#2:第1日 (2) 静かなサン・トロペ

 1時過ぎにゲストハウスに戻ると、亭主メートルが家の前で不機嫌そうな顔をして立っていた。俺の顔を見ると少しばかり表情を和らげて、客商売の顔になって言った。

「こんにちは、客人オート。荷物は部屋の中に入れておいたよ」

「ありがとう。これは代金だ」

 ジーンズの前ポケットから、あらかじめ取り分けておいた3000フランを出して、亭主メートルに渡した。100フラン紙幣が30枚。俺の財布の中には1000フラン紙幣が10枚以上入っていたが、どうやらこいつは高額紙幣らしいので、ラマチュエルのレストランで食事したときに崩してきた。亭主メートルはざっと数えただけで札束を胸ポケットに突っ込んだ。大雑把だな。俺とそっくりだ。

「さて、サン・トロペの町まで送って欲しいんだが……」

「ああ、そりゃ構わんが、少しだけ待ってくれんか。娘が学校リセから帰ったと思ったら昼飯も食わずに出掛けちまったんで、女房ファムが呼びに行っててね。帰ってくるまで家を空けられんのさ」

「ほう、娘さんをね。どこへ行ったかは判ってるのか?」

「たぶん、この向こうの岬へ行っていると思うんだが……なあに、そこにいなきゃあ今日の昼飯は抜きだ。女房ファムさえ帰ってくりゃあ、それでいい」

 岬へねえ。じゃあ今朝、あの岬に座っていた少女が、この亭主メートルの娘かもしれないな。そういや、どことなく似ているところがある気もする。金髪の色の具合とか。まあ、俺はあの娘をそんなにじろじろ見たわけでもないからよく憶えてないが。さて、その娘なら朝見かけたよ、と亭主メートルに言うべきかどうか。

「一人で岬へ行ったのか?」

「まあな。この辺にゃ歳が近い子がいなくてね。学校リセの友達と遊びたいなら車で送ってやるって言ってるんだが、いつも一人でどこかへふらふら行っちまってなあ。おっと、済まんね、家族の愚痴なんか聞かせちまって」

 亭主メートルはそう言っておどけたような顔を作ったが、あまり様になっていない。彼には気難しいしかめ面がよく似合うと思う。

「なに、構わんよ。そういや、俺の姪にも変わったのがいてね、休みの日はいつも一人で映画を見に行って、後でその映画の監督宛に手紙を書いてるんだとさ。何を書いてるのか知らんが、返事なんて来たことがないらしいし、金がかかってばっかりで悪い趣味だな。岬で海を眺めてる方が、ずっと健全だと思うね」

 俺がそう言うと、亭主メートルはふふんと鼻を鳴らして愛想笑いをして見せた。いかにも作ったような表情に見えて、根っからの客商売の人間ではないことが知れる。かと言って、愛想がよすぎてこちらのことを根掘り葉掘り聞かれても困るから、今くらいのあしらわれ方が適度だと思われるが。

「やれ、帰ってきやがったな。フランソワーズ!」

 岬へ通じる道の向こうの方から二人連れがやって来るのが見えたかと思うと、亭主メートルは大声を張り上げて呼びかけた。俺は自分で目がいい方だと思っているが、亭主メートルは俺よりもっといいらしい。俺にはあの二人連れが、亭主メートルの夫人と岬にいた少女かどうかもわからない。もっとも、夫人の方はまだ姿を見てもいないのだが。

「俺は今から客人オートをサン・トロペまで送ってくる。後は頼んだぞ! よし、これでいい。それじゃあ行こうか、客人オート

 向こうが了解の合図を出しているのかどうかすらも俺からは見えないが、亭主メートルは俺に一声かけてガレージの方へ歩き始めた。俺は後に付いて行くばかりだ。あの少女かどうかくらいは見ておきたかったが、それはサン・トロペから帰ってきてからでもいいだろう。

 サン・トロペには20分ほどかかるとのこと。最初の未舗装道路の乗り心地は最悪。ルメグーを過ぎて、ラマチュエルとサン・トロペ方面との分かれ道の辺りからようやく普通の道らしくなった。道すがら、亭主メートルにこの辺りのことを教えてもらう。

 元々は畑しかないところだったが、パリの劇場経営者がサン・トロペ出身の女性と結婚して、有名な画家を招待したことから上流階級の間で知られるようになり、数十年前から急速にリゾート地として発展してきたそうで、海岸沿いの見晴らしのいいところには別荘や小さなホテルが次々と建ち始めているらしい。今の季節はまだ人が少ないが、夏場は観光客と共にリゾートを過ごす人がやってきて、海岸が人で埋まるどころか、海がヨットだらけになるほどだそうだ。

 亭主メートルの家は例の岬へ行くときの通り道になるので、最初のうちは“道を尋ねに来た人”に夫人がお茶を出していただけだったのだが、夏場はホテルにあぶれた人までやってくるので、“仕方なく”ゲストハウスを始めたそうだ。ただ、本業は農家だし、ゲストハウスの方は余技なので、あまり客に気を遣うということはないらしい。客あしらいに慣れていないのは見れば判るが、本業が農業というのはちょっと信じられない。顔も態度も厳つくて、気楽に農業を続けていた人間とは思えない。

 宣言どおり20分でサン・トロペに着いたが、場所として一番判りやすく、観光案内所も近い、ヨット・ハーバーまで送ってもらった。

「ありがとう。帰りは自分で何とかするよ。だが、もし今日、車を借りられなかったら、明日も送って欲しいんだが……」

 実際は今日借りられないことは確定しているのだが、事前に色々と情報を集めているのは覚られたくない。別にこの亭主メートルを警戒しているわけではないが、ただの無計画な旅行者と思っていてもらえる方が何かと都合がいい。

「明日はこっちに用があって来ることになってるから、構わんよ。ただ、時間は俺の方に合わせてもらいたいがな」

「ああ、問題ない。夕食の前には戻るよ」

 俺がそう言って右手を挙げて挨拶すると、亭主メートルは軽く頷き、車――軽トラックライト・ピックアップだが――をスタートさせかけたが、慌てて窓から顔を出しながら言った。

「おっと、忘れるところだった。夕食は肉と魚とどっちがいい?」

「うん、そうだな、魚を頼む」

「魚だな。解った」

 亭主メートルはそう言って軽く手を挙げ、帰って行った。さて、これから情報収集だ。まず観光案内所へ行く。ラマチュエルの旅行会社ではヴァール県全域という大縮尺の地図しか手に入らなかったが、この付近の詳しい地図と、観光地の情報を仕入れたい。案内所の係員はラマチュエルよりぐっと洗練されていて、俺がイメージしているフランスの女に近くなった。

 地図はサン・トロペの市街地のものと、サン・トロペからラ・クロワ・ヴァルメの例の岬までが入っている手頃な縮尺のものを入手した。観光地については、幸いなことに、英語版のリーフレットがあった。前回と違って情報が多くて助かる。何しろ前回は自分で地図を作ったからな。ターゲットが観光地にあるかどうかは判らんが、まずはメジャーなところから始めることにしよう。

 一番有力なのは博物館だが、リーフレットによると、どうやら絵画だけを置いている“美術館”であるらしい。ポール・シニャックにアンリ・エドモン・クロス、アンリ・マティス、アンドレ・ドラン……新印象派ネオ・インプレッショニズムねえ。絵は嫌いじゃないが、見に行きたいと思うほどでもないな。

 次に城。1850年代に領主が建てたものなので、王冠との関係はあまり期待できないが、何か収蔵品もあるだろうから、詳しいことは行ってみないと判らない。

 それから聖堂に礼拝堂。王冠からどんどん離れていく。戴冠式があった聖堂だとしても、王冠そのものが飾ってあることは考えられないからな。せいぜい戴冠式の絵が飾ってあるくらいだろう。まさか絵の中の王冠がターゲットにはなるまい。

 他には有名な邸宅とその庭、港、市場、城塞シタデル……いずれも期待薄だ。こんなものかな。本屋か図書館へ行けば文献があるかもしれないが、フランス語が読めないんだからどうしようもない。ともあれ、どこかに何かのヒントが隠されているかもしれないので、一通り見に行ってみることにする。初日はまず町を知ることくらいでもよかろう。その前に、旅行会社へ行って、もう一度単車モトのレンタルについて確認し、今日はやはり借りられなかったので、明日の午後から1週間で正式に予約しておいた。

 しかし、旅行会社や街中で気付いたのだが、周りで話されているフランス語は、ほとんど全部俺の頭の中で自動翻訳されている。おかげで2倍の騒がしさだ。ただ、地図を見たりリーフレットを読んだりすることに集中していると、自動翻訳が行われない。要するに、人の話を“聞いてない”と“翻訳されない”らしい。よくできたシステムだよ、全く。呆れるほどだ。

 さて、まず、城塞シタデルに行ってみる。これは街の東側の小高い丘の上にある。期待薄に分類したはずの観光地なのだが、街の全体像を眺めてみることから、という趣旨だ。観光案内所の横からヴィクトル・ロジエ通りに入り、細かく曲がりながら通り抜けるとポール・シニャック通りに突き当たる。そこからすぐに分かれて坂道を上る。少ないながらも、観光客がいるようだ。

 道の両側には高い木々が立ち並び、その間から街の赤い家並みが見える。すぐにその屋根の高さを越え、少し開けたところに出ると、そこが城塞シタデルだった。もちろん、過去の遺物だ。上がってきたばかりの西側を見ると、目の前は湾。手前には街の赤い屋根、そして遠くは対岸の山並みまで見える。これは確かに絵になる景色だ。画家が集まった町らしいから、美術館で探せば似たような構図の絵があることだろう。赤い屋根の間から黄色い塔がぽつんとそそり立っているが、あれがたぶん聖堂だ。

 それから城塞シタデルの周りを歩いてみる。北側は青い海が広がり、対岸は遠く霞んでいる。東側は小さな湾を挟んで岬が見えている。あちらの方にはムット城があるが、そこそこ遠いので今日行くかどうかは判らない。眼下の海沿いには墓場がある。まだ行きたいとは思わない。南側は農村と森。これは大した風景でもない。ともかく、街の広がり具合は判った。だが、この前のステージとは比べものにならない広さだ。こんなところからターゲットを探すのかと思うと、気が遠くなりそうだ。

 肝心の城塞シタデルの内部へは入れなかったので、丘を下りて街に戻る。そして聖堂へ行く。あまり期待はしていないが、近場からでも色々と調べていくしかない。丘の上からは時計塔だけが見えていたが、港に近い街の中にあるバロック風建築の建物で、城塞シタデルと並び、街のランドマークと言ってもいいだろう。正式名称は聖母被昇天聖堂エグリズ・ノートル・ダム・ド・ラサンプシオン

 西側の正面に回ってみる。扉は開いていたので遠慮なく中に入る。お決まりのように東西に長くて、ドーム型の高い天井が連なっていて、奥に祭壇があり、マリア像があり、周りに宗教画と聖人のイコンや立像があり……という、至って普通の聖堂だ。王冠らしきものはどこにも存在しない。神父とおぼしき男がいるが、観光客と思われる老夫婦と話をしている。神父は50歳くらいで、髪は半白、威厳はそれほどないが、温厚篤実ジェントル・アンド・シンセアを地で行くような風貌だ。しばらく待ってみたが、話が終わりそうにないので外へ出た。聖堂の謂われはリーフレットに書いてあるし、神父から聞くほどのことでもない。

 そこから南へ歩き、ガンベッダ通りに沿ってミゼリコルド礼拝堂へ向かう。途中に司祭館がある。先ほどの聖堂の神父の住居らしいのだが、観光用の地図に描かれている意味がよく判らない。普通の家に見える。その前を通り過ぎて礼拝堂に着いたが、せせこましい道に面して建っている、目立たない建物だった。残念ながら入口は閉まっていた。深緑に塗られた木製の扉に付いている鍵穴を見てみたが、おそらくレヴァータンブラー錠だろう。開けるとすれば大した手間もかからないだろうが、今、ここで礼拝堂に忍び込む意味もなさそうだし、人通りもあるし、やめておくことにする。北側の細い路地に入り、見上げると鐘楼が見えた。古くて、別段立派でもない。

 続いてアノンシアード美術館へ。ヨットやボートがやたらと係留されている港のすぐ近くにある白っぽい建物で、元は礼拝堂だったらしい。中に入ると、意外に明るい。田舎の美術館というのは薄暗い中にごちゃごちゃと美術品が飾り立てられているという先入観があるからかもしれない。絵画に興味はないが、王冠を描いた絵でもないかと思って見て回る。予想どおり、城塞シタデルから見た港を描いたシニャックの絵があったが、ターゲットの手掛かりになりそうなものは全くない。まあ、明るい風景画が多くて温厚な気分になれるのが救いだったかな。

 蝶の博物館にも行ってみる。ヴァスロ通りからエティエンヌ・ベルニー通りに入ったところにある小さな建物だ。蝶は宝石に喩えられることもあるくらいだし、蝶型の飾りが付いた王冠でもあればと思ったが、やはりそんなものはなかった。リーフレットにはアルプス山脈で採集された珍しい黒い蝶があると書いてあるが、博物館では説明がフランス語しかないので、何が何だかさっぱり判らない。

 さて、サン・トロペの中心地にあって、歩いて行ける観光地というのはこの程度だ。後は宝石店に行ってみるくらいしかないが、地図には描かれていないので別の方法で探さなければならない。フランス語で宝石店を何というのかは判らないから単に街を歩いているだけでは見つからないだろう。辞書でも買ってみるか。いや、本屋はどこだよ、本屋は! 言語を理解できない国を旅行するというのは、かくも不自由なことだとよく判った。とりあえず、港の見えるカフェにでも行って休憩する。

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