第22話 初めての夜 前田正樹の場合

 みさきを家まで送り届けた帰り道、一軒の洋菓子店がタイムセールを行っていた。唯が好きなケーキも売っていたので、これは後から教えて上げようと思って写真だけ撮ってみた。

 そのまま家に向かっていたのだけれど、強くなってきた風が背中をグイグイと押していたためか、思っていたよりも早く家に帰ってくることが出来た。家の中が静かだったので唯がどこかへ出かけているのはわかったけれど、もう少しで晩御飯なんだからすぐに戻ってくるだろうと思っていた。


「ただいま。ねえねえ、スーパーにお遣いに行ったら凄いことが起ったよ。……って、お兄ちゃんが帰ってきてる。お母さん、お兄ちゃんが彼女の家まで行ったのにもう帰ってきてるよ」

「はいはい、まー君はお腹空いているから帰って来たのかな? それとも、お母さんに早く会いたくて帰ってきたのかな?」

「お兄ちゃんはマザコンじゃないからそう言うのは違うと思うよ」

「あらあら、お母さんとまー君が仲良しだからって嫉妬してるのかしら。唯ちゃんも仲間に入れてあげてもいいわよ」

「もしかして、お母さんはお兄ちゃんに彼女出来たことで寂しくなってるのかな?」

「え、そんなこと無いわよ。お母さんはいつもまー君と仲良しだし、唯ちゃんだってそうでしょ」

「その割にはお兄ちゃんの方を全然見てないけど、何か隠し事でもしてるのかな?」

「隠し事なんてしてないわよ。さあ、唯ちゃんが買ってきたお豆腐を使って最後の仕上げをするわよ」


 俺は二人のやり取りを聞きながら片付けをしていたのだけれど、片付けが終わる前に食卓に料理が並んでいた。

 本日の晩御飯は、ハンバーグとサラダに野菜たっぷりの味噌汁と冷奴。冷奴は無くてもいいような気がするけど、栄養的には食べた方がいいのだろうか?


「ねえ、今日のメニューだとお豆腐買ってこなくても良かったんじゃない?」

「そんなこと無いわよ。冷奴は唯ちゃんも好きでしょ?」

「そりゃ好きだけど、ハンバーグとサラダあるならいらないじゃん。お兄ちゃんもそう思うよね?……って、お兄ちゃんのハンバーグ大きくない?」


 俺と唯のハンバーグを比べてみると、明らかに誤差の範囲を超えるくらい大きさに違いがあった。いつも座る席が決まっているので確実に意図的にそうなっていると思うのだけれど、唯は母さんに何か言いたそうな顔をしていた。


「さ、温かいうちに頂きましょう。お父さんは今日も遅いみたいだし、気にしないで食べましょうね」

「ねえ、やっぱりお母さんはお兄ちゃんに彼女が出来て動揺しているでしょ?」

「あら、このサラダのドレッシングは美味しいわね」

「それも、みさき先輩には欠点らしい欠点が無いからし、どうやってお兄ちゃんを取り戻せばいいかわからなくて食べ物で釣ろうとしているわね」

「うん、このお味噌汁もお出汁と野菜のうまみがちょうどいいわ」

「お兄ちゃんは食べ物を多く与えて懐く動物とは違うんだよ?」

「唯ちゃんが買ってきたお豆腐も美味しいわね」

「お母さんがそんなことしたってお兄ちゃんは彼女のもとを離れたりしないと思うわよ」

「お米もふっくら炊き上がって美味しいわ。ハンバーグにもピッタリね」

「お兄ちゃんはもう彼女のモノなんだよ。お母さんが頑張ったってお兄ちゃんの気持ちは変わらないと思うよ」

「もう、そんなにきつく言わなくてもわかっているわよ。私だってあんないい子ならまー君にふさわしいって思うけど、急すぎるのよ。心の準備が出来てないだけなのよ」

「あのね、私もお母さんと同じ気持ちなんだよ。だから、二人で協力してお兄ちゃんがもっと幸せになるように頑張ろうよ」

「唯ちゃん。そうね、こういうのは間違っているよね。お母さんは間違っていたわ。ご飯食べ終わったら一緒にまー君のために何をするべきか考えましょう」

「うん、私もお母さんと一緒にお兄ちゃんのために頑張るよ」


 今日も美味しいご飯を食べられたことに満足した俺であった。食器をキッチンに持って行って軽くした洗いをした後に食洗器に投入すると、食卓ではまだ二人が盛り上がっているようだった。そのままリビングに戻って片付けの続きをしていると、みさきが座っていた場所に何かが置いてあるのが目に付いた。

 近付いて確認すると、女性もののポーチだったのだけれど、唯も母さんもこのようなポーチを使っているところを見たことが無いので、きっとみさきの物だろう。中を見るべきか迷っていると、スマホにメッセージが届いた。


『こんばんは、今日はありがとうね。ところで、猫の絵が描いてあるポーチをなくしたみたいなんだけど、まー君の家に有ったりしないかな?』

 メッセージと一緒に写真が送られてきたのだけれど、みさきが持っているポーチと同じものが俺の手元にある。写真があったのでみさきのだと確認が取れた。

『みさきが座っていたところの近くに落ちているよ。写真と同じやつだから間違いないと思う』

 俺も1枚写真を撮って送ると、すぐにみさきから返事が届いた。

『それだよ。悪いんだけど、明日学校に持ってきてもらってもいいかな?』

 みさきのメッセージとともにまた新しい写真が送られてきた。謝っているのか感謝を伝えたいのかわからないけれど、何となく気持ちが伝わってくる写真ではあった。


 リビングも片付いたので部屋に戻る事にしたのだけれど、母さんと唯はまだご飯を食べているらしく、食卓の方から楽しそうな話声が聞こえてきた。

 廊下に誰もいない事を確認してから鍵を開けて部屋に戻ると、俺は忘れないうちにみさきのポーチをカバンにしまった。机の上に置いたまま忘れそうだと思ったので、カバンに入れておいたのだけれど、しまうときに少し良い匂いがして嬉しかった。


 そろそろお風呂にでも入ろうかと思って下に降りると、唯と母さんの姿が見当たらなかった。玄関に行ってみると靴はあったので家の中にはいると思うのだけれど、姿が見えないのはイヤな予感しかしていなかった。

 何となくではあるけれど、唯の部屋を覗いてもいなかったのでお風呂にでも入っているのだろうと思って風呂場に行っても電気はついておらず、どこに居るのかも見当がつかなかった。


 脱衣所の電気をつけるとそこには誰もおらず、一応浴室も覗いたのだけれど二人の姿はなかった。用心のため脱衣所の鍵をかけると、脱衣所の外から二人の話し声が聞こえてきた。内容まではわからなかったけれど、何となく楽しそうな感じが伝わってきてはいた。


 浴室に入ってシャワーを浴びていると、話し声が近づいてきているような錯覚を覚えた。頭を洗っていると、浴室の中で反響している話し声が聞こえていた。


「お兄ちゃんに彼女が出来たのは嬉しいんだけど、ちょっと家に連れてくるのは早かったんじゃないかな?」

「そうね、まずは話を聞いてからじゃないと心の準備が出来ないわよね」


 近くから聞こえる二人の話し声がやたらとリアルに聞こえていたのだけれど、シャンプーを洗い流し終わって顔を上げると、すぐ近くに二人が立っていた。水着は着ているのだけれど、二人がいる意味が分からなかった。


「お兄ちゃんも水着着てるとか意味わかんないよ」

「そうよ、ここはお風呂なんだから水着を着ちゃ駄目よ。外国の温泉じゃないんだよ?」

「二人は何でここに入ってこれたの?」

「あれくらいの鍵なら簡単に開けられるよ。お兄ちゃんは違うかもしれないけどね」

「久しぶりにお母さんが体を洗ってあげるから、まー君はそれを脱いじゃいましょうね」


 俺は少し熱めに設定したシャワーを二人の足にかけると、猫のように逃げていった。少し嫌な予感がしていたけれど、小学生の時に比べたら水着を着ていただけ大人になったのだと思う事にした。

 お風呂から出たら唯の苦手そうな映画を探してあげることにしよう。


「本当に体を洗ってあげなくてもいいの?」


 俺は母さんの目を無言で見続けていたのだけれど、母さんは何かを納得したような感じで出て行った。唯はもうその時にはいなかったので、母さんより唯の方が大人なのだと思っていた。


 風呂上がりに冷たいものでも飲もうかと思ってキッチンに行くと、ちょうど父さんが帰って来たらしく、母さんがご飯を作っていた。俺が食べたものと同じメニューなのだけれど、言われてみるとハンバーグは少し小さくなっているような気がした。


 リビングに行ってもどこにも唯の気配はなかったので自分の部屋にいるのかと思っていたのだけれど、そこにも唯はいなかった。俺と入れ替わりでお風呂に入ったのかと思っていたけれど、お風呂にも入っていないようだった。

 慎重に鍵を開けると、部屋の中から少しだけ良い匂いがしていた。机の上にはなぜかみさきのポーチが置いてあったのだけれど、俺は深く考えることもなくカバンに戻しておいた。


 俺は換気用の小窓も閉めて窓も完全に閉めてから密室を作り、暖房の電源を入れて出力を最大に設定しておいた。あっという間に熱風が部屋の中を縦横無尽にめぐっていたのだけれど、俺はそのまま部屋に居てもやることが無かったので、気付かれないようにドアを開けて廊下でしばらく待つことにした。


 どれくらい経ったのかわからないけれど、持ってきた文庫本を半分くらい読んだところで背中越しにドアを叩く音と衝撃がやって来た。何かを懇願しているような声ではあったけれど、俺は聞き取ることが出来ないのでそのまま続きを読むことにした。


 そろそろいいかなと思ってドアを開けると、ぐったりしているみさきの姿がそこにはあった。シャツが汗で透けていてピンク色の物が透けていたのだけれど、特に気にしている様子もなく、ただただ暑さに耐えている状態だったみたいだ。


「お兄ちゃん、暑いよ」

「もうすぐ夏だからな」

「夏なら暖房いらないでしょ」

「この街では朝晩の冷え込みが夏でもあるから必要だよ」

「そんなこと言うならこのまま布団に入ってやる」


 俺は唯の腰に手をまわして持ち上げると、そのまま部屋の中から出してあげた。結構汗がついてしまったけれど、俺は細かい事は気にしないのでそのままタオルで拭いておいた。


 部屋の温度を戻すために暖房を切って窓を開けると、先ほどまで吹いていた風に加えて雨も降っているようで、ちょっとした嵐になっているようだった。

 それを見ていると、みさきからメッセージが届いているのに気が付いた。


『今日は二人が付き合って最初の夜だね。』


 短いメッセージではあったけれど、少しだけみさきの事がわかったような気がしていた。

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