三月の金曜日、誘い
三月に入り、通勤用のコートは薄手のトレンチになっていた。
春とはいえまだ夜はいくらか冷えて、
コートの前を合わせながらカクテルの缶を口に含んだ。
アルコールの苦さが一番に主張してくる安っぽい味だ。
まだ温かい肉まんを取り出して頬張って、一つ溜息をついた。
「もう三月、か……」
何ごともなければ、今頃は石蕗とその婚約者に会い、
一緒に食事を楽しんでいただろう。
「なんで告白しちゃったんだろう……」
そんな度胸もないからずっと黙っていたのに、
とうとう友達でもいられなくなった。
バーで泥酔して以来、久しぶりの一人酒に悲しさがこみあげてくる。
石蕗からはあれから数度メッセージが届いていて、
丁寧な文面で謝罪したいと書いてあった。
松葉が謝ることはあれど、石蕗がそうする必要はない。
異性として関心のある、思わせぶりな態度を
取るだとか、そういった関りはまるでない間柄だった。
石蕗の実直さが益々つらく、一方的な罪悪感が募って返信できずにいた。
感傷に浸りながら石蕗のメッセージを眺めていると、通知が入った。
「これから飲むんだけど、あんたも来ない?」
他部署のそれなりに付き合いも長く、仲のいい女友達からだ。
その唐突さに、学生時代を思い出した。
社会人になってからはめっきりなくなったものの、
こんな風に誘い合っては遊びに出ていた。
暇を持て余していた松葉は缶を潰し、
そのまま通勤用の服を着て友人の待つバーへ向かった。
「松葉、今仕事帰り? 言ってくれたら着替えてくるの待ってるのに」
バーの外で迎えてくれた永奈が軽く不満気な表情をする。
「今ってわけじゃないけど。別にこのままでもいいでしょうよ」
通勤用とはいえオフィスカジュアルなのだから、さしておかしい服装ではない。
丈の長いタイトスカートに黒のブラウス。
目立ちはしないが無難な組み合わせだった。
「ううん、違くって……まあ入ったらわかるから。
それにしてもこのバー、いい感じじゃない?」
「会社も近いし、悪くない場所でしょ。モダンな内装だし」
待ち合わせには例の、松葉が酔い潰れそうになったバーを指定した。
二度目に奏と食事した時にようやく内装まで気が回った松葉は、
コンクリートが剥き出しになっている、
その落ち着いた色合いの内装を気に入っていた。
元々入っていたオフィスが移転した後に改装した店なのか、
シンプルで近代的な室内に、変わった趣の席を配置していた。
バーというよりは、美術館の喫茶店といった雰囲気かもしれない。
「お、友達さん合流できた?」
永奈について席へ行くと、見知らぬ男性が二人座っていた。
「友達の松葉だよ。松葉、この二人は――」
「……え、松葉さん?」
背を向けていた壁際の席から声がかかる。
「……奏君? え、何で――ああ、仕事してるの?」
どうしているのかと言いかけて、奏とは
このバーで居合わせたことがあったのだと思い出す。
今夜もノートパソコンを広げて、ドリンク片手に一人、席についていた。
「びっくりした、すごい偶然……でもないのかな。友達とお食事ですか?」
奏は松葉の後ろにいる永奈と、その友人らしき男達に声をかける。
「もしかして松葉の彼氏とか?」
「彼氏って……違うよ、そんなんじゃなくって、ええと何ていうか……」
奏は勿論、恋人ではないが、知人とも違う。
複雑な出会いを頭の中で反芻していると、奏が口を開いた。
「松葉さんとは、そうだな……一言で説明するなら、特別な関係かな」
「特別って……ああ、もう変な言い方しないで。
友達よ、今度説明するから……」
「友達にしては年が離れてるんじゃない?」
永奈の追及にどう説明したらいいのか、
奏との関係のややこしさに松葉は額を押さえた。
「ねえ、君もよかったらどう? おねえさん奢っちゃうわよ」
「いいんですか? じゃあお邪魔しようかな」
松葉を真ん中に、永奈と奏が横に並んで座った。
まさか奏が同席するとは思っていなかった松葉は絶句する。
奏は決めたら譲らない部分がある。
今までも何度か強引な面はあったが、ここはさすがに
気を利かせるだろうと予想していた松葉は頭を抱えそうになるが、
ぐっと堪えて先ほどから放置されている男性達に声をかけた。
「ええと……紹介聞きそびれてしまいましたけど、そちらは?」
「ああ、永奈とはサークルメンバーでさ」
突然同席することになった奏に、永奈の友人達も驚いていた。
二人もフロアは別だが、同じ社に勤めていて
社内サークルで付き合いがあるらしい。
「で、そっちの彼は? 若いよね、学生さん?」
逸らした話題を戻され、松葉は半ば呆れ気味になった。
「学生でもあるんですけど、一応働いてます。兼業で執筆をしてまして」
「執筆って、雑誌のライターとか?」
「……小説を書くって言ってたわよね」
「そうですね。ライターというよりは小説家ですね」
執筆業をしていると聞いたのは初めてだ。
松葉はてっきり、趣味でやるような執筆だと思っていたが、
もっと本格的な、仕事としての作家業だったのだ。
その後も奏の話で持ち切りになり、
奇妙な組み合わせの飲み会に終わってしまった。
永奈が帰る方向一緒なら送ってあげてと、
奏に松葉を押しつけて帰っていった。
飲み直す気分にもなれず、松葉は二人で帰ることにした。
「結局何だったんだろう、今夜の飲み会……」
社内に知人が増えるのはいいことだが、
もう少し彼らの部署の話を聞いてみたかった。
「あれって合コンかと思ったんだけど、違うのかな?」
「ええ、まさか……いや、永奈なら
黙ってセッティングするかもしれないわ」
率先して幹事をするタイプだ、今晩のような
さり気ない合コンも開いていそうだった。
「合コンだったってわかってたなら、どうして同席したのよ。
男女比が合ってないのに合コンもないでしょう」
「それはもちろん、誘われたからだよ」
胸を張って言う奏に呆れるが、
声をかけたのは永奈なのだから彼に非はない。
「奢ってもらえるからって同席したわけじゃないよ。
同年代で働いてるのってあんまりいないから、社会人像の参考になると思ってさ」
「……とすると、君の書いてる小説っていうのは、働いてる女が主人公なわけね」
どうしてわざわざ、その年頃の女を選んだのだろうか。
疑問には思ったが、もう目の前にマンションが
見えたのもあり、松葉は特段聞かずに流すことにした。
「じゃあ。私のマンションここだから」
「あっ待って、明日って用事入ってたりするかな」
片手を上げてさっとエントランスに入ろうとすると呼び止められた。
「映画に行こうと思ってるんだけど、
もし何もないなら……一緒にどう、かな」
「……何か観たいのでもあるの?」
「うん、いくつか気になってるのがあるんだ。
あとよかったら、こっちが本題だけど――その後の話を聞かせて欲しいんだ」
その後とは、石蕗の件を言っているのだろう。
もう洗いざらい経緯も話してしまったのだから、今更隠す必要もなかった。
「……わかった、いいわよ。明日の午後に駅前で待ち合わせね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます