第54話 海の幸(2)
そんな可純の様子も見ずに、クリスは目の前にあるのは胡麻豆腐をじっと見つめている。
胡麻豆腐の説明は受けているし、胡麻そのものはクリスのいた世界にもあるのだが、白く四角い形に固まっていると、どうも違うものに見えてしまう。
「ねぇ、シュウさん。これは本当に胡麻でできているの?」
「うん。胡麻の実を丹念にすり潰してから、胡麻の実を絞ってとった油を入れて、塩と葛粉、水を加えて熱したものを冷やし固めて作るんだ」
シュウは説明しながらカウンターの上に置いてある醤油を取ってクリスの前に置く。
「この醤油を少し掛けて食べるといい。上に載っているのは
「うん、わかった」
クリスは恐る恐る手を伸ばして醤油差しを持つと、そろりと手首を傾けて醤油を胡麻豆腐に垂らしかける。
だが、初めて醤油差しを持ったものだから加減が判らず、思いの外たっぷりと醤油が掛かってしまった。
「これは掛けすぎ……よね?」
やってしまったとばかりにクリスは顔を引き攣らせながらシュウを見上げる。
少しだけ出そうとしても、手首を戻すタイミングを知るのは初めてでは難しいので仕方がない。
シュウは別段呆れるでもなく、お手塩皿を取るとクリスの前に置いた。
そこに可純がタイミングを見計らったように日本酒が入ったグラスを差し出す。
「はい、おまたせしました。チェイサーも置いとくね」
「ありがとう」
胡麻豆腐に集中しているクリスはそこにグラスが置かれたことも気づかないくらい焦っているようで、シュウが可純に礼を言った。
「そのまま切って食べると余計に醤油がつくから、一度こっちに移せばいいよ」
「あ、そうね。ありがとう」
シュウの気遣いにクリスは謝意を述べると。言われたとおりにお手塩皿に胡麻豆腐を箸で摘んで移した。簡単に崩れるほど柔らかい胡麻豆腐でなかったのは幸いだ。
そしてクリスは箸先で器用に胡麻豆腐を切ると、口元へと運ぶ。
「いい香りがするわ。炒った豆のような優しい香り……うっ!」
口に入れなくても、摩り下ろした山葵の香りは少し青臭いが、辛味成分は揮発性だ。それを鼻の前にまで持ってきて嗅いだのだから、そのツンとくる刺激が一気にやってくる。
しかし、手に持つ箸先には胡麻豆腐がつままれているのだから、落とすわけにもいかないし、お手塩皿に戻すにしても口元からは遠い。
クリスの頬を滑るように一筋の涙が流れ落ちた時、胡麻豆腐はクリスの口の中に入っていた。
「んんんーっ」
慌てて箸を置いたクリスはそのまま鼻を摘んで天井を仰いだ。
それを見ていたシュウは、クリスが初めて山葵を口にするとは言え、こんなにも激しい反応をするとは思っていなかったので慌てたように声を掛ける。
「辛かったのか? とにかく、鼻を摘んじゃダメだ。鼻から息を吸って口から吐くんだ」
「うん、辛いというより痛いかも……」
日本人なら幼い頃から少しずつ山葵を使うようになっていくのだが、いきなり生の山葵を食べるとこんなことになるのかとシュウは少し反省する。
「あ、山葵苦手やったん? 初めてなんかな?」
可純は冷静な様子でマヨネーズを取り出すと、お手塩皿に少し盛り、そこにティースプーンを差し込んでクリスの前に出す。
「マヨネーズを直接舐めると辛さが減るらしいねん。知らんけど」
クリスは何も判らず、とにかくティースプーンのマヨネーズを口に入れてみる。
すると、辛味がスッと消えていった。
「あ、本当に辛さが消えたわ。可純さん、ありがとう」
「いや、ほんまに効くんやねー」
可純も半信半疑だったのか、効き目に驚いてケラケラと笑っている。
クリスはなぜ可純が笑っているのか判っていないのだが、隣のシュウが苦笑いをしているところを見ると、自分が原因なのだと思い頬を赤らめて俯いた。
その姿を見てシュウはクリスに声を掛ける。
「初めて食べたから仕方ないよ。次からは山葵を取って食べればいい」
「うん、そうする。あ、これはわたしのぶん?」
「ああ、さっき頼んだ鳳麟っていう名前のお酒だよ」
クリスはチューリップのような形をしたグラスに入った酒を見る。グラスの表面が冷えて白くなっているのだが、上から見るとほんの僅かに黄色く色づいていている。
「すごく薄いガラスの食器ね。ここまで薄くできるものなのね……日本ってすごいわ。これはどうして真ん中のところだけ立っているの?」
何故か中央が突起しているのが気になり、クリスがシュウに尋ねた。
「なんでだろうな……この先の部分まで注げってことなんじゃないか? 現に今も先まで入ってるし」
シュウが想像で答えを言うが、補足するように可純が説明する。
「そのグラスはね、そこまで注ぐという意味もあるけど、グラスを揺するとその突起部分がマドラーの代わりになるようになってて、香りが立つようになってるんよ。
「へぇ、そうなんだ」
クリスは感心したように声を出すが、内心では「マドラーって何?」などと思いつつグラスを丁寧に持つ。そして、そっとグラスの縁に鼻を近づけて香りを嗅いだ。
「よくできた白の葡萄酒の香りみたい。とても華やかだわ」
そしてグラスを傾け、口に含んで口の中で少し遊ばせると、コクリと音を立てて飲み込んだ。
「とても味が複雑で濃いわ。美味しい……だけど、酒精も強い」
「――だからこっちに水を入れてもらったんだ。交互に飲むといい」
シュウが氷水の入ったグラスを指すと、クリスは「ありがとう」と言ってグラスを持ち替えてコクリと一口飲み込む。
そして、胡麻豆腐の山葵を取り除いて再度挑戦する。
「濃厚でねっとりとしてるんだけど、胡麻の風味がしっかりして美味しいわ」
「それはよかった」
クリスは感想を述べると、シュウが既に手をつけているノレソレとイワシのお造りに目を向けた。
小さな小鉢にはポン酢がたっぷりと入っていて、そこに透明でヒラヒラとしたノレソレが浮かんでいる。表面には難波葱とおろし生姜が載っていたのだが、シュウが混ぜてしまっていて今は難波葱がちらりと見える程度になっている。
「これ、食べてもいいの?」
「もちろん」
クリスが尋ねると、シュウは元々ふたりで食べるつもりで頼んでいたので即答した。
小鉢をそっと持ち上げると、クリスは中身を観察する。
「この透明なものを食べるのよね? この透明なのは何?」
少し怪訝そうな顔をしてクリスが尋ねる。
クリスがいた世界には、透明な食べ物はなかったので気になったのだ。カタツムリは季節の食べ物で、普段は肉やその加工品、穀物、野菜などを食べるという食生活だったのだから仕方がない。
「それは穴子という海の魚の稚魚――子どもなんだ。春の短い間だけ食べることができる魚なんだよ」
「でもこれ、生だよね?」
内陸に住んでいたクリスにすれば、生で海の魚を食べるという経験がまったくない。
いや、馬車で十日以上かかる海辺の街でも冷蔵技術がないので少しでも沖に出て捕る魚でも鮮度は落ちてしまうので、生で魚を食べるということはないのである。
「そうだよ。行きたまま港まで運んで、その日のうちにこうして出てきてるから鮮度は保証する。それに冷蔵庫があるだろう? あれで保管すれば次の日くらいまでなら腐ったり、悪くなったりしないから大丈夫なんだ」
「へえ、そうなんだ。だけどまだ抵抗あるな……」
「この季節しか食べられないし、二度と食べられないかもしれないよ?
でも、要らないなら全部オレが食べるから、気にしなくていいよ?」
シュウがプレッシャーをかけていく。
最近は市場でも見かけることが少なく、値段も高くなってきている春の珍味だ。シュウが言うとおり、あるときに食べておかないと食べられない。
「わかったわ。食べてみる……」
クリスは恐ろしく真剣な顔でそう言うと、ノレソレを一匹つまみ上げる。
ポン酢がついて少し色づいているが、透明で透き通った魚体はヒラヒラと薄くて長く、見た目には美しい。
クリスはそっと口にその一匹を入れる。
ポン酢に使った
「とっても繊細な味だわ。でも、生で食べるとほんとうに命をいただいてるって気がするわね」
「ああ、そう思うのなら大切に残さずに食べてやってくれよ? オレは先に半分食べたからな」
「ええ、もちろんいただくわ」
クリスはグラスを持ってコクリと一口飲むと、またノレソレを摘んで口に運ぶ。
シュウは、イワシの造りにおろし生姜と難波葱を乗せて身を丸めると、醤油に付けて口に運んだ。
そこに浩一が料理を運んでくる。
「おまたせ。イカと分葱のぬた和え、酒盗チーズね」
「おお、待ってましたって……坂本さん、ここのヌタって辛子酢味噌でしたっけ?」
「せやで。どうしたん?」
山葵と和辛子の辛味成分は同じものなので、まだ慣れていないクリスに辛子酢味噌のぬた和えは厳しいとシュウは思ったのだ。
だが、ちょうど浩一が目の前にいる時に本来の目的である情報収集を済ませておく必要がある。
シュウはぬた和えのことは後回しにし、浩一に尋ねることにした。
「いや、なんでもないです。ところで、坂本さんに聞きたいことがあるんだけど……いいですか?」
「まぁ、知ってる事やったら教えられると思うけど……どないしたん?」
シュウは居住まいを直すと、浩一に向かって尋ねる。
「隣にあるうちの店、前の店子とか、その前の店子とかご存知ですか?」
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