第36話 空回り

 しばらく経つと、テーブルの上にはチーカマが並び、二本目のビール瓶が転がっていた。既に、ビールに飽きた二人は白ワインを開けており、青い缶の焼き鳥や生ハムを爪楊枝で突いて食べている。

 酒が入れば本来の二人は饒舌になるのだが、いま二人は共通の話題がないことに困ってしまい、なかなか会話のテンポが上がらない。生まれた世界も違うし、育った環境も全く違う二人なのだから仕方がない。

 また、何よりもシュウは女性と接するのが得意ではない。得意ではない上に、クリスはとても美人なのだから余計に話しかけるにも困ってしまう。更に、いま部屋着で二人きりであるという状況もこの雰囲気を作ってしまっている。

 テレビ画面はつけたままだが、クリスはぼんやりと何かを考えるように外を見ているし、シュウはテレビ画面を見ながらもチラチラとクリスの視線が気になっている。


 このなんだか重たい空気を払拭して、お酒を楽しむ感を演出することができる方法はないものかとシュウは考えた。そして、結局は「こども大図鑑」を使って互いの世界の違いというものを理解しようと決めた。


 シュウはおもむろに立ち上がると、今日買ってきた荷物の中を物色して「こども大図鑑」を取り出す。

 最初は「自然」に関することが記されていて、次に「ヒトのからだ」、「科学と技術」などの順にさまざまなものを解説する図鑑になっている。ペラペラと捲っていくと、シュウも知らないようなことまで書かれていて、とても勉強になる図鑑だ。


 シュウはその図鑑を畳んで、テーブルの上に置くとクリスに話しかける。


「なぁ、クリス。地球のこと、日本のことを教えるのにこの図鑑はとても役に立つとは思うんだ」


 クリスは窓の外に向けていた身体をシュウに向けて、首を傾げる。

 そのことは本屋にいたときからクリスも実感していて、地球で言う牛や豚というものが、自分の世界で言う生き物では何に近いかなど、とても理解しやすかったこともよく覚えている。


「うん、すごくわかりやすいわ」

「でもさ、これがあってわかることというのは、クリスにとって自分の世界とはどう違うかということだろう?」


 それが全てではない。クリスが日本の文字を読むことができ、それを理解できるのであればそのとおりだが、実際はシュウが書いてあることを読み上げ、クリスが自分のいた世界との違いを話すことでより理解が深まっていたのである。


「そうだけど、シュウさんもわたしのいた世界との違いはわかったでしょう?」


 クリスは少し怪訝そうな目になり、シュウに問い返す。

 そんなクリスの視線を感じたのか、シュウは慌てて言いたいことを置き換えて話そうとする。


「いや、それはそうなんだけどさ……。

 それだとこの図鑑に載っていないことについて、オレは何もわからない。

 それじゃだめだと気がついたんだ」


 クリスは今度は首を傾げてシュウを見つめる。

 シュウが行ったのは、地球にいる生物のことを教えてクリスがこの世界で生きていくための基礎的な知識を教えるというもの。つまり、いつになるか判らない試練の達成までクリスがこの地球、日本で暮らすためにも必要な知識なのである。


「どうして? シュウさんが教えてくれたことは必ずわたしの役に立つことだと思うよ?」

「ああ、そうだな……この世界で生きていく上で必要な知識としては必ず役に立つことだと思う。だが、それじゃダメな気がするんだ。その……オレは保護者じゃなくて、クリスの理解者にならなきゃいけない」


 シュウの眼差しは真剣だ。

 コンビニからの帰り道、シュウは独り考えて歩いていた。そんなに遠く離れた店ではないのだが、シュウにとってはとても遠く感じる道のりだった。


「たとえば、クリスは一七歳だと言った。だけど、それはクリスが生きてきた世界での話だろう?」

「ええ、そうよ」

「地球では一年は約三六五日なんだが、クリスのいた世界ではどうなんだい?」

「一年は三六〇日。一ヶ月は三〇日の十二ヶ月よ」


 シュウは頭の中で簡単に計算する。五日違いで一七年間分というと八五日分のズレがあるのだが、概ね一七歳で問題はないと理解する。ただ、伝えたいことはそういうことではない。


「もし、一年が五〇〇日の世界からクリスがここに来ていたとしたら、地球だと約二三歳ということになるんだよ。だったら、クリスは一七歳だから酒を飲んじゃダメなのかと言うと、それはなんか違うと思わないか?」

「そうね、たしかに違う気がするわ」


 クリスの同意を得て、シュウも自分の思っていたことに間違いはないと自信のようなものが芽生える。


「クリスはクリスの生まれ育った場所で得た経験や知識でクリスの常識と価値観というものを築いてきたわけだろう?」

「そうね、たぶんそうなんだけど……色んな意味でもう崩壊しちゃってるわ」


 自嘲するような笑みを浮かべ、クリスはシュウの言葉に返した。

 文明レベルがあまりに異なる世界にやってきたのだから、彼女のこれまで蓄えてきた知識や常識など吹き飛んでしまっているし、価値観も似たようなものだ。そこには貨幣やモノの価値のような明確に見えるものもあるが、見えないもの――例えば命の重さなど――に対する価値観も日本では大きく異なってくる。


「だから、もっとクリスのことを知りたいんだ。

 日本に来てしまったばかりでいろいろと辛いこともあるのは判るんだが……それを知らないままだと、何かとクリスに押し付けるようなことしかできなくなる気がする。それはたぶん、クリスには重荷にしかならないだろう?」


 クリスは今日一日の行動で芽生えていたシュウへの不満の原因を見つけたような気がした。

 二人の間で情報収集しなければいけないことも、そのために準備をする必要があることも同意はしているのだが、「早く帰りたい」と焦るクリスの気持ちと、「助けたい」と思うシュウの気持ち……その二つが根本的に噛み合っていないのである。


「ええ、そうね。シュウさんはわたしが帰るために自分にできることを全力でやってくれているのはよくわかるわ。それはとってもありがたいんだけど、なんだか互いに空回りしちゃってる感じがするの。

 だから、歯車をしっかり噛み合わせるために話す必要があるなら、話はするわ」


 シュウもクリスの話に得心したようで、少しバツ悪そうに後頭部を掻きながら返事をする。


「んーああ、そうだな。空回りという表現が一番しっくりするかも知れないな。

 だけど、クリスだけに話させる気はないぞ? オレのこともちゃんと話す。互いに相手のことを理解しないと歯車なんて絶対に噛み合わないからな」

「ええ、わかったわ」


 話したくないことも話し、互いに理解者になることで信頼関係も強くなる。独りで進むよりも、二人のほうが前に進む力も強くなるというものだ。


「じゃ、何から話そうかな……」

「うーん、クリスの住んでた世界のことって言っても漠然としすぎるよな」


 シュウは苦笑いを浮かべる。

 だが、試練に関係することを中心に話をしてもらえばいいのだ。隣国の名前がどうたらで、その国の王の名前がなんちゃらとか、特産物がどうのこうのは関係がない。


「そうだな、生い立ちとか話してもらえると嬉しい」

「生い立ち? 自叙伝みたいな感じのこと?」

「ああ、生まれてから今に至るまでのことを教えてくれると試練のヒントになるものが出てくるかも知れない」


 両親のこと、兄や姉妹のこと、住んでいる街のこと、家のこと……話の中に出てくるだけで何か答えが見つかるかも知れない。他にも習慣などがあれば、それがクリスの自我や価値観などに影響を与えているものなら話をしてもらうべきである。


「じゃぁ、まずは名前からね。

 紹介したとおりクリスティーヌ・F・アスカで、建国歴一二一一年一二月二七日生まれの顎山羊座あごやぎざよ。

 一夫多妻制だから、ミドルネームは何家の嫁から生まれたのか判るようになっているの。だから、正確にはクリステーヌ・フェレーヌ・アスカ。父はエドガルド・R・アスカ。母はソフィア・M・アスカなんだけど……二週間前に亡くなったの。

 その母が持っていた能力を引き継ぐために扉を開いた先がここだった……は教えたわよね」


 眉を八の字にしたクリスが自分でも呆れたように両手を上げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る