第64話 アイスクリーム

 クリスはまだ少し火照った身体を手で仰ぎながら目の前に差し出された高級バニラアイスを観察するようにじっと見つめる。

 何度見ても入口近くにあった冷凍庫の中にあったアイスと比べて小さいのだが、値段は倍以上するという話だったので相当美味しいものなんだろうと期待に胸が膨らんでいる。

 しかし、初めて見る容器に入っているので、上に蓋がついているように見えるがどうしていいか判らないのだろう。クリスは同じ容器に入ったアイスを食べようとしているシュウの手元に視線を向けた。


 シュウが小豆色の蓋を取り、中のフィルムを引っ張るようにして剥がすと中身が出てきたのを見て、クリスは自分のアイスの蓋を開いてフィルムを剥がした。

 そこにあるものはクリスにとって、少し黄色味を帯びた象牙のようなものが中心部だけくるりと渦を巻いて凍った塊に見えた。

 チラリと横目にシュウの食べている姿を見ると、容器の外周部から金属製のティースプーンを使って食べているので、クリスはそこも真似しようとティースプーンを右手に取って外周部に突き立てた。だが、このバニラアイスは半端なく硬い。

 ティースプーンを握ってガシガシと掘るように突き立てても、びくともしない。


「なにこれ、石かなにかなの?」


 自分も早く食べたてみたいというのに、あまりの硬さについクリスは呆れたような声を出す。

 それでもまだ諦めきれないのか、またティースプーンを握ってガシガシと掘削作業を再開する。


「ああ、そのアイスは少し溶けるまで食べづらいよな。まだ髪が濡れてるみたいだし、ドライヤーで乾かしてきたら? 戻る頃には丁度いい感じになってるんじゃないかな」


 この高級アイスは硬いので、少し溶けるまで常温で放置するという食べ方がテレビCMでも採用されたほどなので、シュウもその食べ方を知っていたのでアドバイスをした。

 実際に、髪が濡れているなら乾かしている間に丁度いい具合に溶けてくるだろう。

 だが、クリスにはもうアイスしか見えていない。


「溶けるまで……ドライヤーで炙っても溶けるわよね?」


 クリスは既に冷静さを失っているようだ。

 さすがにシュウも呆れた声で返事する。


「いや、それはホコリを吹きかけてるようなものだから止めたほうがいい」

「え? た、確かにそうだけど……」


 クリスは自分では良いアイデアだと思っていたようなのだが、シュウに否定されてつい狼狽えてしまう。だが、目の前にあるアイスを食べるため慌てて考えを巡らせる。


「で、でも髪を乾かしてもホコリが付くじゃない」

「髪は乾いたら表面がサラサラとして、ホコリは勝手に落ちる。アイスが溶けるとそこは液体になるからどんどんホコリが付いて溜まると思わないか?」

「――ッ!」


 クリスもドライヤーを使ってアイスを溶かすとどうなるか想像がついたようだ。少し自棄気味に掘削作業を再開している。

 そこでシュウも年長者としての意見を述べる。


「クリス、日本には『急がば回れ』という言葉がある。何か急いで物事を成したいときは、危険な近道を選ぶより、多少遠回りでも安全安心な道を選ぶほうが良い結果を生むという意味なんだが……クリスはどう思う?」


 掘削作業を中断し、クリスはシュウを見上げるとムスッとした顔で返事をする。


「そうね、言いたいことはわかったけど、シュウさんだけ先に食べるのはずるいと思う」

「ええっ?! ずるいってことになるのか?」


 そもそもクリスが自分で固くて溶けにくいアイスクリームを選んだだけなので、シュウは自分には関係ないと思っていた。しかし、思わぬところで矛先が向けられて固まってしまう。

 シュウは高級アイスはシャーベット系以外は固くて食べづらいことを教えていなかったことに気が付き、自分に責任があるとまでは言わないが、少し配慮が足りなかったと反省して頭を垂れた。


「だから、ひとくちちょうだい!」


 クリスがぐいと右手を伸ばし、シュウの左手にあるアイスカップの中に右手のティースプーンを差し込んで自分の口に放り込んだ。

 口の中にレモンの香りと爽やかな酸味がパッと広がり、さらさらと解けるように溶けていく。一気に口の中の温度は下がり、ひんやりとした液体が喉の奥に流れ込んで消えていく。


「しっかり甘いけど、酸味が口の中をサッパリさせてくれるわね。美味しい」

「あ、うん……そうだろ?」


 シュウはクリスに奪われたことなど気にはしていないが、ティースプーンを突っ込まれる時に右腕に押し付けられた柔らかいものの感触に激しく動揺していた。たとえクリスの行動が無意識であったとしても、やはり男というのは必要以上に意識してしまう。


「と、そのアイスが少し溶けるまでオレも待つから、髪を乾かして来いよ」

「うん、わかった」


 シュウが再度提案すると、クリスはひと口だけでも冷たいアイスを食べられたせいか、機嫌よく立ち上がって洗面台のある脱衣場へと向かう。

 それを見たシュウは自分のアイスに蓋をして、一旦冷凍庫の中に仕舞った。








「フィーンフィンフィンフィーン――フィン」


 髪を乾かすためにドライヤーを揺する音が止むと、すぐにカチャカチャとドライヤー本体を折りたたんで片付ける音が聞こえてくる。

 シュウはクリスに髪を痛めたり、地肌を痛めたりすることがないよう、冷風と温風を交互に使うように教えていたので、それなりに時間が経過している。


 カーテンが開いたままの脱衣所からクリスが出てくると、ソファに座るシュウの左隣にぽふんと座る。

 クリスの髪からはバラをベースにした甘い香りがふわりと漂うと、隣に座っているシュウの嗅覚を擽る。


「女の子のシャンプーの香りってどうしてこんなにいい匂いなんだろうな」

「髪の長さとか、総量の影響が大きいんじゃない?」

「ま、まあそうか……同じシャンプーを使っていても香り方が違うもんな。そうなんだろうな」


 シュウは右手を後頭部に手をやって、どこか照れたような仕草をすると徐に立ち上がる。自分のアイスを取りに行くためだ。シュウはそのままセンターテーブルの向こう側――テレビの前を通ってキッチンへと向かっていく。

 するとクリスはその小さなお尻をスライドして、そのままの状態になっているバニラアイスの前に移動した。ここは、今のところクリスの特等席になっている。ベランダがあるとは言え、窓の向こうには奇妙な形をした塔が見えるし、その先には更に高い塔が見える。それに、絶えず忙しなく動いていることが多いシュウがソファに座ることを考えると、クリスが窓側に座るほうが動線が安定する。


 クリスはようやく自分のバニラアイスが食べられると、どこか希望や期待に満ちた顔をして蓋を取る。

 中心部分はまだしっかりと凍っているが、周囲は溶けて柔らかくこんもりと盛り上がってきている。


「外側の柔らかいところから少しずつ削って食べるといいよ」


 一時的に冷凍庫に避難させていたレモンシャーベットを取ってきたシュウが、クリスの左隣に静かに腰を下ろす。


「うん」


 クリスは右手にティースプーンを持つと、縁の溶けた部分にティースプーンを入れる。

 先ほどとは違い、とても柔らかくなった表面はするりと削り取られ、壺に適度な量が掬い取られた。

 クリスはティースプーンをパクリと口の中へと迎える。

 バニラビーンズの甘い香りが口の中に広がり、砂糖や濃厚な乳脂の甘み、卵のコクが舌を包むとゆっくりと溶けてなくなっていく。


「うわっ! すっごく濃厚ね。甘くて冷たくて――美味しいわ」

「だろう?」

「ふわぁ」


 シュウが相槌を打つ間にもクリスはまたティースプーンで掬い取ったバニラアイスを口に運んで声とも言えない音を口から漏らした。

 そしてまた掬ったアイスを口に運ぶ。


「ん~~~~~っ!! 美味しっ!!」


 クリスは余程アイスクリームが気にいったようで、その後は無言でアイスを食べ続けた。

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