#3:第1日 (3) 応用数学!?

 博物館を出て予定どおり本屋に寄って帰ることにする。観光案内所ヴィジター・センターから大学寮へ行く途中、ブロードストリートを通ったときにブラックウェルズという本屋を見つけた。その時はちらりと覗いただけだが、間口は狭くても奥行きが広そうだった。そこへ行く。

 入ってみると、予想以上に広かった。地上4階に地下1階。一般書から専門書、新刊書から古書まで。特に西洋古典学は3階の1フロアがそれだけで埋め尽くされていたほどだ。合衆国ならバーンズ・アンド・ノーブルか、オンライン書店の倉庫といったところだ。もし俺が読書好きだったら、ここから抜け出せなくなっていたことだろう。幸いにも、俺が読むのは大学の講義で使われていた資料と、フットボールのプレイ・ブックくらいだから、その他で特に興味があるような本にしか目が留まらない。しかし、興味のある本がどこに置いてあるかが判らないのには困った。俺の時代のように携帯端末ガジェットで本棚の検索ができればいいのだが。

こんばんはグッド・イヴニング

 本棚の間を徘徊していると、後ろから控え目な声がかかってきた。聞き覚えのある声だ。振り向くと、アッシュ・ブロンドのロング・ヘアの女が立っていた。細身のメタル・フレームの眼鏡にも見覚えがある。昼に、草原の小道で道を尋ねた二人の女性のうちの一人だ。確か、少し背の高い方。

「やあ、こんばんは。君は……」

 どうしてここに、と訊こうとしたが、一瞥したところ、首からネーム・カードを下げているのがわかった。周りを気遣って、声のトーンを下げて訊く。

「ここの店員?」

「はい。パート・タイムですけど」

 ほう、俺と同じだな。

「カレッジが終わってから働いてるの?」

「はい」

「どこのカレッジ?」

「クライスト・チャーチです」

 なるほど、それであの場にいたし、大聖堂のことを訊いたら笑顔だったわけだ。ちょうど昼休みで、友人と散策でもしていたのだろう。もしかしたら、草地のどこかでサンドウィッチと魔法瓶サーモのコーヒーで昼食を摂ろうとしていたのかもしれない。

学期タームは明日で終わりと聞いたけど、来週からはどうするんだ?」

 学生寮を観光客向けに公開するのは学期タームの間の休みの時期だけだと、観光案内所ヴィジター・センターで聞いた。今年の第3の学期、トリニティー学期タームは明日で終わりだそうだ。もっとも、定員の関係で常時空いている部屋がいくつかあるとのことだったが。

「ずっとここにいますよ。大学院は学期タームとかあまり関係ないですから」

 そう言って彼女は控え目に笑った。大学院ねえ。俺はフットボールのために大学にいたようなものだから、そうやって研究熱心な学生を見るのは羨ましいよ。まあ、俺も一応研究はしたけどな。ちゃんと論文を出して卒業したし。というか、書かなきゃ卒業させてもらえない事情があったんでね。

「何か本をお探しですか?」

 眼鏡美人がにこやかな笑顔でそう聞いてくる。やけに俺にからんでくるが、もしかしたらこの娘はこのステージでのキー・パーソンなのかもしれない。そうであれば、彼女をおざなりに扱うのはよろしくない。ゲームの世界とはいえ、人との付き合いの度合いをこんな基準で決めるのは甚だ不本意なのだが。ただ、歳が近そうなので話はしやすいだろう。

「ああ、特に何か決めていたわけじゃないが……オックスフォードの歴史が判る本があれば」

「それなら、こちらへどうぞ。歴史に興味がおありなんですか?」

 彼女はそう言いながら俺を別の本棚に案内していく。後ろ姿で女性を観察するというのも変だが、背が高くてスリムで、脚が長い。髪は首の後ろで束ねているが、背中の中程まで届いている。肩幅が狭いなあ。腰の辺りの肉付きも今一つ……まあ、それはどうでもいいか。

「いや、旅行に来たら、その土地の歴史くらいは知っておきたいからね。特にここは、歴史のある街だから。まあ、イングランドはそんなところばかりだけど」

学習ラーニングがお好きなんですね。普通の観光客の方は、ガイド・ブックに書いてあることだけ読んで、歴史書なんて読まないのに」

 その学習も泥棒のためだとこの娘が知ったら、どれくらい驚いたり嘆いたりすることか。

「いや、歴史の学習は苦手だよ。何かのストーリーがあればそれなりには憶えられるけどね。それに俺は大学じゃあ、応用数学アプライド・マセマティックスが専攻だったから、年号や人の名前よりは……」

応用数学アプライド・マセマティックス!?」

 いきなり彼女が振り返って、目を輝かせながら俺の方を見た。その時出した声があまりに大きかったんで、俺は唇の前に指を立てる仕草をした。彼女はバツが悪そうに肩をすくめたが、なおも興味津々の顔つきで俺を見つめながら言った。もちろん、声のトーンを落としながら。

「私、数学科なんです。応用数学科で、何を研究されてたんですか?」

 オックスフォードは文学や歴史が主体で、科学技術系はケンブリッジの方かと思っていたんだが、数学科もあったんだな。しかし、俺みたいな身元不明の外国人が応用数学専攻だと判っただけで、なぜにそんな嬉しそうな顔をする?

「いや、学部しか出ていないので、そんなに大した研究はしてないよ」

「でも、論文は書かれたんでしょう? ぜひ、教えて下さい」

 この娘、可愛らしい顔してるわりに押しが強いな。俺が無理をして話しかけるどころか、無理に話をさせられそうな雰囲気がそこはかとなく漂うぞ。

「応用数学といっても計算機シミュレーションが主テーマだったんで、君が興味を持つかどうか……周期的な井戸型のポテンシャル場の中で、ノイズに基づいてブラウン運動する粒子があると仮定して、その粒子が定常状態にある寿命ライフ・タイムを、方程式を解いて得られる理論値と、乱数を用いた計算機シミュレーションで求めた値を比較するという研究で……」

 モデルとして使用した方程式やら、計算機シミュレーションの条件やらを思い出せる限りの範囲で色々と説明したのだが、彼女はあまりに興味がありすぎたのか、歴史の書棚に行く前に立ち止まって俺の説明に聞き入る始末だった。

「その研究、とても興味があります! 私、強制振り子フォースト・ペンダルムの平衡状態の寿命ライフ・タイムを研究しているんですけど、あなたの研究がとても近いと思うんです。参考文献にしたいので、論文名を教えていただけませんか?」

 いや、教えても無駄だわ。何しろ、俺の方が未来の論文なんだから、引用するとしたら逆の立場だし。しかし、さすがにそれは言えないんで、別の言い訳をしないと。

「学部の時の論文だし、教授の評価が低かったんで、学外には公開してないんだ」

「そうなんですか。残念です。じゃあ、帰国されたら論文を送っていただけませんか? あっ、私の自己紹介を忘れてました。ルイーザ・スタントンです。論文の送付先は、ええと……」

「ああ、いや……また今度この本屋に来るから、その時でいいよ。それより、オックスフォードの歴史の本を……」

 この娘は研究の話を始めると周りのことが見えなくなるタイプなのかな。そしてその話しぶりがあまりにも楽しそうなので、周りもつい引き込まれてしまうのだろう。でもまあ、研究が楽しいのはいいことだよ。スポーツで大学の単位がもらえるなんてのは合衆国だけにして欲しいぜ。

「えっ? ああ、そうでしたね。ごめんなさい。ええと、オックスフォード関連の書籍は、もっと向こうの方で……」

「忘れないうちに、俺も自己紹介しておくよ。アーティー・ナイトだ。合衆国、フロリダ州マイアミ大学卒」

「やっぱり合衆国の方だったんですね。フロリダですか。南の方で、暖かいんですよね。マイアミを舞台にしたTVドラマが、こちらでも放送されてたと思いますよ。ディズニー・ワールドがあって、あと、NASAのケープ・カナベラルがあって……」

 やっぱり訛りで出身がばれてたんだな。しかし、フロリダと聞いてケープ・カナベラルが出てくるあたり、さすが数学科というか何というか。

「この辺りがオックスフォード関連の書籍の棚です。私はどれが詳しい本かとかはよく判らないので、担当を連れてきましょうか?」

「やあ、もう大丈夫だ。自分で良さそうなのを選ぶよ」

「判りました。ごゆっくりお選び下さい。それと、論文送付先を教えますので、また今度絶対来て下さいね」

 ルイーザは笑顔でそう言うと自分の持ち場へ戻っていった。さて、彼女がステージ内のキー・パーソンだとして、一体どんな情報を得ることができるのだろう? 歴史を専攻しているというのなら、アルフレッド・ジュエルに関する知識が得られたのだろうが、数学科とは。ターゲットにどんな関係があるんだ? それとも、ターゲットはアルフレッド・ジュエルじゃないのかな。オックスフォード、数学とくれば、ルイス・キャロル……ああ、そういえば、クライスト・チャーチ大学カレッジの近くにアリス・ショップがあったな。念のために覗きに行ってみようとは思うが、アングロ・サクソンの金細工は、アリスとは関係ないよなあ。

 本屋の閉店は6時30分なので、2時間くらいは長居して店内を見て回ることができる。それでも、全部の書棚を見る時間はなさそうだ。関係ない本も見て回ったが、結局、ブリテン島の歴史に関する全集のアルフレッド大王ザ・グレートの時代が書かれた巻と、オックスフォードの歴史が書かれた本を2冊の計3冊を買うことにした。ルイーザはどこへ行ったか姿が見えない。まあ、彼女を探しているわけじゃないし、これだけ広いからどこかで行き違っているのだろう。

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