12 ノボル/登
アルバイト先のデザイン会社でマウスを使い女性の肌を無機質にする作業をしていると、パーカーのポケットが震えた。きっとメルマガだろう。会社のラジオからは People in The Box の「月曜日/無菌室」が流れている。一応確認すると、沙耶からメールが届いていた。『お疲れさま。今夜うちにご飯食べに来ない?』彼女らしいシンプルな文面を見ていたら思わず顔が綻ぶ。『今日』だなんて珍しいな。
「彼女から?」
隣の席でパソコンのディスプレイを睨んだままの純子さんに話しかけられた。結構な速さでキーボードを叩いているが、文字を打っているわけではないらしい。ショートカットキーを駆使する彼女の手によって、長方形の画面の中で高級アイスクリームの広告がどんどん出来ていく。
「はい」
恥ずかしい。iPhoneをポケットに隠す。
「返信しなくていいの?その仕事終わったらあがってもいいよ」
「いいんですか?ありがとうございます!」
一瞬僕を見てニヤリと笑う。仕事の仕上がりについては厳しいけれど、こういう時は優しい。純子さんだけじゃなく、僕ってほんと、人に恵まれている。ポケットから iPhoneをそろりと出して、沙耶にメールを送る。沙耶に会える。早速作業を再開する。Photoshopでなるべく丁寧に、視界の、思考のひっかかりになる部分を、写真から取り除いていく。
ポツポツ、ポツポツ…空から落ちてくる雨の線や真っ黒になったアスファルトが街灯や車のライトの光を反射して町中をクラブハウスみたいにきらきら輝かせている(僕はクラブハウスに行ったことはない)。足元に僕の姿が映って鏡の上を歩いているみたいだ。そういえば雨が降っているのは初めてだな。沙耶と会うとき、沙耶といるとき、傘をさしたことがなかった。沙耶と並んで地面に映る僕を見たことがない。
沙耶の家に着いて、骨が数本曲がっている青い折りたたみ傘をたたんでいると換気口からおいしそうな匂いが漂ってきた。カレーの匂いだ。チャイムを押すと中からファミリ ーマートに入ったときと同じ音楽が流れる。引き戸が開いて、傘についていた水滴で濡 れてしまった僕の手を沙耶が引っ張る。
「おかえり」
「ただいま」
僕の家じゃないのだけれど。なんだかむずがゆい。握られた手から沙耶の温もりが伝わってくる。
「ふたりとも手洗ってきてね」
リビングの細長いテーブルに三人分のコップやスプーンを並べながらユウコさんが僕たちを見て笑っている。傘立ての横に僕の傘を置き、雨で汚れた白いスニーカーを脱いで家にあがる。左手は沙耶に捕まったままだ。そのまま洗面所まで連れて行かれると、沙耶は 彼女の手と一緒に僕の両手も洗う。指の間まで、爪の先まで、丁寧に洗ってくれる。くすぐったい。いたずらっぽく笑いながら、僕の手をタオルで雑に拭く。ふたりでお互いの手を拭きあいっこする。
「いつまで洗ってるのー」
ユウコさんの声がしたので急いでリビングに戻ると、すでにテーブルの上にお水とサラダ、カレーが3つずつ並んでいた。カレーの器は3つとも真っ白だけれど、形や大きさがばらばらだ。一番奥のお皿の前にユウコさんが座っている。沙耶がユウコさんのとなりに、 僕がそのとなりの一番大きいお皿の前に座る。いつもこんなふうに三人並んでソファーと テーブルの隙間に座るけれど、みんな右利きなので手がぶつかる心配はない。
「いただきまぁす」
沙耶がスプーンを両手の親指と人指し指の間に挟んで顔の前で合掌して言った。僕とユウコさんも真似する。
「いただきます」
「いただきます」
ごはんとルーの中間をスプーンですくって口に運ぶ。豚肉の甘い脂が溶け込んだルーが口の中でほかほかの白いごはんと混ざり合う。うまい。ルーに隠れている小さい人参やじゃがいもも美味しい。沙耶は人参が苦手だ。だからこの家で食べるカレーの人参はよっちゃんイカみたいに薄くて小さい。粗くみじん切りされた玉ねぎ、アーモンドチョコレートくらいの大きさのじゃがいも、たっぷり入った豚こま。ルーはやっぱりバーモントカレー〈中辛〉。今日も食べ過ぎちゃうな。僕は沙耶とユウコさんが作る、ちょっと油っぽいこのカレーが大好きだ。
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