#2:第1日 (2) 静かなサン・トロペ
1時過ぎにゲストハウスに戻ると、
「こんにちは、
「ありがとう。これは代金だ」
ジーンズの前ポケットから、あらかじめ取り分けておいた3000フランを出して、
「さて、サン・トロペの町まで送って欲しいんだが……」
「ああ、そりゃ構わんが、少しだけ待ってくれんか。娘が
「ほう、娘さんをね。どこへ行ったかは判ってるのか?」
「たぶん、この向こうの岬へ行っていると思うんだが……なあに、そこにいなきゃあ今日の昼飯は抜きだ。
岬へねえ。じゃあ今朝、あの岬に座っていた少女が、この
「一人で岬へ行ったのか?」
「まあな。この辺にゃ歳が近い子がいなくてね。
「なに、構わんよ。そういや、俺の姪にも変わったのがいてね、休みの日はいつも一人で映画を見に行って、後でその映画の監督宛に手紙を書いてるんだとさ。何を書いてるのか知らんが、返事なんて来たことがないらしいし、金がかかってばっかりで悪い趣味だな。岬で海を眺めてる方が、ずっと健全だと思うね」
俺がそう言うと、
「やれ、帰ってきやがったな。フランソワーズ!」
岬へ通じる道の向こうの方から二人連れがやって来るのが見えたかと思うと、
「俺は今から
向こうが了解の合図を出しているのかどうかすらも俺からは見えないが、
サン・トロペには20分ほどかかるとのこと。最初の未舗装道路の乗り心地は最悪。ルメグーを過ぎて、ラマチュエルとサン・トロペ方面との分かれ道の辺りからようやく普通の道らしくなった。道すがら、
元々は畑しかないところだったが、パリの劇場経営者がサン・トロペ出身の女性と結婚して、有名な画家を招待したことから上流階級の間で知られるようになり、数十年前から急速にリゾート地として発展してきたそうで、海岸沿いの見晴らしのいいところには別荘や小さなホテルが次々と建ち始めているらしい。今の季節はまだ人が少ないが、夏場は観光客と共にリゾートを過ごす人がやってきて、海岸が人で埋まるどころか、海がヨットだらけになるほどだそうだ。
宣言どおり20分でサン・トロペに着いたが、場所として一番判りやすく、観光案内所も近い、ヨット・ハーバーまで送ってもらった。
「ありがとう。帰りは自分で何とかするよ。だが、もし今日、車を借りられなかったら、明日も送って欲しいんだが……」
実際は今日借りられないことは確定しているのだが、事前に色々と情報を集めているのは覚られたくない。別にこの
「明日はこっちに用があって来ることになってるから、構わんよ。ただ、時間は俺の方に合わせてもらいたいがな」
「ああ、問題ない。夕食の前には戻るよ」
俺がそう言って右手を挙げて挨拶すると、
「おっと、忘れるところだった。夕食は肉と魚とどっちがいい?」
「うん、そうだな、魚を頼む」
「魚だな。解った」
地図はサン・トロペの市街地のものと、サン・トロペからラ・クロワ・ヴァルメの例の岬までが入っている手頃な縮尺のものを入手した。観光地については、幸いなことに、英語版のリーフレットがあった。前回と違って情報が多くて助かる。何しろ前回は自分で地図を作ったからな。ターゲットが観光地にあるかどうかは判らんが、まずはメジャーなところから始めることにしよう。
一番有力なのは博物館だが、リーフレットによると、どうやら絵画だけを置いている“美術館”であるらしい。ポール・シニャックにアンリ・エドモン・クロス、アンリ・マティス、アンドレ・ドラン……
次に城。1850年代に領主が建てたものなので、王冠との関係はあまり期待できないが、何か収蔵品もあるだろうから、詳しいことは行ってみないと判らない。
それから聖堂に礼拝堂。王冠からどんどん離れていく。戴冠式があった聖堂だとしても、王冠そのものが飾ってあることは考えられないからな。せいぜい戴冠式の絵が飾ってあるくらいだろう。まさか絵の中の王冠がターゲットにはなるまい。
他には有名な邸宅とその庭、港、市場、
しかし、旅行会社や街中で気付いたのだが、周りで話されているフランス語は、ほとんど全部俺の頭の中で自動翻訳されている。おかげで2倍の騒がしさだ。ただ、地図を見たりリーフレットを読んだりすることに集中していると、自動翻訳が行われない。要するに、人の話を“聞いてない”と“翻訳されない”らしい。よくできたシステムだよ、全く。呆れるほどだ。
さて、まず、
道の両側には高い木々が立ち並び、その間から街の赤い家並みが見える。すぐにその屋根の高さを越え、少し開けたところに出ると、そこが
それから
肝心の
西側の正面に回ってみる。扉は開いていたので遠慮なく中に入る。お決まりのように東西に長くて、ドーム型の高い天井が連なっていて、奥に祭壇があり、マリア像があり、周りに宗教画と聖人のイコンや立像があり……という、至って普通の聖堂だ。王冠らしきものはどこにも存在しない。神父とおぼしき男がいるが、観光客と思われる老夫婦と話をしている。神父は50歳くらいで、髪は半白、威厳はそれほどないが、
そこから南へ歩き、ガンベッダ通りに沿ってミゼリコルド礼拝堂へ向かう。途中に司祭館がある。先ほどの聖堂の神父の住居らしいのだが、観光用の地図に描かれている意味がよく判らない。普通の家に見える。その前を通り過ぎて礼拝堂に着いたが、せせこましい道に面して建っている、目立たない建物だった。残念ながら入口は閉まっていた。深緑に塗られた木製の扉に付いている鍵穴を見てみたが、おそらくレヴァータンブラー錠だろう。開けるとすれば大した手間もかからないだろうが、今、ここで礼拝堂に忍び込む意味もなさそうだし、人通りもあるし、やめておくことにする。北側の細い路地に入り、見上げると鐘楼が見えた。古くて、別段立派でもない。
続いてアノンシアード美術館へ。ヨットやボートがやたらと係留されている港のすぐ近くにある白っぽい建物で、元は礼拝堂だったらしい。中に入ると、意外に明るい。田舎の美術館というのは薄暗い中にごちゃごちゃと美術品が飾り立てられているという先入観があるからかもしれない。絵画に興味はないが、王冠を描いた絵でもないかと思って見て回る。予想どおり、
蝶の博物館にも行ってみる。ヴァスロ通りからエティエンヌ・ベルニー通りに入ったところにある小さな建物だ。蝶は宝石に喩えられることもあるくらいだし、蝶型の飾りが付いた王冠でもあればと思ったが、やはりそんなものはなかった。リーフレットにはアルプス山脈で採集された珍しい黒い蝶があると書いてあるが、博物館では説明がフランス語しかないので、何が何だかさっぱり判らない。
さて、サン・トロペの中心地にあって、歩いて行ける観光地というのはこの程度だ。後は宝石店に行ってみるくらいしかないが、地図には描かれていないので別の方法で探さなければならない。フランス語で宝石店を何というのかは判らないから単に街を歩いているだけでは見つからないだろう。辞書でも買ってみるか。いや、本屋はどこだよ、本屋は! 言語を理解できない国を旅行するというのは、かくも不自由なことだとよく判った。とりあえず、港の見えるカフェにでも行って休憩する。
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