第23話 中華街にて「懸け橋は踏まれる」とりんちゃんが…


 前述のように「李先生を迎える会」の一行は四人だった。月代先生、私、日本に暮らして長い中国人女性の劉さん、その娘の「りんちゃん」。日中ハーフの女の子で、地元の、とある名門の国立大学に通っている。まだ十九歳である。

 

 李先生をお迎えした私達は、横浜中華街に向かうことにした。横浜港から中華街はそう遠くない。

 横浜中華街は、日本最大級の中華街だ。広東料理、上海料理、北京料理、四川料理はもちろん、いろいろな地方の料理、薬膳、フカヒレ専門、家庭料理……さまざまな味が楽しめ、異国感も味わえる。いつ来てもわくわくする場所で、私も大好きだ。

 これから、ここのとある高級中国料理店で李先生歓迎のランチ会である。横浜港から中華街はそう遠くなかったが、李先生の乗ってきたクルーズ船が朝早めに着いたので、月代先生が予約した店はまだ開いていなかった。


 りんちゃんが言った。

「お粥だとか、もう開いてて朝ごはんが食べられるところもあるんですけどね。これから食事ですから、先にホテルへ行って李先生のチェックインをお手伝いしましょう。今日、先生がお泊まりになるホテルは中華街からすぐのところにありますから」


「さすが、なんでもご存じなのね」

「そうでもないんですけれど。ただ、この時間の中華街の散歩も、またおつなものですよ」


 私達が立ち話で相談している間も、李先生は注目を集めまくっていた。


 ここは横浜港のそば、犬までもがおしゃれな服を着て散歩させてもらっている界隈なのに、地元民らしいマダム達が、ただならぬ美貌とオーラをたたえて歩く李先生を見て、こうささやくのを聞いてしまった。


「何ごと?」

「ねえ、誰かしら」


 中華街に入ってからは、周囲の注目はますます濃厚なものになった。


 ある料理店の前でこんなことがあった。開店前に外に出てたばこを吸っていた、料理人らしい男性が、李先生と私達を見ると、笑顔で、中国語で何か話しかけてきた。

 まだ若い、なかなかの美男である。ひょっとしたら李先生と年がそんなに違わないのかもしれない。


 顔立ちや背丈がそんなに変わらなくても、その人が異国の人であることは、私でもひと目で分かった。

 日本人にこういう目つきができる人はきっといない。なんといえばいいのか、私から見れば、天を睨むような、あるいは、機嫌が悪いのだろうか、微熱があるのか、といいたくなるような、独特の目つき……少し不愛想なような、かつ落ち着き払った眼差しも、たばこを吹かす時の大きなしぐさも、もの凄く異国的な人だった。


 その顔が李先生を見ると、大きな驚きと笑みに変わった。いいぐあいに煙を吐き出しながら、カラッとしたいい笑顔になる。こういう風に笑える人も、日本人にはきっといない。向こうの人は淡々としているようで、本当に表情が豊かなんだな、と感心してしまった。


 彼は中国語で李先生に何か言ったが、李先生はあだっぽい笑顔でその人を見ただけで何も答えなかった。

 でもこの男の人の目を見た。おそらく容貌を褒められたのだろう。悪い気はしない、そんな感じだった。

 先ほど私とりんちゃんが同じようなことを言った時は、艶然としているようで、何の反応もないように見えたのに。……私達の誉め言葉は必要なかったのかしら?それとも中国では習慣が違うのかな?

 

 そういえば、日本在住ではない中国の人にこうして接するのは初めてだ。ある程度の街に行けば中国人観光客はたくさんいるが、お互いに、ほとんど言葉を交わしたことも、挨拶もしたことがない。隣国の人なのに、考えてみれば不思議だ。


 彼は、次に私達に何か言ったが、私は言葉が分からない。りんちゃんが笑顔で立ち止まって、その男と会話をしていた。


「何話してたの?」


 私が訊くと、りんちゃんは答えた。

「あの店の料理長なんですって」

「へえっ、まだ若いのにね。……あの店、確かけっこう有名な店だよ」


「そうですよね。私も行ったことないんですけどね。『有名人でも来たの?』って訊かれたから、『私達の中国茶の先生の、先生で、中国からご来日中です』って言って。『うちに来てよ。言ってくれれば、俺が料理するから』って。今日はもう予約があるじゃないですか。『しばらく日本にいるんだったら、また来てよ』って。あの人の名前、教えてもらっちゃいました。」


「そうなんだ」

 中国の人は社交的でオープンだと聞いたことがあるが、そうなのだろうか。


 私は中国人が経営する、もしくは深く関わる店の中国料理店の記事を書いたことがあるけれど、すっかり日本に馴染んでいる人ばかりだった。

 中国では有名な店の人も、気が向けば、こうやって知らない人と話をするのだろうか?これも、考えてみれば知らない……。


 りんちゃんの言う通り、横浜中華街は朝の散歩も面白かった。この時間に来たのは初めてである。朝粥あさがゆが食べられる店から立ち上る湯気とおいしそうな匂い、店内の人々、珍しい食材を運ぶ中国の人……皆、今、どういう理由でここにいるのだろう?私も含めて、それぞれの人にいきさつがあるのだ……。


 Bというホテルに着いた。本当に中華街のすぐそばである。

「素敵なホテルじゃないですか。山下公園や元町も近くて、立地がいいですね」

「長旅でお疲れで、荷物も多いから、数日間はここにお泊まりになるの。あとは東京のお友達の家に滞在したり、私の家に来たり、他のホテルに泊まったりなさるご予定よ」

 月代先生が言った。


 李先生がホテルに近づくと、また、印象的な出来事が起こった。まるで、到着する時間を知って、どう迎えるかが計画、計算されていたかのように、ドアマンや、ホテルの従業員が何人もやってきて、一人はきびきびと荷物を運び、一人はすらっとドアを開け、李先生が入館すると同時に、出迎えの人が登場する。そのうちの一人は中国語で李先生と会話をしていた。


 私達までもが丁重かつ熱烈なもてなしを受けた。りんちゃんがけらけらと笑って言う。

「あーれー、私達までがVIP待遇じゃないですか?でも李先生は、このホテルには初めて来た、と言ってましたけれどね」


「そりゃあ、あれだけきれいで、お金持ちオーラが出てるからなんじゃないの。まだお若いはずなのに、貫禄かんろくあるよね」


 李先生がいる光景は、まるで外国のドラマか映画の場面のようだ。なんて分かりやすいのだろう。だから向こうの裕福な人は、ある面分かりやすい、ゴージャスな格好をするのだろうか。こういう応対をしてもらえるからだろうか?……だが今、そんなことを口に出して訊くわけにもいかない。


 チェックインが終わると、月代先生が言った。

「お店が開く時間までもうちょっとあるから、こちらの喫茶室で少し時間をつぶして、出かけましょう。ごちそうが待ってるわよ!事前に相談したんだけれど、李先生の中国茶の持込みも今日はOKらしいから、楽しみにしていてね」

「やった!」


 李先生歓迎のランチ会が行われた中国料理店は素晴らしかった。シックかつ高級感のある玄関をゆっくりと抜けると、エキゾチックで美しい廊下を通った。……ほの暗い、豪華な通路のあちこちに飾られた、素晴らしい中国の美術品……その間を歩いていくのは、異国の特別な客人になって、秘密の宮殿に通されたかのようだった。

 個室に通された。そのさい、偶然に開いた扉から、少しだけ他の部屋の中が見えた。コースメニューを頼むなら安くはない店だが、食卓を囲む、家族らしい客は、おじいちゃんから孫まで、軽装で、とてもくつろいで見えた。


 まずビールで乾杯。絶品の料理の数々を食べながら、李先生の中国茶を飲み、はずむ会話を交わすうちに、いつしか、席はちょっとした日中交流会になっていた。


 何がきっかけだったかは忘れたけれど、りんちゃんが、中国語で男性を非難するさいの言葉を、書きながら教えてくれた。漢字で書いてもらってから聞くと、それらの言葉はさらに強烈に聞こえたが、張りつめた肌の、十代の女子であるりんちゃんが、ニコニコ、ニコニコしてそれらの言葉を発すると、なぜか私は、心の重荷がどんどんおりて、気持ちが軽くなるのを感じた。料理がさらに美味に感じられ、いつしか私はゲラゲラ笑った。皆がそれにつられて笑い、部屋に笑い声が満ちた。


「私、実は小食なんですけれど、今日はいくらでも食べられます。李先生の中国茶と、りんちゃんが教えてくれた罵詈雑言のせいかな」


 私がそう言うと、月代先生がこう告げる。

「そうよ。李先生の中国茶は違うでしょう。また、ゆっくり勉強しましょうね」


「沙奈さん、私は罵詈雑言なんて言ってません、普通ですよ。中国人はストレートですから」


「りんちゃんって、本当に屈託ないわねえ……。複雑な生い立ちなのに」


「私の生い立ちが複雑ですか?」


「だってそうじゃない。劉さんだって、一見、おとなしそうな女性だけれど、激動の人生だわ」

「激動かどうかは知りませんが、確かに、母は庶民のスーパーウーマンですね」


 そこで月代先生が、劉さんとりんちゃんのこれまでについて話し始めた。


「劉さんは、お若い頃に来日なさったの。中国が今のような発展をとげる前ね。それで、日本で、中国文化を勉強していた日本人男性と知り合い結婚、一緒に中国に帰ったのよ。そしてりんちゃんが生まれたの」


「じゃありんちゃんは中国で育ったんだね」

「そうです」


 月代先生は続けてこう話した。

「ところが、劉さんとその日本人男性は離婚なさったのよ。……原因は、相手の浮気!りんちゃんのお父さんは、他のもっと若い、中国人女性と不倫して、その人と再婚したの」

「ええっ!」


「さぞ、お辛かったことでしょうね。劉さんはその時もう、若いとはいえない年齢だったし……でも、ここからが劉さんの凄いところよ。……そんな辛い経験があって、りんちゃんというお子さんもいて、失礼ながら決してもう若いとはいえない年齢だったのに、別の日本人男性とお見合いで結婚して、お一人で日本に戻ってきたの!……しかも劉さん、何回目の見合いで再婚されたんですっけ?数人とお見合いしただけで、けっこうあっさり決まったのよね」


 劉さんが答えた。こうして見ていると、小柄で素朴ないで立ちの、物静かな女性である。

「三回目の見合いで結婚しました。三人目に会った人。年上の、日本人男性ですね」


「今のご結婚はとってもうまくいってるんですって。今は、ご自分で整体院もやっていて、とても成功しているのよ」


「じゃあ、りんちゃんは……。差し支えなければ」


 私が訊いた。劉さんが、さっぱりとした笑顔で答える。

「離婚してしばらくは、中国にいました。私の親の家にいたんです」


 りんちゃんが横から補足して説明した。

「私は中国で、父ともしょっちゅう会ってましたよ。近くに住んでましたし。アー、父は悪い人じゃないですね。母もよく言いますけれど、性格が合わなかっただけですね。……母の生活が落ち着いた頃、私は日本に行ったんです」


 月代先生がさらに続ける。

「それでりんちゃんは今、日本の有名大学に通っているの。でも、りんちゃんが来日したのいつだとお思いになる?十五歳の時なのよ!」


 私は、思わず大声を出してしまった。

「えっ、じゃあ来日してせいぜい数年なの?もっと早くに来たのかと思ってた。凄いね」


 りんちゃんが言う。

「父からずっと日本語、特に読み書きを習っていたので、そっちはあまり困らないです。ただ、うちは、父の中国語が上手で、会話は特に中国語中心の家だったので、私の日本語の会話、しゃべる方がまだちょっと不自然です。でもなかなか直りませんね」


 月代先生がこう質問した。

「りんちゃん、将来はどうなさるの?」


「日本で就職して、日本に住みたいです」


「どうして?向こうで育ったんだし、あっちの人の方がオープンなんでしょ?」


「それはありますね。私も、最初は中国に帰りたかったんですよ。こんな私でも、最初は友達が、なかなかできなかったんですよ。でも、最近、こっちの方が楽しくなってきちゃって。……この前、帰った時に思ったんですが、中国人はオープンな反面、気が合わないと、ぱっと離れちゃうこともあるなって。……日本は、中に入るのが大変だけど、仲よくなるとずっと友達じゃないですか。……とにかく今、大学とサークルが凄く楽しいんです」


「おお、青春だ」

 私が言った。


「はは、『仲間意識』、『和気あいあい』ってやつですかね」


「あー、なんとなく分かる」


「お父さんに言ったら苦笑されましたよ。『お父さんは、日本人のそういう、ベタベタしたつきあいが嫌いだから中国を選んだんだ。だからここにいるんだ』って。逆転してますね」


「彼氏とかいるの?」

「ふふ」

「あ、いるな?きっと日本人の男の子でしょ」

「はは……」

 

 りんちゃんは私の問いに答えなかった。話をそらしたかったのが、月代先生の方に向き直ってこう訊く。

「月代先生、今度一緒に『ハーフ会』に行きませんか?いろいろな国の人とのハーフがいて、一緒に食事したり、なかなか楽しいですよ」


 それまで楽しそうにしていた月代先生の顔が、あっという間に曇った。

「……私、『ハーフ』って言われるの、大っ嫌いだわ!」

「どうしてですか?」


「ハーフだって知られると、いつ誰に急に持ち上げられるか、落とされるか、分からないんだもの。りんちゃん、本当にそういう思いしたことないの?」


「どういうことですか?」


「最初は皆、『だから色がそんなに白いんだ』って言うの。『だからきれいなんだ』とか。次に言われることも、いつも同じよ。姉達は白人顔だったから。『でも、お姉さんには似てないね』とか、あげくは、『親が違うの?』、『なんで英語の成績悪いの?』だとか、学校で全然知らない人に、『お姉さんに比べれば全然地味じゃん』、『可哀そう!』って言われたこともあるのよ。なぜ無遠慮に訊かれなきゃいけないの?それにきりがない」


「それはひどいですね!でも、そういう人もいるってことですよ」

 りんちゃんは相変わらず、けろりとして答えた。


「……りんちゃんの『ハーフ会』だったら行きたいわ。そういう会を主宰したら?あなたのような方こそ、懸け橋になるべきだわ」


「あー、ハハハ、今も将来も、私は懸け橋になろうなんて、そんな気は全然ないですね。懸け橋は美しく、ありがたいですけれど、皆に踏まれるものですよ」


『懸け橋は美しく、ありがたいが、皆に踏まれるもの』

 名言かもしれない。そう聞いて、私は気がつくと、お酒の入ったグラスをあげていた。


「りんちゃん!さすがあの有名大の学生。あなたはきっと大物になるよ、乾杯、乾杯」


「急にどうしましたか?ハハハ。……それにこれは、私のお父さんが言ったことなんですよ」

「それでもいいよ、乾杯、乾杯。また一緒に食事しよう」


「沙奈さん、面白い!ぜひまたご一緒しましょう。私が大物になったら、沙奈さんが記事にしてください」


「沙奈ちゃん、お酒、飲みすぎよ。まだお昼だっていうのに」


 りんちゃんと連絡先を交換、劉さんの整体院の場所も教えてもらった。凄く楽しい会だった。


 そういえば、李先生が主役の会なのに、彼女はあまり会話に加わらなかったような気がする。無口な人なのだろうか。


 李先生をホテルまでお送りすると、私達は中華街をあとにした。


 李先生が見えなくなったとたん、劉さんが月代先生にこう言った。私から見ると、まったく突然のことだった。

「先生、あの女がいる席には二度と呼ばないで下さい。あの女には、二度と会いたくありません」


「『あの女』って李先生のこと?何か失礼があったかしら?私、中国語はほとんど分からないから……」


 月代先生は困惑していた。りんちゃんが苦笑して間に入る。

「いいですよ、私はまた李先生にお会いしたいです。いつでも呼んでください」(続く)

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