、親切にも追い越させてくれた。男に尻をつけ回されるのが嫌だったのかもしれない。追い越す時に挨拶すると、にっこり笑って挨拶を返してくる。どこかで見たことがあるとさっきから考えていたのだが、昨夜の食事のテーブルで一緒になった4人組のうちの一人、“
どうやって声をかけるかを考えながら走っていると、前を走る男に追いついた。そいつもリリーと同じくらいのスピードだった。俺だけが速過ぎるのかもしれない。後方の甲板で少しショート・カットをして男を追い越す。その後、男を二人追い越すと、またリリーの背中が見えてきた。5人走っていたはずだが、一人足りない。そいつもリリーを追い越したのか、それとももう走るのをやめたのか。
リリーの後ろにつくとまた察知されてしまい、手振りで前に行けと合図を送られる。追い越す時にまた笑顔で挨拶をする。顔見知りでもあるからだろうが、追い越す時に挨拶をしてくれるのは彼女だけだ。さらに走って前の男を追い越す。が、さっきとは順番が違っていて、こいつは次に追い越すべき男だったはずだ。最初の男はもう脱落したのだろうか。
さらに一人追い越すと、またリリーの尻が見えてきた。今度は察知するタイミングがさらに早くなって、こっちがまだ右舷の後ろの方にいるのに、ずっと前の方で振り返って俺が追いかけてくるのを確認している。まあ、お互いにペースは解っていて、俺が4周する間に彼女を含め他の連中は3周くらいだから、もうそろそろかと思って振り返ったのだろう。期待に応えるべく彼女を追走する。次の周回で彼女を抜き去る。
そしてその4周後にまた彼女を抜いたのだが、その間に男は二人になっていた。さらに4周、彼女を抜く前にいた男は一人。なぜか規則正しく一人ずつ脱落していく。その後、結局走っているのはどうやら俺とリリーの二人だけになってしまった。男どもの体力不足は情けないが、リリーの体力はなかなかのもので、30分以上もほぼ同じペースで走り続けている。普段から走っていないとできることではない。
しかし、ついに体力の限界になったのか、それとも予定の周回数をこなしたのか、リリーが左舷後方の甲板に立ち止まっているのが見えた。俺が回ってくる度に控え目な笑顔で手を振ってくれる。俺はその後も走り続けて、昨日と同じく40周する。その間、リリーは
「
「
何だ、顔を憶えてくれていただけか。まあ、こっちもすぐに名前を思い出せなかったくらいだから偉そうにはできないが。
「アーティー」
「ありがとう、アーティー。走るのがとっても速いんですね」
「そうでもない。君も速いよ。他の走っていた連中よりも速かったんじゃないのかな」
「そうかもしれないわ。私が前の人に追いつきそうになると、みんな走るのをやめちゃって……」
何だ、彼女が男どもを追い込んでいたのか。見たところ、スリムであまり体力がなさそうだし、そんな女に抜かれそうになったもんだから、みんな逃げたのかな。
「いつも走ってるのか?」
「いいえ、時々。食べ過ぎた次の日だけなんです」
そう言って恥ずかしそうに微笑んだ。笑顔も地味だが、眺めているとなかなか味わい深い“美”がある。ポニー・テイルにしていて額を出しているので、知的に見える。たとえて言うなら“日本庭園”だな。ただ、普段からベスのようなゴージャスな美人が横にいると、目立たなくなって損をしているのではないかと思う。“太陽と月”ってやつだ。
「他の3人は?」
「一緒に走る約束をしてたんですけど、今朝になったらみんな眠いって言って断られちゃって」
「じゃあ、今日は朝食を控えるように言っておかないとな」
「そうします。でも、みんなあまり朝食は摂らないみたいなんですけどね」
「そうか。俺もあまり食べない方だな。すぐ太るんだ」
「そうなんですか? そんな風には全然……」
船内へ入ると、朝食へ行く人で混雑し始めている。ダイニングの方からいい匂いがする。その中を、輝くように美しい女が歩いている。アンナだ! だが、横にリリーがいるのに、放っておいて追いかけるわけにはいかない。仕方がないので見送ったが、俺の妙な視線に気が付いたのか、リリーが訊いてきた。
「お知り合いですか? 今の……」
「ああ、いや、そういうわけじゃないが、この船以外で、どこかで見かけたことがあるなと……」
「そういえば私もどこかで……ちょっと前に、新聞で見た気がするわ」
新聞? まさか、船内新聞ではあるまい。そうするとLAタイムズとかの一般紙だろうが、新聞に載るほどの有名人なのか? いや、俺も新聞に載ったらしいんだが、フットボール・ファンしか知らないことになってるのに。
「ああ、ところで、今日は一緒にマサトランを観光することになってたよな。俺もエレインもどんな観光地があるのかよく解ってないんで、よろしく頼む」
とりあえずこの場でアンナの話題に深入りする必要はないので、話をはぐらかす。
「こちらこそ。でも、私たちもちゃんと調べてきたわけじゃなくって。エル・シッド・ホテルへ行ってみようかとか、その程度なんです」
だから、調査よりは彼女たち――キー・パーソンである可能性のある人物――と交流を深めることを優先した方がいいだろう、と考える。観光先なんかはどこだって構わない。しかし、男が行きにくい場所は困る。例えばホテルへ行ったとすると、プールで泳ぐとかテニスをするとかそんなのばかりだ。テニスはともかく、プールはちょっとなあ。まあ、何をするかを決めていないのなら、こちらからうまく誘導することもできるだろうが。
8時半にインターナショナル・ラウンジで一緒に朝食を摂ることを約束してからリリーと別れた。
「どこへ行ってたのよ、まさか一人で朝食行ってきたの?」
「甲板でランニングしてたんだよ。昨日、夕食が一緒だったリリーって娘がいたから、一緒に朝食へ行く約束をしてきた。お前も来いよ」
「あら、偶然ね。ついさっき、ヴィヴィから電話がかかってきて、朝食に誘ってくれたの。8時半にラウンジだって」
「そりゃよかった。俺が約束してきた時間も場所も同じだ」
そう言い残してシャワー・ルームへ入り、汗を流す。ポロシャツとスラックスに着替えてから出ると、エレインが鏡台の前に座ってガイド・ブックを読んでいた。あいつ、持ってきてたのか。なぜそれを言わないんだ。
「
「
アヴァターがこちらに向いてきちんと座り直す。いや、そこまでしてくれなくても。軽い上目遣いで見られると、これがエレインじゃなかったらどんなによかったかという気がしてならない。
「今、エレインが見てたのは、マサトランの観光案内か?」
「はい」
「どこへ行こうと考えてる?」
「思考までは解りません。視線からは、港の近くの景勝地を確認していたようです」
「思考が解らない? しかし君は、エレインの潜在意識に介入できるんじゃなかったのか?」
「はい。ですが、仮想人格の思考を制御することはできません。また、仮想人格が何を思考しているのかも確認できません」
「よく解らんな。もしかして、感覚は共有している?」
「はい」
「思考は分離されてるのか」
「完全に分離されているわけではありませんが、実質、そう表現しても差し支えありません」
「それはまあいいとして、これから朝食へ行くが、今日見に行くところの話題が出ると思う。その時に、エル・シッド・ホテルへは行かずに、他の所を見に行きたいとエレインに思わせることはできないか?」
「善処しますが……これまでの行動の傾向からは、エル・シッド・ホテルを指向する可能性が高いです」
「そうだろうな、一昨日からプールばっかり行ってるしな。まあいいや、エル・シッド・ホテルに決まっても君のせいじゃないさ。ところで、君はプールで泳ぎたいと思ったことはあるか?」
「そのようなことはありません」
「水着になるのが恥ずかしいとか?」
「そのようなことはありません」
「じゃあ、エレインが水着姿の時に君を呼び出しても問題ないか?」
「問題ありませんが、エレインが水着姿の時にあなたの入室を許可する可能性は非常に低いと思われます」
「冷静な分析だ。君らしくていいよ。ところで、昨夜の依頼事項はどうなった?」
「申し訳ありません。あまり情報が集まりませんでした。結婚する友人のフル・ネームはレスリー・ウィリアムソン。彼女たちと同じサン・ノゼに住んでいて、高校の同級生だったとのことです。この
「解った。しかし、昨夜の夕食で聞いたのとほとんど同じだな。なぜ情報が集まらなかったんだ?」
「申し訳ありません、エレインとしては色々と訊いていたのですが、あまり誰も積極的に答えてくれませんでしたので」
「君が謝るようなことじゃない。が、誰も積極的に話したがらないというのは不思議だな。まあいい。後で俺が個別に当たってみる。以上だ」
アヴァターが本の方へ目を戻す。ベッドの端に腰掛けながらその後ろ姿を見ていると、中身がエレインだというだけでなぜこんなに憎たらしく感じるのかと思う。
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