三月の木曜日、春の日暮れ。
青い紙パックか、ボトルタイプか。
人目を気にせず乳製品の並ぶ棚を睨めつけ、かれこれ十分は経っている。
会社帰りのスーパーは人も少なく、松葉はこの時間に寄るのが好きだった。
生鮮食品はほとんど売れてしまっているけれど、それでも構わない。
気をつかわずじっくりと、いつもより高い牛乳を買うか
たっぷり悩んで買い物ができる。
「……よし。高い牛乳の気分ね」
ついでにヨーグルトもカゴに入れていく。
水切りのしてある堅めのギリシャヨーグルトが好みだ。
酸味がありまろやかで、チーズよりは軽く、プリンよりは重い。
蜂蜜やオートミールを混ぜて食べれば、軽食の代わりになる。
気分よくカゴに食品を放り込んでいくと、菓子売り場に細長い人影があった。
「近所に住んでるのはわかってるけど、本当に遭遇率が高いわね、君」
「……あれ、仕事帰り? ごめん、
買い物してる最中に会うとは思わなくて」
完全に油断していたのか、奏はうろたえたように
スナック菓子の袋を摘んで驚いている。
「夕飯はスーパーの弁当?」
「うん、この時間割引だし。
松葉さんは……ヨーグルト? それって明日の朝食?」
「失礼ね、私の夕飯よ」
「ヨーグルトだけじゃ、お腹減らない?
ダイエットなら必要ないと思うけど……」
「……ダイエット中じゃない。
いいのよ、これ食べてすぐ寝るんだから」
天丼弁当を片手にした奏を置いて、会計を済ませる。
袋に詰め外に出ると、奏が街灯の下で待っていた。
「何よ、先に帰ればいいのに」
「暗いし、一応送っていくよ」
「事件なんて滅多に起きないでしょ、この住宅地」
「まあまあ、そう言わず。ほら、袋持つから」
そう言ってさっと奏はスーパーの袋を奪ってしまった。
牛乳のボトルや野菜が入ってそれなりに重いはずだが、
細身の奏は軽々と持って進んでいる。
いいのにと松葉はぼやくが、まあまあと
なだめられてしまえば抵抗する理由もない。
「君は一人暮らしなの?」
奏の袋には一人前の弁当とせいぜい菓子パンしか入っていなかった。
この辺り一帯、新興住宅地とはいえ大学やオフィス街も近く、
松葉のような単身者向けの賃貸も多く建っている。
「そう。実家から通うより大学が近いし、自由にできるから」
大学生なら、自立できる余裕があればそうしたい年頃だろう。
「私も大学に入ってからここに引っ越したわ。
親には兄弟もいないし、部屋もあるんだからって止められたけど」
「じゃあ一人っ子なんだ、松葉さん。俺は兄貴がいるよ。
それもあって、部屋を空けようと思ってさ。
実家もマンションだからあんまり広くないんだ」
「へえ、偉いじゃない」
「でも兄貴も今度引っ越すらしくて。
卒業したら実家に戻ってもいいかなって考えてる」
「どこでも仕事ができると、住む場所も
選べるのよね……ちょっと羨ましい」
松葉は大学入学からずっと同じマンションに住み続けている。
住まいへの不満がなくとも、違う場所へ行って
環境を一新できるのならやってみたいと、惹かれるところがある。
「ある程度はね。あんまり遠くに住むと
打ち合わせもあって大変だから」
「そう。それじゃあ海とか……
離れた場所に住むわけにもいかないのね」
「できなくはないけどね。松葉さんは海に住みたいの?」
「聞かれれば住んでみたい気はするけど……
ほら、作家って山とか海の旅館に籠って書いてそうなイメージがあるでしょ」
「ああ、文豪みたいなね。俺はほら、パソコンもあるし
電源繋げられれば近場の店でいいかな」
「だからあのバーで仕事してるのね」
「そういうことだね。あそこ昼間はカフェの営業してるからさ」
奏の私生活についてここまで詳しく聞いたのは初めてだった。
だいたい松葉が彼の質問に答えてはそれをメモされるばかりで、
謎めいた青年という印象のままだったが、案外と普通の男子学生だ。
雑談に花を咲かせている間に、駅からほど近い
マンションの前まで着いてしまった。
「松葉さん、週末は暇?」
「また取材に行くの? ええ、暇よ。
友達はみんな相手がいて忙しいから」
女友達を誘おうにも、恋人と過ごしている子ばかりで誘い難い。
瑛奈もこの間飲みに行った相手の一人と付き合っているらしい。
「空いてるならよかった。じゃあさ、次は美術館に行こう」
「へえ……今回は行き先を言うのね」
「うん、美術館ってオシャレしてくる人多いから。
松葉さんも知っておいた方がいいかなって」
「……まあそうね。うん、いいわよ。
行きましょうか、美術館」
松葉が乗り気を見せたせいだろうか。
奏はこれまでにない程に嬉しそうに笑った。
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