#3:第2日 (4) 噂をすれば影
さて、これで今日予定していたところは全て回ったので――後半はことごとく中に入れなかったが――、大学寮へ戻るが、その前にまたブラックウェルズに寄る。今日は意図的にルイーザを探してみた。しかし、見つからない。パート・タイマーなので今日は来ていないのか、広いから会えないだけなのか、それともバックヤードに行っているのか。会ったとしても連絡先は昨日の食事の後で教えてもらったし、「今日は何をお求めに?」などと訊かれたら答えようがないので、諦めて店を出る。新聞スタンドに寄って夕刊紙を買ってから、大学寮の部屋へ戻った。
早速、夕刊紙を広げて読む。おお、博物館の事件の記事があるじゃないか。明け方に泥棒が侵入! やはりというか何というか。博物館の裏通りに面した1階の窓から忍び込んで――俺も博物館の中を見て回ったときに、あそこが一番入りやすそうだとは思ったのだが――展示品のケースを開けようとしたところ非常ベルが鳴り――何を盗もうとしたのか判らない――、駆けつけた警備員と格闘になって、一人を階段から突き落とし、
なお、犯人はバースに住む――バースってどこだ?――同博物館の元
そういや、もし俺が、いや俺でなくても
突き落とされた警備員は重傷かあ。可哀想に。これで二人目だ。もちろん、仮想世界だって病気になる奴や死ぬ奴もいるんだろうけど、そういうのは目に見えないところで起こって欲しいよ。特に、俺のせいで怪我をする奴が出たりしたら――もちろん、
ともあれ、アルフレッド・ジュエルを盗みに入るのなら、博物館の内外の警備状況を十分調べてからでないと行けない。特に、退路の確保は重要だ。クリエイターの助言に従うなら、そのために十分な時間をかけて調査と準備をするべきなのだろう。ただ、明日以降も誰かが侵入したりすると、そのたびにどんどん警備が厳しくなっていくだろうから、あまり悠長にしていられない気もするのだが。しかし、まだ2日目だ。盗みに入るなら5日目とか6日目が妥当だろうな。
その他の記事も見てみたが、特に目に付くものはない。少し早いが、夕食へ行くことにする。今朝、博物館に行く途中でパブを見つけたのでそこにしよう。そういえば、シャーロック・ホームズも聞き込みはパブでしろと言っていた。博物館に近いパブだから、事故に関する噂が何か聞ける可能性もある。酔っ払いばかりで、あることないこと聞かされる可能性もなくはないが。
朝と同じくセント・ジャイルズ
「ヒュウ、ナイトさんだ!
驚いたのはこっちだ! 入ったところの一番手前のテーブルにアランとルイーザが座っていた。ルイーザも「ワオ!」と声を上げて、フォークを取り落としそうなほど驚いている。
「ああそうか、キーブルにお泊まりなんでしたね。ここはキーブルに一番近いから。どうぞどうぞ、遠慮なくこちらの席におかけになって下さい。おっと、その前に飲み物をオーダーしていただかなきゃあ」
「ナイトさん、今日もお会いできましたね! うれしいです。また研究の話をしてもいいですか?」
見つかってしまったものは仕方ない。一応、笑顔を見せておいて、飲み物を注文に行く。しかし、ここはクライスト・チャーチからはかなり離れているのに、どうしてこの二人がいるんだ。昨日のホワイト・ホースは解る。ルイーザがパート・タイムで働いてる本屋に近かったので、そこに来たんだろう。だが、今日はなぜここなんだ。俺がエール・ビールと注文して戻ってくると、アランが俺の心の中を見透かしたように言った。
「どうしてこんなところに僕らがいるのか、って思ったでしょう?」
「そのとおりだ。予想してないところにディフェンスが現れてパスをインターセプトされたときくらい驚いた」
「ははは、僕の推理力もシャーロック・ホームズ並みですね。
君、男のくせによくしゃべるなあ。ただ、訊きたいことを全部先に言ってくれのはありがたいけどね。しかし、イーグル・アンド・チャイルドを選んでいたら、サラに見つかってしまったんだろうな。そうしたら後で一緒にこっちへ誘われるか、それともこの二人を呼び寄せるか。いずれにしても、会うことは避けられなかったわけだ。嫌だというわけではないが、シナリオがうまくできすぎている。
「会えて良かった。君たちと話をするのは楽しいからね」
「私も楽しいです! ナイトさんに昨日教えていただいた、非マルコフ的ブラウン運動の文献を調べてきました。でも、数が多くてとても全部は読み切れないですね。まず、ノイズの種類で分類してみようと思うんですけど、他にいい分類方法はありませんか?」
ルイーザは相変わらず研究の話ばかりだな。君みたいな真面目な娘が、どうしてこのステージのキー・パーソンなのか俺には解らないよ。
「俺も研究したのは昔のことだし、すぐには思い付かないな。君のカレッジで他に似たような研究をしている学生を見つける方が早いんじゃないかと思うけど」
「そうですか。でも、学期は今日で終わりですし……ナイトさんにあと1週間早くお会いできてたらよかったのに」
うん、残念だね。でも、それがこのステージのシナリオだからしょうがないよ。君が満足するようなシナリオが用意されているのかどうかは判らないけどね。
「ところで、今日はどちらへ観光を?」
アランが違う方へ話を向ける。昨日は彼も研究の話ばかりしていたが、俺が閉口しているのを感じ取ってくれたらしい。さすがはシャーロック・ホームズだな。
「ああ、今日はオックスフォード城、アッシュモレアン博物館、カーファックス塔、オックスフォード博物館。その後、クライスト・チャーチ大聖堂とボドリアン図書館とラドクリフ・カメラへ行くつもりだったが、間に合わなかった」
「なるほど、主立ったところは全部見たという感じですね。明日はテムズ川かチャーウェル川でパントに乗ってみるのはどうです? たぶん、サラたちも……ヘイ、サラ!」
「ワーォ、ナイトさん! 今夜もお会いできるなんて! 今夜は私の研究のことも聞いて下さいね!」
この娘もルイーザに負けず劣らずというか、研究の話ばかりしたがるな。昨日はどうも聞き役に回っていたみたいで、わりと大人しかったのだが。ずいぶんと機嫌がいいのは、既にアルコールが入っているせいもあるのだろう。
「えーと、何だっけ、非線形格子モデルにおける転位の動力学……」
「
困ったなあ、一種の
「君の従姉が観光に来ているらしいけど、今晩泊まって明日帰るのかい?」
サラがエール・ビールを持って戻ってきたときに、さりげなく訊いてみた。こうでもしないと、研究の話ばかりになってしまう。
「いえ、今日と明日泊まって、明後日帰るって言ってました。サリー
「一人で来たのか?」
「ええ、一人で。彼女のお母さんでも連れてくればよかったのにって思ってるんですけどね。でも、今日は助かりました。私の隣の部屋に泊まってる女性が、彼女の観光に付き合ってくれたんです」
「ああ、昨日ホワイト・ホースで見かけた女ね」
さほど関心がなさそうにして言ってみたが、内心はもちろん興味津々だった。なるほどね、博物館で見かけたのアンナのお相手は、サラの従姉だったってわけだ。あんまり顔が似てないんで、気付かなかったよ。サラはさっきまで従姉と食事していたらしいが、そこにはアンナもいたんじゃないかな。どんな会話をしていたのか気になるところだが、そこまで聞くわけにもいくまい。
「そうなんですよ。今朝、朝食へ行く時に偶然会って、昨日はどこに観光に行ったかとかをお話ししたんですけど、一人で来たからどこに行くのがよさそうかよく判らなくて、ガイドか一緒に観光してくれる人が欲しいって言われて、それなら私の従姉が午後から来るんですけど、一緒にどうですかって」
なるほど、アンナはいい言い訳を見つけたな。一人でも充分動けそうなタイプだが、博物館で見たように、あまり目立たなくしたいんだろう。ただでさえ人目を引くあの容姿だ。それにしても、サラは今、聞き捨てならないことを一つ言ったぞ。アンナが寮の朝食に行ったって? じゃあ、その後でまたザ・ランドルフで朝食を摂ってたっていうのか? どれだけ食うんだよ。
「ほう、それで、どんなところを見に行ったんだろう」
「ええと、オックスフォード城、アッシュモレアン博物館、カーファックス塔、オックスフォード博物館、それにクライスト・チャーチ大聖堂ですって」
「あはは、それじゃあナイトさんとほとんど同じですよ。どこかで会わなかったんですか?」
アランがおかしそうに膝を叩きながら言った。ああ、会ったよ、アッシュモレアンでな。だが、それ以外のところでは会わなかった。たぶん、俺と違うルートで回って、全部時間内に間に合わせたんだろう。だが、アンナと同じところを見て回ってたとは、俺のやることも全くの見当外れというわけじゃなさそうだな。まあ、あちらの方はサラの従姉の意見を優先しただろうし、本当はもっと別のところを見たかったのかもしれないが。
「気が付かなかったな。時間が少しずれても会わないものさ」
「あら、でも、アッシュモレアン博物館は、今日は臨時休館だったんじゃ……」
ルイーザが言った。おやおや、これは意外なところから博物館の話題になっていくのかな?
「臨時休館は午前中だけだったよ。俺は午後から行ったんで入れた。でも、どうしてそんなこと知ってるんだ?」
「私の叔父が、博物館で警備員をしてるんです。昨日の午後と、今日の早朝と、博物館内で何か事件があったらしくて、それを叔父がウェストミンスターの私の母に知らせたんです。それで、今朝、母から電話が架かってきて、今日は博物館は休みになるらしいけど、何があっても博物館の近くに行っちゃダメよ、危ないからって。母は私のことを心配しすぎてて、オックスフォードで何か変わったことがあると、叔父から報せてもらうようにしてるんです。私のこと、まだ何も知らない子供みたいに思ってるんですよ」
ルイーザはそう言って苦笑した。なるほどね、少しつながったな。彼女の叔父が、博物館の警備員か。その叔父を紹介してもらうことはちょっと難しいだろうが、彼女から何か博物館のゴシップを聞き出すことはできないかな。
「昨日のは傷害事件で、今朝のは泥棒らしい。新聞で読んだよ。昨日は係員が刺されて重傷、今朝は警備員が階段から突き落とされてやはり重傷を負ったそうだから、危ないといえば確かに危ないな。それに、フロアの一部が閉鎖されていて、そこだけ見られなかった」
「ああ、それは従姉も言ってましたね。全部見られなくて残念だって。イングランドの展示ギャラリーだったらしくて」
ルイーザではなくてサラが反応した。彼女がしゃべると、アンナの動向がわかるので、それはそれで有用だ。
「じゃあ、明日もう一度見に行くのかな?」
「さあ、どうするのかしら? 従姉は明日はボドリアン図書館を見に行きたいって言ってたんですけど、日曜日はもう予約がいっぱいで取れないかもって言っておいたから、もう一度博物館に行くって言うかもしれませんね。別のところがいいって言ったら、オックスフォード自然史博物館とピット・リヴァース博物館へ連れて行って、それからアイシスでパントに乗ろうと思ってるんです。その後、時間があれば大学の建物を色々見て回って、っていうくらいで」
アイシスというのはオックスフォード辺りでのテムズ川の呼び名だ。これは地図に書いてあった。さて、このまま放っておくと観光の話になるので、博物館の方に引き戻さないと。
「それにしても、博物館に泥棒とはね。一体何を盗みに来たんだろう」
「博物館には前にも泥棒が入ったことがあるはずですよ。1999年だったかな? 屋根に登って天窓から侵入したんじゃなかったかな。盗んだのは絵だったと思いますけどね」
アランが横から口を挟む。君、研究のこと以外にも色々なこと知ってるなあ。女性二人の研究一辺倒とはえらい違いだよ。それはともかく、やっぱり最上階から入るのが基本だよな。俺がやろうと思っていたことは、10年以上前に別の泥棒がやってたってわけだ。同じことをやってはいけないということはないだろうから、一度は試してみようと思ってるけどね。
「最上階は今は
ようやくルイーザに発言権が戻ってきた。うん、たぶんそんなことだろうと思っていたよ。俺も今日調べてきたけど、予想以上に監視カメラが多かったからな。今朝挑戦した奴は、かなり無謀だったと思うね。ほんとに下調べしたのかと疑いたくなるよ。
「まあ、警報装置や監視カメラがつくと、警備が楽になるからね。昔は警備員が夜中に
「さあ、そこまでしているかどうか……夜中の巡回は今でもやってるみたいですし。でも、巡回の合間の、何もしないで警備室にいる時間が一番退屈でいやだそうですけど」
なるほど、そうすると動体検知センサーはついてないということでいいのかな。まあ、巡回の時だけセンサーを切るというのも考えられるが。
「ナイトさん、そろそろ次の飲み物はどうですか。僕とルーも注文しようと思いますが」
「じゃあ、今度は俺が注文してこよう。何かお薦めの銘柄は?」
「ありがとうございます。では、パルマーズはどうですか」
「ルイーザも同じでいいか?」
「はい、ありがとうございます!」
サラは来たばかりで、まだグラスの半分も減っていないので聞かなかった。カウンターに行き、バーマンにグラスを返してパルマーズ半パイントを3杯注文する。待っている間に入り口の方を振り返る。外で立ってビールを飲んでいる客がいっぱいいる。そっちはそっちでずいぶんと盛り上がっているようだ。昨日と違って大酒飲みの美女は来ていないようだが。
ビールが満たされたグラスを持って席に戻ると、サラが目を細め、口角の端を上げるように微笑みながら俺の方をじっと見ている。この娘は普通に笑っているとモデル並みに可愛いのに、こういう顔をすると映画で美人の
「さあ! お待ちかねの、非線形格子モデルにおける転位の動力学の討論の時間です!」
「よし、
何だかなあ、泥棒するのに応用数学の知識が必要とは思いもしなかった。
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