第46話 水族館(1)
船着き場に置かれたテーブル席で食事を済ませた二人は、数百メートルはある船着き場を歩いて水族館へと向かう。
船着き場は端まで行くと左に曲がっていて、そこには大きな帆船を模した遊覧船が停泊していた。
「わぁ、これが船? 海に出る船って大きいのね」
クリスの住んでいた街は内陸にあるので、船を見ることがあってもほぼ川で使われている船になる。川では至るところに浅瀬ができやすいので、船底は平らにつくられるものが多く、喫水線が浅く、全体に高さが低い。
一方、海は川よりも水深があるので、船はV字型の船底にして喫水線が深くなっている。また、そのぶん高さが出て大きく見えるのだ。
「これはクルーズ船といって、港の中をぐるりと周回して戻ってくるんだ。観光用の船って感じだな」
「わぁ、乗ってみたいな」
クリスは青く澄んだ瞳をキラキラと輝かせて、クルーズ船を見上げる。
思った通りの反応だと思いながら、シュウはニヤリと口元を綻ばせるのだが、いざ乗船するとなるとそれなりに時間が必要である。
そこで、シュウがスマホを使って検索すると、平日昼間のクルーズでは毎時〇分発の四五分間コースになっていると書かれている。一応、ゴールデンウィーク中とはいえ、今日は平日なので運行スケジュールは平日扱いになっていた。
時計の針を確認すると、現在時刻は一二時五五分。
乗船切符を買いに行って間に合うかどうか微妙な時間帯である。
「あと四分ほどで出航だから、今から切符を買っていると出航に間に合いそうにないな……また今度、機会があれば乗りに来よう。ダメかい?」
「そ、そうね……仕方ないよね。水族館に行きましょ」
シュウとしてもクリスが船に乗ってみたいと自分から言いだしたのだから、乗せてあげたいという気持ちもある。だが、明日の営業のことを考えるとどうしても一六時には市場に到着していたいのだ。
一方のクリスはというと、船に乗るという約束や、いくつかの映画を見てから対岸にある遊園地へ行くということなど、楽しみが増えた。ただ、既に文字のことやこの世界のことを教えると言われていて、たくさん教わることもあるのだ。船や遊園地のことはどこかにメモをしておかないと知らない間に有耶無耶にされそうな気がして、落ち着かない。
「ねぇ、シュウさん。船に乗る、あの遊園地に行くのも約束だからね?」
クリスは我慢できずにシュウに確認する。
すると、シュウはスマホを取り出してまたメモを入力すると、クリスに見せた。
「そうだな、約束だ。忘れないようにメモしておいたから大丈夫」
「だったらいいわ……」
安堵したような柔らかな語尾でクリスは呟いた。
シュウにもその声は聞こえていたが、試練を見つけるという限られた期間の中でクリスの願いはいくつ叶えられるのかと考えると、少し不安になる。
日本にいれば、テレビやネットを見れば行ってみたいと思うところや、やってみたいことも増えるだろう。そのすべてを叶えるには、試練を見つける時間が長いほどいいのだが、科学が進んだ便利な世界に慣れてしまうと元の世界に戻ったあとの生活は辛いものになるかも知れない。
そんなことを考えながら歩いていると、建設当時は世界最大を誇った巨大水槽を持つ水族館の前に到着していた。
「ねぇ、シュウさん。これが水族館なの?」
奇抜とは言わないまでも、少し変わった形状をした建物を前にクリスが尋ねる。
「ああ、そうだ。入ろうか」
「うんっ」
シュウは左手を握る手に少し力が籠もったのを感じると、チケット売り場へと足を進めた。
大人二名分のチケットを買って入り口へと進むと、最初に迎えるのは水槽をくり抜いて作ったようなトンネルだ。
視界を青く塗りつぶしたように埋め尽くした水のトンネルには優雅に泳ぐエイや黄色や水色の魚体をした熱帯魚がゆらゆらと泳いでいて、幻想的な音が聞こえると、まるで海の底を歩いているような気分にさせる。
「わぁっ! とてもきれい……」
クリスは海底トンネルの中をキョロキョロと見ては、その美しさに見惚れる。そして、頭上をエイが通るとその泳ぎの優雅さにまた目を奪われ、頭上を眺める。
「そうだな。でも他も見ないといけないんだから、先へ進もうか」
ゆっくりと進むクリスに、シュウはもっとゆっくりと見せてやりたいと思うのだが、時間もないので先に進むように促した。
トンネルを抜けた先にあるのはとても長いエスカレーターである。
そこにクリスを乗せると、一段下に立つシュウとクリスの視線の高さが同じくらいになると、つい目が合ってしまう。
とても美しい青色の瞳を見ると、なんだか吸い込まれそうな感覚に包まれるのでシュウはわざと目を合わさないようにするのだが、すぐにクリスが話しかけてくるのでついまた目を合わせてしまう。
「ここはどれくらいのお魚がいるの?」
「お魚以外の生き物もいるの?」
などと質問されるのだが、生まれて初めて水族館に来たのだからテンションが上がるのも仕方がない。
「どれくらいだろうね」
「どうだろう、見てみないとわからないよ」
ただ、先に教えてしまうと面白くないこともあるのでシュウも適当にごまかすような回答をしていると、エスカレータは最上階に到着する。
「ここは日本の森を再現したエリアだよ。何がいるか探してごらん」
実はパネルに貼り付けられた写真があるのだが、シュウはそのことは内緒にしてクリスに探させてみる。
「あ、あれなに? かわいい!」
とても小さな体躯で愛嬌のある顔、仕草をする動物がそこにいた。
「あれはコツメカワウソだね。川で小魚などを捕まえて食べて生きているんだ」
「そうなんだねって、わっ!」
コツメカワウソに熱中しすぎるあまり、前の水槽が気になって足元を見たクリスは、足元の水槽にへばりつくようにしている黒い物体を見て驚いた。
「こ、これは……いきもの?」
「オオサンショウウオ。生息数が減って、国の天然記念物……保護対象になっている生き物なんだよ」
「ふぅん……」
かわいいコツメカワウソと、グロテスクなオオサンショウウオとのギャップに少し冷静になったのか、クリスはまた展示エリアをキョロキョロと見回す。
「あれ……は鳥の置物よね?」
「いや、あれはゴイサギ。サギの仲間はじっとしていることが多いんだ。ほら動いた」
「あ、ほんとだ」
本当に生きていることに気づくにはたまに動いてもらわないといけない鳥など、飼いづらいだろうとクリスは思いつつ、次の獲物を探す。
水槽に魚が泳いでいるのが見えるのと、石の影に小さなカニがいるのを発見するといちいちシュウに報告した。
「こっちに違う鳥がいるね。番なのかな? 片方は派手だけど、もう片方は地味な色だわ」
「オシドリっていう鳥だね。派手な方がオス、地味な方はメスなんだけど――いつも仲睦まじく番でいる姿を見ることが多いから、それに
「そうなんだね。オシドリ夫婦かぁ……」
何故か感慨深いようにクリスは番のオシドリを見て黙り込んでしまう。
とても夫婦仲が良かった両親のことを思い出しているのだろうとシュウは黙ってその姿を見つめ、野生のオシドリは毎年パートナーを変えていることは内緒にしておく。
しばらくして、シュウが先へと促すとクリスは次の展示エリアへと足を伸ばす。
既にラッコはいなくなり、サクラマスとエトピリカしかいないアリューシャン列島の展示エリアには目もくれず、クリスは目の前を泳ぐ巨大な魚体に目を奪われた。
「わぁ! すごく大きな魚がいる!」
「地球最大の魚、ジンベエザメだね。すごいよな……」
魚体の大きさからして思うよりも小さく、鮫というには丸い背びれがついているが、尾びれの形は明らかに鮫であることを感じさせる長さと鋭さがある。
ゆったりと泳ぐ姿はこの水槽のまさに主と呼ぶにふさわしく、斑点模様の魚体の下にはコバンザメがぴたりとついて外敵から隠れている。
しばらく呆然と見ていたクリスだが、ジンベエザメが向きを変えると、追いかけるようにスロープを降りていく。
徐々に他の魚が泳いでいる姿を見ることができるようになると、今度は
「わっ! こっちもおおきいね」
急に現れたマンタの姿に驚いたクリスは思わず後ずさりする。
アクリルでできた水槽の厚みは相当あるので、目の前を泳いでいても実際には距離があるのだが、自分よりも大きな生き物というのはある程度の恐怖心を与えるものである。
「他にもいろんな魚がいるわね……そういえば、最初にシュウさんが作ってくれたごはんも魚だったけど、この中に食べられる魚はいるの?」
最初にシュウが作った料理は紅鮭の塩焼きだったので、興味本位でクリスはシュウに尋ねた。
一応、ファストフードとはいえ食後すぐなので腹は減っていないだろうが、こうして「食べられるか?」という問いを投げかけるところをみると、クリスは細い身体をして食いしん坊なのかも知れないと思いつつ
「この水槽だと、あのクエとかすごく美味しいんだが……今は旬じゃないなぁ。
他の水槽には食べられる魚もいっぱいいるよ。」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、あとで教えて!」
クリスはそう言うと、シュウの後ろにいる動物に目が向いた。
最初のアリューシャン列島からモンタレー湾の海棲動物に展示エリアが変わっていたのだ。
そこにいるのは、ゴマフアザラシ。しかも、生まれて間もないモコモコのアレである。
「わぁ、かわいいっ!」
クリスは右手に握ったシュウの手をぐいと引いて、後ろの水槽に向かって駆け出した。
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