日曜日のBAR

路地の一角に建つバーは、昨夜の激しい雨を忘れたように乾いている。


松葉が窓から広いフロアを覗くと、あの黒いパーカーの青年がいた。


パーカーの形は違うけれど、それでもやっぱり

黒さは変わらない。松葉は一目でわかった。


日曜の夜で、それなりの客入りだというのに

隅のテーブル席で一人、本を読んでいる。


「待ち合わせ、でもないか……」


誰かと話している様子なら、松葉は話しかけずに帰るつもりでいた。


連絡を気にしている様子もない。

本当に松葉のことを待っているのだろうか。


溜息を一つついて、松葉はバーの扉を開けた。


店内に入ると、女性客が青年を気にするように視線を向けている。

このまま黙って他の席に座れば、そのうち誰かしらが青年の席に座るだろう。


淡いモカのロングガウンを揺らして、青年の座るテーブル席の側へ立った。


「……お一人ですか、おにいさん」


本から顔を上げた青年は少し驚いた顔を

見せた後、どこか嬉しそうな笑顔を見せた。


「来てくれたんだね、おねえさん」


「そりゃあ来るわよ……悪かったね、迷惑かけてさ」


「ううん。無事に帰れたみたいでよかったよ」


後先考えず一人きりで酔い潰れることは今までになかった。


松葉は自分が飲める量を理解していたし、

あそこまで自暴自棄になることもなかった。


「何を読んでるのかな、それは」


「これは……好きな文庫の新刊。書店で平積みに置いてあったから買ってみた」


「ふうん」


「おねえさん、昨日よりは元気そうだね」


青年は首を傾げて、頬杖をつく松葉の表情をうかがってくる。


「元気ってほど元気じゃないけどね……昨日のお礼に一杯奢るから」


「じゃあ奢られようかな。そうだな、ジンジャーエールがいい」


頃合いを見計らって現れたバーテンダーに

注文を伝えると、サービスでオードブルが出てきた。


簡素なポテトサラダに明太子を混ぜたものだ。

クラッカーが数枚のっている。


「今飲んでるそれも、ソフトドリンク?」


半分ほど空いたグラスの透明な炭酸を指すと、青年は頷いて返す。


「今日はおねえさんの話を聞くつもりできたから」


「どうして酔い潰れてたか聞きたいんでしょう?

でも残念、おもしろい話じゃないから。どこにでもある、ありふれた話」


「ありふれていても、おねえさんにとっては辛かったから、

そうしていたんじゃないの?」


「……これってやっぱりナンパに聞こえるんだけど」


見透かすようなことを言われて、つい余計なことを口にしてしまった。


沈黙が降りたテーブルに、バーテンダーがグラスを運んでくる。

ほのかに黄色く色づいたジンジャーエールと、薄い青に濁るカクテルが並んだ。


「……また青い酒なんだね。青が好きなの?」


「そうさね、好きと言えばそうかも」


「ライチの香りがする。それ何て名前の酒?」


「チャイナブルー。飲んでみる?」


「ううん、いいや」


青年は断って、ジンジャーエールのストローに口をつけた。


「ああ、ナンパかって話だったね。そうじゃないんだ」


「じゃあ……何? わざわざ他人のつまらない話なんて聞く理由、他にある?」


「つまらないかは何とも言えないけど、僕にはその話を聞く

『目的』がある、って言えば納得してくれるかな」


「目的って……どういうことさ?」


「こう言うと怒るかもしれないけど……

話に書きたいんだよ、おねえさんのこと」


「話に書く……話って、小説みたいな?」


「そう。小説の案として使わせてほしいんだ。

もちろん、ある程度は脚色するからそのままとはいかないけど」


「小説……名前を出さないならいいけど。

ああ、もしかして講義の課題とか?」


「違うよ、個人的に小説に書きたいってこと」


「へえ。小説を書くんだ……いいわ、おもしろそうじゃない」


ようやく緊張の解れてきた松葉は、チャイナブルーに口をつけた。


ライチの香りとグレープフルーツの甘さが口内を

満たす感覚を楽しみながら、何とも奇妙な縁だと思った。


公園で出会った不審な黒服の青年が、

翌日には酔い潰れた面倒を見てくれて、話に書きたいと。


「ねえ、完成したら読ませてくれる?」


「もちろん、約束する。

それから、俺は奏って名前なんだ」


「奏、ね。私は松葉」


「松葉さん。それで――聞かせてくれるかな、昨日ことを」






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