第43話 初めての電車

 クリスは朝食を済ませると習いたての化粧をし、昨日買ったばかりのお高めなカットソーとデニムパンツを合わせて玄関に立った。まだアイライナーが難しいのか、今日もマスカラなどは使っていない。まあ、クリスの睫毛は長く色も白いので無理してマスカラで色を付けると不自然な気もするので問題はないのだろう。


「シュウさん、まだぁ?」


 何やら出かける寸前になってゴソゴソと服を取り出しているシュウに向かって、クリスは声をかけた。

 シュウもTシャツだけで出かけようと思ったのだが、クリスとのペアルックのようになってしまうことに気がついて、慌てて長袖のシャツを取り出して着たのである。


「ごめん、ちょっと手間取った。行こうか」

「うん」


 クリスはシュウが開いた扉を抜けて昼間の街へと足を踏み出す。

 結局、下着の問題はまだ結論が出ていないので、アンダーが大きくてカップが小さいブラトップのままなのだが、通販で買ったところで数日掛かる。

 ただ、いろいろとクリスと話をしながらシュウが検索したところによれば、もしかするとワイヤーレスのものであればサイズがあるかも知れないということくらいまで判っていたので、近くの店に寄ってから出ることにした。


 マンションを出ると黒門市場を横切り、そのまま裏なんばへと歩を進めていく。

 店の方に行くわけではないので、そのまま人通りの多い商店街の方へと進んでいくと、自然とクリスがシュウの左手を握ってきた。クリスは左手でシュウの肘のあたりを摘んで持ち、上目遣いでシュウを見つめて話す。


「迷子危険だから……ね?」

「ああ、そうだな。こうしてれば大丈夫だ」


 見上げるクリスの表情が少し不安げなので、シュウはクリスに向かって優しく微笑んだ。

 千日前商店街に入ると、基本的には平日なので子ども連れの姿が少ないのと、午前中で早い時間帯というのもあって押し流されるほどの人並みではないのが幸いした。

 この経路は昨日は通らなかった道でもあるのでクリスは途中にある店を指しては何の店なのかと尋ねたりしていた。だが、丁字路の先にあるチーズケーキの店の行列を見つけると、そこの丁字路を曲がればハンバークを食べた店だと思い出す。


「あ、ここは昨日も通ったよね?」

「うん。でも今日はここを曲がってこっちに入るよ」


 とことこと手を握ってクリスがシュウについて行くと、デパートの前にある大きな建物の中に入っていった。入り口には、タオル生地のようなふわふわでもこもこの部屋着などを売る店があり、正面には靴売り場やエスカレーターが見える。


「エスカレーターで上に行くからね。気をつけて」


 まだ乗り慣れないクリスを引き上げるようにエスカレーターに乗せると、何度も乗り継いで上層階へと向かっていく。

 到着したのはムジクロの兄弟ブランドであるビーユーという店だ。

 そしてその女性用下着売り場まで来ると、シュウが調べた結果をワイヤーレスならサイズがあるかもと説明した。

 クリスは服の上からサイズ感を確認して、大きさなどに問題がないか確認する。


「こっちと、こっち……どちらかは試してみないとわかんないなぁ。試着して決めてもいいかな?」

「ああ、そうしよう」


 店員に場所を確認して試着室へと急ぐ。この商業ビルも開店から時間がそんなに経っていないので試着室も空きが多い。


「ご試着ですね、こちらへどうぞ」


 クリスを一瞬見惚れるような視線で見た女性店員が試着室へとクリスを案内し、そのままクリスが試着室に入っていく。

 試着室の側で立って待っていると、衣擦れの音がして試着を始めたことがわかる。


「うーん」


 試着室の中からクリスの声が聞こえる。どちらか一方ではサイズが合わなかったのだろう。また服を着替える音がすると、今度は特に何も声が聞こえない。


 しばらくするとまた着替える音がした後にカーテンが開き、クリスが試着室から現れた。


「こっちの大きさにするわ。ぴったりじゃないけど、今のほど不快感がないから」

「わかった、じゃあ同じサイズのものをいくつか選んで、キャミソールも買おう。支払いが終わったらトイレで着替えだな」

「このあと、水族館というところに行くんでしょう? 荷物が邪魔じゃない?」


 クリスが心配そうに見上げる。

 ただ、この店のある商業ビルの周辺にはたくさんのコインロッカーがあり、シュウはそれを使えばなんとかなると思っている。実際、ゴールデンウィークとは言え、平日なのだからそんなに混み合うことはなく使えるだろう。


「ああ、だいじょうぶ。ささ、急いで探そう」

「ええ、急ぎましょう」


 クリスは下着売り場に戻ると同じサイズの色違いのものをいくつかと、キャミソールを数着取って、買い物かごに入れた。

 今回はシュウの買い物はないので、そのままレジで精算を済ませる。

 金額は全部で八枚ほどだが、値段は一万円を少し超える程度で済んだ。







 着替えを済ませたクリスはトイレから出てくると、すぐにシュウの左手を握り、下から見上げるような視線でシュウに礼を述べる。


「ありがとう、なんかスッキリしたわ」

「サイズが合ってないとたぶん不快だろうなって思っていたんだ。よかったよ」


 実際に女性用の下着などつけたことがないシュウではあるが、合わない下着に対する不快感は想像していたようで、クリスの言葉に安心する。

 そしてコインロッカーの前に待っていたシュウは、クリスの着替えが入った袋を受け取ると中に入れて鍵を閉めた。既にコインは投入済みだったようだ。


「さて、いこっか」

「うん」


 なんとなく楽しそうで、嬉しそうなトーンの声でクリスが返事をする。

 昨日は何が何なのかわからない状態で日本の街を連れ歩かれていたが、今日はアラビア数字くらいは読める程度に成長している。モノの値段がわかるというのは、そのモノの価値を知るということだ。

 だから先ほど立ち寄った服の店やコインロッカー、店が並ぶ食堂街などを通っていても数字が読めるだけで受ける印象が変わった。


 そしてしばらく歩いていると食堂街から雑貨や服などを売る店が並ぶエリアに変わり、広い通路へと出る。ここは地下街だったのだ。

 すると、目の前には大勢の人々が何かを翳すと「ピッ」や「ピピピッ」と音が鳴って閉じた扉が開き、間を通って歩いていく姿が見える。


「シュウさん、あれはなぁに?」

「あれは自動改札機。いま、オレたちがいる場所は地面の下なんだ。そして、そのまた下にずっと穴が掘ってあってね。そこを電車というのが走っているんだ。

 まあ、今から乗るから見ればわかるよ」


 シュウはそう言うとクリスの手を引いて切符売り場に向かう。シュウは交通系ICカードを持っているので問題ないのだが、クリスは持っていないので切符を買わなければならない。

 クリスを自販機の前に立たせると、クリスに百円玉を三枚渡す。


「いいか、これが百円硬貨。これを投入口に入れて、ニ八〇と書かれたところが点灯したらそこを押すんだ」


 シュウの指先はコイン投入口を指していて、クリスは言われたとおりに受け取った百円玉三枚をそこに投げ込む。

 すると、一八〇、二三〇、二八〇のボタンが点灯した。

 クリスが迷わずに二八〇のボタンを押すと、釣り銭二〇円と、切符が排出された。


「釣り銭と、出てきた紙を持ってこっちへ……切符を入れて、通るときにそこから出てきた切符をまた受け取るんだ」


 シュウはクリスの手を引いて自動改札の前に来ると、自動改札の使い方を説明する。

 クリスは少し緊張した表情をしているのだが、言われたとおりに切符を自動改札機に入れると、通り抜けざまに切符を引き抜いて見せる。


「簡単ね!」

「ああ、帰りにはICカードを買おう。さすがに不便だからな……」


 シュウは自分のICカードを使って自動改札を通り抜けた。


「その、ピッって音がするやつ?」


 期待に満ちた表情でクリスはシュウの顔を見上げる。

 JR系のICカードは即時発行されるのだが、その他の鉄道会社が採用しているICカードは事前申込みが必要なのだ。だから、帰り道にJRに乗り換えるときに買うしかない。


「そのとおり」

「やったー! なんか、そっちの方が颯爽としていて格好いい気がするから欲しいなって思ってたの」


 少し無邪気なほどの喜びを満面に湛え、クリスはシュウの腕にしがみつく。あまりの勢いに、ぐるりと正面にまで身体を移動させるとその期待を青い瞳に込めてシュウを見つめあげる。

 その本当に嬉しそうな表情は、昨日いろんなものを買い歩いたどの時よりも輝いていて、シュウもさすがにドキリとしてしまう。


「い、行こうか……」


 急にぎこちなく返事をすると、シュウはクリスの手を引いて御堂筋線の新大阪・梅田方面行きホームへと降りていく。

 ホームには列車が止まっておらず、一駅前の大国町からこちらに向かっていることを案内板が表示していた。

 シュウとクリスが最後尾車両に乗り込めるように並ぶと、新大阪・梅田方面行きのホームに入ってくる旨のアナウンスが流れ、音楽が流れる。


「パァァン!」


 駅に入る時に鳴らされる警笛音が鳴り響き、クリスがその大音量に驚いてビクッと身体を硬直させると、目の前に銀色のボディに赤のラインが目立つ電車が滑り込むように入ってきた。

 クリスは固まった姿勢のまま、目だけで走る電車を追いかける。

 やがて、前に止まった扉が開き、中からぞろぞろと人がでてくると、シュウがようやくクリスの手を引いて車内に乗り込んだのだが、心臓が止まるかと思ったのか、クリスは空いた左手を胸に当てたまま言葉が出て来ず、涙目になっている。

 そして、電車が発車するときに流れた音楽がさっきと違うことに気がつくと、我に返った。


「さっきのは驚いたわ……今までに聞いたことがないくらいの大きな音かも」

「あれは危険を知らせるための警笛だからなぁ」


 クリスは息を落ち着かせるように大きく吸って吐き出した。

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