#2:第2日 (3) “壁”がある!?

 さて、遠征。借りた単車モトはノーム・エ・ローヌなんていう聞いたことのないメーカーだが、350㏄の中型クラスで、整備状態も悪くない。ただし、もちろんこの時代なのでガソリン車だ。俺の時代は単車モトといえば電気車しかないから、慣れないガソリンの匂いを我慢しなくてはならない。まあ、操作性は同じだから問題はない。スピードはそれほど出ない。せいぜい時速60マイル。ヘルメットは被らなくてもいいそうだ。借りるときに身分証明書が必要と言われたので、免許証とパスポートを提示したのだが、免許証はともかくパスポートは俺が取得したはずのないものだ。それなのに様式や年月日がこの時代に合うように適切になっていたのには驚いた。しかも2週間前の日付が入った入国スタンプまで押してあった。映画の中のスパイになった気分だ。

 その単車モトを駆って、予定どおり西へ向かう。海岸に沿って延びるD98Aを走る。Dは地方道を表し、Aはおそらく枝番だろう。そのD98AがD93、通称ブラージュ街道と分かれて、少し行ったところでマール川を渡るが、この川がサン・トロペとガサンの境界だ。ただし、ガサンの中心部はここから南西に遠く離れた山の中で、この辺りは道路沿いに別荘がぽつぽつと建ち並ぶだけだ。右手は海が近いはずなのに、木立が視界を遮っていて、ただ潮の香りがするばかりだ。

 その退屈な道を3マイルばかり走ると、4方向に分かれる大きなラウンドアバウトがあった。真っ直ぐ行くとコゴラン、左へ行くとガサンの中心部だが、まずは右へ曲がってグリモーへ向かう。しかし、曲がったらいきなりスピードが出なくなった。中古なのでエンジンが故障したかと思ったが、音は快調そのもので――ガソリン・エンジンの音はあまり聞いたことがないのだが、特に異音もしない――問題がないように思われる。それでもスピードは落ちていく。まるでだんだんと勾配がきつくなる坂を登っているときのような感じだが、前に見える道は全くの平坦だ。湾の奥の埋め立て地みたいなところだから、当然だろう。しかし、ラウンドアバウトから4分の1マイルほど行ったところで、どんなにエンジンを吹かしても全く先へ進めなくなってしまった。

 仕方なく単車モトを降りたが、その瞬間、身体の周りに妙な抵抗を感じた。まるでプールの中を歩く時のような、いや、それよりもさらに粘っこい液体に身体が浸かっているときのような感覚だ。その抵抗のせいで、一歩たりとも前へ進めない。まるで目の前に見えない“壁”があるかのようだ。しかし、後ろへ戻る分には全く抵抗がない! うっかり単車モトの後ろへ回ろうものなら、シートに戻ることすら困難になると思われる。

 とにかく、ここから先へ進むのは無理だ。つまり、この“仮想世界”には、やはり“境界”があったのだ! その境界の向こうの景色は、まるで現実世界そのもののように、全く普通に見えているにもかかわらず、だ。しかも奇妙なことに、俺以外の人間――要するに道路を走る車――は何事もなくその境界を行き来している! つまり、この壁というか境界は、“俺だけに対して”存在するということになっている。この地点で俺に適用される物理法則が他と違っているというわけだ。何とも気持ち悪い。

 どんな物理法則が働いているのかを考えるのはさておいて、“壁”を突破できないのなら、戻るしかない。ニースやカンヌはおろか、サント・マキシムへ行くことすら不可能だったわけだ。気持ち悪い抵抗の中、ようやくの思いでハンドルを握り、単車モトをバックさせ――坂道ならブレーキを外すと勝手にバックするはずだが、そういうこともないのがまた気持ち悪い――、抵抗が少なくなったところでUターンして、ラウンドアバウトまで引き返した。この辺りは何のおかしなこともない。

 グリモーへ行けないのではコゴランも危ういな、と思ったが、地図をよく見ると、コゴランの町域は東側が細く延びてサン・トロペ湾まで達している。そしてそれはD98Aの少し北側だ。つまり、俺はコゴランへは入れて、その先のグリモーへは入れなかったわけだ。そこで、ラウンドアバウトから西へ入り、D98――枝番がなくなった――を行く。何の問題もなく進める。しかし、いつまた“壁”が出現するか判らないから、スピードは出さないでおく。

 ラウンドアバウトから1マイルほど進んでも何ともないので、このままコゴランの中心部へ行けそうだが、実はここにはあまり期待していない。観光に値するものが何一つないのだ。もちろん、観光のために来たのではないし、ターゲットが必ず観光場所と関連づけられているとも思わない。しかし、特徴的なものが何もないなら、調査のしようがない。ここにある“特徴的なもの”は教会くらいだが、小さなもので、サン・トロペの聖堂とは比べものにならないだろう。

 それでも、地図に従ってその教会まで行ってみたが、果たして予想どおりの規模だった。町中のちょっとした広場のようなところに建っていて、石造りで古くてそれなりの風格はあるけれども、壮麗さはない。中へ入ってみたが、マリア像もないし、それに代わる何かが展示されているわけでもない。神父もいない。他の観光客もいない。イヴェントが起こりようもない。ここへは“仮想世界”の中でどれくらい動けるのかを調べるために来たと思って、諦めてまた単車モトに乗る。教会前のナシオナル通りを少し北へ行くと、グリモーとの境界があるので、そちらへ向かう。4分の1マイルほど走ったところからまたあの妙な抵抗が襲ってきて、200ヤード先のラウンドアバウトに着くまでが精一杯だった。ここがまさしく、グリモーとの境界だ。

 ラウンドアバウトをぐるりと回って元来た道を戻り、D98を今度は南西へ向かう。すぐに市街地が切れて田園地帯になり、2マイルほど走るとまた単車モトのスピードが落ちてきた。隣の町へは山越えなので、確かに上り坂なのだが、その見た目の感覚を上回る抵抗力だ。結局、地図に描かれている境界どおりの場所でまた進めなくなった。しかし、仮想世界を区切る“壁”が地図上の境界に沿っているというのは、クリエイターの律儀さというか妙なこだわりを感じなくもない。

 D98をずっと戻り、ラウンドアバウトで南へ折れてD559に入る。ラ・クロワ・ヴァルメへ向かおうと思う。ガサンの中心地へはD559の途中からD89という山道に入らねばならないのだが、そこはコゴランに輪を掛けて何もないところなので、後回しにする。ガサンの町域には既に入っているので、ここの中ならどこでも行けるだろうという考えもある。その考え方を敷衍すると、タイヤー岬の一部はラ・クロワ・ヴァルメの領域なので、こちらもやはり行けるだろうという気はするのだが。

 D559は田園の中の山村をつなぐ道路で、何と言うこともない風景の中を走っているのだが、突如として左手に立派な建物が見えてきた。どうやら学校らしい。規模が大きいから、高校か大学だろう。もしかしたらジェシーの通っている高校かもしれない。もちろん日曜日なので学生の姿はない。

 学校の前を通り抜けて、D559を延々と走る。森の中を抜けたと思ったら小さい集落が現れて、小さなラウンドアバウトを通り過ぎた。いつの間にかラ・クロワ・ヴァルメに入っていたようだ。家屋が増えて、町の中心へ入ってきたな、という感じがするが、ここも特に見所はない。敢えて言えば海岸だが、中心部から1マイル以上も南にある。そこへ行けば、砂浜で一人寂しく海を眺める少女、なんてのに出会うかもしれないので、行ってみることにする。D559は町中で右往左往するかのような複雑なルートをとり、やがて南西に向かって、隣町のキャヴァレール・スル・メールへと続くのだが、たぶんその町境にも“壁”があるだろう。

 そして、思ったとおりの場所に“壁”があったことが確認できたので、満足して――本当は気持ち悪いが――海岸へ向かう。単車モトを置いて砂浜に出る。岬と違って高さはないが、砂浜から見る海もいいものだ。砂浜は細く弓なりに曲がり、キャヴァレール・スル・メールまで続いている。ここを歩いて行けば、また見えない“壁”にぶち当たるのだろう。

 季節外れなので、泳いでいる人はいない。日光浴を楽しんでいる人はいる。バーやレストランはあるが、全て閉まっている。一人寂しく海を眺める少女はいないが、カモメたちと楽しく戯れる少女はいた。金髪で痩せぎすなところはジェシーに似ているが、こちらは断然表情が明るい。声をかけるかどうか迷う。俺の時代ならきっと怪しい人物に思われるだろう。さりげなく近付いていったが、どういうわけかカモメたちと少女も移動していく。一定の距離以下に近付けない。これも一種の“壁”か。

 諦めて単車モトのところに戻る。黒髪を後ろで束ねた少女がいて、単車モトを眺め回している。単車モトに興味を持つ少女は珍しい。俺の時代でもそうなのだから、この時代ではもっとまれだろう。

「これ、おじさんトントンのモト?」

 見るからに跳ねっ返りジェイドな少女が単車モトから顔を上げて言った。この時代にもこういうのがいるんだな。

「そうだ」

「どこから来たの?」

「合衆国」

はあコマン? そんなはずないでしょ。このモトにどこから乗ってきたの?」

「サン・トロペ」

「そう。いいなあ、あたしも乗りたいなあ、連れてってくんないかなあ」

 俺に未成年者略取を教唆するつもりか。たとえターゲットの情報をくれるとしても、その手の犯罪者になるのは願い下げだぞ。

「サン・トロペへ行ったことがないのか」

「あるけどめったに行かないから」

「何か見に行きたいのか」

「別に何も。ただ行きたいだけ」

 それじゃあダメだな。せめて聖堂のマリア像を見に行きたいとでも言ってくれれば、考えないでもなかったが。

「残念ながらサン・トロペじゃなくてラマチュエルの方に行くんでね。君を連れて行くことはできないな」

ちぇっズート!」

 舌打ちする跳ねっ返りジェイド少女を置き去りにして単車モトを走らせた。ラ・クロワ・ヴァルメの中心部に戻り、そこからガサンへの近道ショートカットを通ることにする。エスカル街道という名が付いているが、細い山道だ。ガサンの中心部は他のどこの町よりも貧弱だったが、古い聖堂があった。しかもサン・トロペと同じ聖母被昇天聖堂エグリズ・ノートル・ダム・ド・ラサンプシオンという。規模は比べるべくもないが、マリア像があって、飾り付けもなされていた。ただし、王冠は被っていなかった。

 さて、これで今回の仮想世界、すなわち俺が動ける範囲がほぼ判った。サン・トロペ、ラマチュエル、ガサン、コゴラン、ラ・クロワ・ヴァルメの五つの町だ。東西が約10マイル、南北が7マイル。もちろん、その長方形の内部全てを動けるわけではないが、前回よりも格段に広いのは間違いない。今日の目的はほぼ達したと思うので、ゲストハウスへ帰る。距離は7マイルほど。ラマチュエルの中心部を通るので、もう一度見ていくことにしよう。

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