#3:第5日 (5) 最後の講義

「ルー! ナイトさん! ちゃんとテーブルを取って待ってましたよ!」

 ベア・インに着くと、店の奥からサラの元気な声が飛んできた。ベア・インはオックスフォードで一番古いパブで、13世紀に創業。壁や天井にネクタイの切れ端が張り巡らされている。これは以前、ネクタイを店に寄贈するとビール1杯がただになるというサービスをしていたせいだ。現在はそういうサービスはないものの、ネクタイを寄贈する客が跡を絶たないという。これも寮のポーターズ・ロッジで聞いた。ルイーザやサラはこんなことはちっとも教えてくれない。アランがいたら教えてくれただろうが。サラに手を上げて合図をし、席に行く前に飲み物を注文する。何がお薦めの銘柄かをルイーザに訊く。

「プロスペクトはどうですか?」

「じゃあ、それを二つ」

 バーマンからグラスを受け取り、テーブルへ行く。後からバーマンがついてきて、料理をテーブルに置く。サラがあらかじめ注文していて、俺たちが来たら出すように頼んでおいたのだろう。ソーセージ・アンド・マッシュが2皿。脂肪分と糖質が気になる。

「今日もアランは来ずか」

「ええ、そうです。アランが来ないと男性一人で寂しいですか?」

 サラがそう言って笑う。ルイーザよりはサラの方が、俺のことを“男”として意識してくれているのが判る。ただし、恋愛感情とかそういうものは微塵も感じさせない。単に、男女を区別しているだけだ。彼女たちの将来はどうなるのかと思う。

「とんでもない、プロフェッサー・サラの講義を独り占めできるなんて、この上ない喜びだよ」

「あはは、ありがとうございます。でも、今日は講義じゃなくて論文の読解です。共同研究ですね。あらかじめ疑問点をピック・アップしてきたので、一緒に考えて下さい」

 見るとテーブルの上に論文のコピーが置いてある。おそらく、ピック・アップしてきた疑問点というのも紙に書き出してコピーしてあるのではないかと思う。用意のいいことだ。サラの向かいの席に座りながら言う。

「その前に、乾杯トーストしよう」

「いいですよ。何に乾杯しますか?」

「そうだな、君たちの研究のキーワードを織り込むことにしよう。まずは俺から。単色ノイズを再現しているオックスフォードの雨に!」

「うーん、じゃあ、安定したステディートルクで回転スピンがかかったナイトさんのボールに」

 ルイーザが言った。今頃気が付いたが、この二人は隣り合って座るときはいつもサラが左でルイーザが右だ。

「えー、私だけ難しそう! えーとね、じゃあ……うーん、非線形な動力学に基づいて上昇するビールの泡に!」

「うまいな。でも、泡の運動はカオス的ケイオティックじゃないのかな」

「いいんですってば、そんなことは! さあ、お料理の追加が欲しかったら今のうちですよ」

「そうだなあ、じゃあ、ビーフ・バーガー」

「ベークド・カマンベールも欲しいですね。私、注文してきます。先に始めてて下さい」

 ルイーザがそう言って席を立つ。呼び止めて、10ポンド紙幣を何枚か渡し、これで支払いをしてもらうように頼む。彼女が料理代を出してしまったら、俺が同じだけ払うには3人がビールを5杯くらい飲まないと追いつかない。

「はい、じゃあ始めますね。まず、疑問点には赤いペンで線が引いてあるんですが、2ページ目の……」

 言われたところを斜め読みしてから、一番後ろの紙を見る。予想どおり別の紙がついていた。罫線があるからノートに書いたものをコピーしたのだろう。丁寧な字で、“疑問点”が列挙してある。筆記体カーシヴだが、例の呼び出しメッセージの文字とは全く違っていた。そういえばルイーザの字も見たことがあるが、お世辞にもあまりうまいとは言えないものだった。しかもルイーザの場合、別紙ではなく論文の余白に疑問点が書き込んであった。やはりサラの方がきっちりした性格で、ルイーザの方が雑なようだ。それはともかく、彼女たちがメッセージを書いて俺に呼び出すなんてことは考えられないし、結局、あれは誰が書いたものなんだ?

「……で、ここでエネルギー差がゼロになるって書いてるんですけど、この式がどこから出てきたのかよく判らないんです」

「そりゃあ、そこで引用してる論文を読むしかないよ」

「やっぱりそうですよねえ、時間がかかるけど仕方ないなあ」

 こんな当たり前のアドバイスをすることが本当に役に立ってるのだろうか。一体彼女は俺に何を求めているんだ? それとも、俺は単に彼女の話を聞いて感想を言うだけでいいのだろうか。心理カウンセラーだな。まあ、普通の悩み相談のように漠然とした質問に答えるのじゃなしに、論点がはっきりしているという違いはあるかもしれない。その分、頭を使うので腹が減る。

 彼女たちはパブに来ているのにあまり飲み食いしない。ゆっくりしたペースでテーブルの上の物が減っていき、1時間ほどで全部なくなった。料理の4分の3くらいは俺が食べたと思われる。料理の追加注文はせず、ビールだけをルイーザが頼みに行く。そのビール1杯ずつでまたもや1時間ほど粘る。店にしてみれば回転率が悪くて迷惑だろうし、彼女たちとしてもさっさと食事を済ませて、どこか静かな場所へ行った方が効率的だと思うのだが。

「それで、この2原子格子方程式を数値計算してみたんですけど、結果が合わないんですよ。4次の古典ルンゲ・クッタ法を使って自分でプログラムを書いてみたんですけど、どこか間違ってるのかなあ」

「うーん、でもまあ、この程度の差なら単に時間精度の問題だけのような気がするが……それより、2階偏微分方程式用のルンゲ・クッタ法なら既成の計算プログラムがあるんじゃないのか? そういうところじゃなくて、もっと他のところに時間をかけた方がいいと思うぞ」

「あはは、やっぱりそうですよね。でも私、こういうの考えるのが結構好きなんですよ」

 うん、まあ、そういうのはよく解るけどね。本筋じゃなくても面白そうなものには何でも手を出したくなるタイプなんだろうな。俺も同じようなものだよ。ルイーザはさっきから大人しく黙っていると思ったら、プログラムを見ながらじっと考え込んでいる。間違い探しをしているのかもしれない。

 3杯目のビールを飲み終わる前に、10時を過ぎた。10時15分頃になって、サラが終了を宣言する。店の客もだいぶ減っていたが、酔っ払いみたいなのがまだ数人残っている。閉店は11時でまだ少し時間はあるが、寮の門限も11時なのでそろそろ帰らねばならない。

 ルイーザが物言いたげな顔をしているので、クライスト・チャーチの寮まで二人を送って行くことにした。サラも傘を持ってきていなかったので、3人で身を寄せ合って一つの傘に入る。といっても、前を歩く二人に対して俺が後ろから傘を差し掛けているようなものだった。

 ベア・インはクライスト・チャーチのすぐ近くだから、ゆっくり行っても5分とかからない。カレッジの正面玄関であるベル・タワーの前まで送り、すぐに引き返そうとしたが、二人して「もう少しだけ!」などと言うので傘を閉じてタワーの下に入った。ポーターズ・ロッジの守衛が胡散臭そうにこちらを見ているが、まだ門を閉める時刻ではないためか何も言わなかった。

「今日は本当にありがとうございました! もやもやしてたのが全部すっきりしましたアイ・ゴット・オール・プロブレムズ・オフ・マイ・チェスト

 サラが満面の笑みを浮かべながら改めて礼を言ってくれる。やっぱり悩みの相談をしていたのかと思う。

「私の問題もお話ししたかったですけど、時間がなかったですね」

 ルイーザが少し寂しそうな顔をして言う。どちらかというと、彼女の方が俺を頼りにしてくれている気がする。もっとも、二人のどちらにしても悩みの相談を受けているだけなのは間違いないと思うが。

「えー、言ってくれたらもっと急いでやったのに!」

「うーん、でも、サラの問題も聞いていてとても面白かったから、いいの。ええと、ナイトさん、その、明日の夕方はお時間ありますか?」

 おいでなすったヒア・イット・カムズ、というところか。どうやら黙っているわけにはいかなくなったようだ。

「うん、それなんだが、急用ができて、合衆国に帰らなければいけなくなった。だから、申し訳ないけど明日は会えない」

「えっ……」

 ルイーザとサラが絶句した。暗くてよく見えないが、顔が青ざめているようにも見える。そこまでショックを受けてくれるのは、ありがたいのかありがたくないのか。

「いつ……ですか?」

 ルイーザが小さな声で訊いてきた。サラは放心したような顔をしている。

「明け方の、4時のバスに乗ってヒースローへ行く。もうしばらく君たちと一緒にいられるかと思ってたんだけど、とても残念だよ」

 会えなくなる理由は嘘だが、残念なのは本心だ。彼女たちは俺にとって単なるキー・パーソンズ以上の存在だった。研究の話を聞くのは頭が疲れて大変だったけれども、苦痛だったわけではない。重要な情報を聞き出すために仕方なく、などと思ったこともない。このゲームの世界だけに存在する、架空の人格であるとは言え、これほど真剣になって知識を追い求めようとする姿には、共感しないわけにはいかない。

「そうですね、とても残念です……」

 ルイーザが消え入りそうな声で言った。言葉の最後の方は震えていたのではないかと思う。

「君の問題も、紙に書いて渡してくれたら、出発するまでに考えておくよ。郵便で投函するか、誰かに預けておくかすれば、明日中には君の手元に届くと思う」

「そうですか……」

 ルイーザが小さな声で呟き、手に提げた鞄に目を落とす。だが、しばらく考えた後で、目を上げて俺を見つめ、先ほどよりは少し大きな声で言った。少し緑がかった薄茶の瞳が潤んでいるように見える。

「いいえ、これは……自分で考えることにします。だって……変ですよね、私たちって。ナイトさんとお知り合いになったのはつい先週末のことなのに、お会いするたびに私たちの研究のことばかりお話ししたり、相談したりして……ナイトさんがいつも真剣に私たちの話を聞いて下さるので、まるでカレッジの講師みたいに勝手に思い込んで……たぶんですけど、私たち最近、自分の研究に夢中になってて、お互いの研究の話を相談する時間も心の余裕もなくなってて、だから別の相談相手が欲しくなってたのかなって……でも、今日でちゃんと判りました。だから私、もう自分で考えられます。サラもきっと……」

「そうですね……私もたぶん同じで、だから……あっ、それはそうと、ナイトさんはもしかして、今晩のうちに帰らないといけなかったんじゃないですか? まさか、私たちと夕食の約束をしてたから、帰りを遅らせたりとか……」

 サラが心配そうな顔でそう言ったので、ルイーザも同じように俺を見た。一つ嘘をつくと、その後はずっと嘘をつき続けることになるから大変だ。

「いや、そんなことはないから安心してくれ。急用が判ったのは今日の夕方で、その時にはもう明日の朝のフライトしか予約ができなかったんだ。だから、プロフェッサー・サラの講義はゆっくり楽しむことができたよ」

「そうですか、よかった……あっ、でも、講義じゃなくて、共同研究ですよ!」

 サラの茶目っ気のおかげで、ルイーザも笑顔になった。だが、サラのその態度は、俺との別れを悲しみたくないための虚勢のようにも見えた。

「ナイトさん、短い間でしたけど、お知り合いになれて本当によかったです。合衆国に帰ったら、論文を私宛てに送るのを忘れないで下さいね」

 ルイーザが精一杯の笑顔を見せながら言ってくれた。だが申し訳ないけど、その約束だけは守れそうにないな。

「ナイトさん、あと一つだけジャスト・ワン・シング! 前にも私が指摘した気がするんですけど、ナイトさんはどうして論点をはっきりさせるのがそんなにお上手なんですか?」

 だから俺はそんなことがうまいと思ったことなんてないっての。ただ、思い当たることがないでもないが、それでいいのかどうかは自信がない。

「俺も自分ではよく判らないが……たぶん、俺がアメリカン・フットボールをやっているからという気がするな」

「アメリカン・フットボールですか?」

「フットボールではコーチがゲームの前に作戦を考えて、ミーティングで競技者プレイヤーに説明するんだが、競技者プレイヤーはただそれを聞いて憶えるだけじゃなくて、疑問点や意見があれば口出ししなきゃならないんだ。決まりではないが、そうして考える方がいい競技者プレイヤーになれるし、ゲームでも使ってもらえるようになる。コーチは意見を聞いて作戦を改良することもできる。何も言わない奴は判ってないと見做されることもある。だから俺も、他人の話を聞いたらそれをすぐに自分なりに解釈するようにして、疑問点や意見を出す癖がついたんだと思うね。もっとも最近じゃあ、疑問点や不明点があっても言わないで隠していることもあるんだが」

「そんなことをしてるんですか! アメリカン・フットボールって、頭を使うスポーツなんですね。私も今度見てみることにします。でも、いつTVで放送してるのかなぁ」

「ラグビー・フットボールと同じで、秋から冬にやってるんですよね? でも、TVで見るなら、スカイ・スポーツと契約が必要なんじゃないかしら。私、大学院を卒業したら、合衆国まで見に行きたいです!」

 嬉しいことを言ってくれるが、その願望が実現することはないと思う。申し訳ないことだがな。理由は言わずもがなだ。

「ロンドンでもNFL……合衆国のプロの公式戦を年に2ゲームか3ゲームやってるはずだよ。10月か11月に」

「そうなんですか! じゃあ、まずはそれを見に行くことからですね」

「イングランドでアメリカン・フットボールのファンが増えると俺も嬉しい。特に君たちみたいな聡明な淑女たちレディーズがファンになってくれるとね。さて、俺はそろそろ寮に戻る。帰り支度をしなきゃあ」

「あっ、そうですね、長々とお引き留めしてすいませんでした。気を付けてお帰り下さいね。近い将来にまたお会いしたいです」

「私も! またお会いしましょうシー・ユー・アゲイン!」

「ありがとう。それじゃあソー・ロング!」

 傘を差すと二人に向かって手を振り、セント・オルデーツストリートを歩き始めた。しばらく行って後ろを振り返ると、二人がわざわざトム・タワーの下から出て、雨の中を道端に立って見送ってくれていた。もう一度手を振ると、彼女たちも振り返してくれた。本当にいい娘たちだった。別れ際に嘘をつくのが申し訳ないくらいだ。できればもう2、3日一緒にいたかったが、その間にターゲットが他の競争者コンテスタントに盗まれたらまずいし、そうなれば結局彼女たちに会う時間もなくなる。やはり今夜決行すべきだろう。オックスフォード博物館の前まで来てもう一度振り返ったが、彼女たちが立っているところは暗くてよく見えなかった。さすがにもう寮の中に戻ったと思われる。

 さて、ここからキーブルの寮に帰るには、北へ真っ直ぐ歩いてセント・ジャイルズ大通りブールバードへ出るのが一番早い。暗がりの中で腕時計を見る。10時45分。15分あれば余裕で帰り着けるだろう。だが、その前に会いたい人物がいる。この辺りですれ違うのではないかと思っているが、道の反対側を歩いていたら見つけられない可能性もある。

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