06 ユウコ/結子

「今日、ノボルと飲みに行ってくるね。朝まで帰らないかも」

沙耶がそう言った。小さな子が、大好物のチョコレートをもらったときみたいな顔をして言うから、なんだか照れて俯いてしまった。あんなに幸せそうな顔をさせられるなんて、ノボル君はずるい。

「わかったよ、楽しんできて」

ちょっと、...やっぱりすごく、寂しい。

「ありがとう」

沙耶が私の頰に優しく触れる。彼女の唇から漏れる熱い湿度を感じて、からだの芯が熱を帯びる。彼女も同じ気持ちなのだと、伝わってくる。それでも彼女は、そのまま出かけていってしまった。

ノボル君と出会ってから、沙耶は前より感情豊かに、素直になったように思う。彼の話をするとき、聞いているこっちまで幸福になるような、とても幸せそうな嬉しそうな顔をする。普段の生活も、なんだか楽しそうだから、私まで、この家の雰囲気まで、明るくなった。沙耶はたまにノボル君をふたりの家へ連れてくる。初めて彼がここへ来て、初めて彼に出会ったとき、わかった気がした。彼の纏う、空気が、色が、気配が、やわらかくて暖かくてやさしかった。私もノボル君のことが、例えば本当の弟であるみたいに、好きになった。

ノボル君が沙耶と出会ってくれて本当に良かったと思う。私もノボル君に出会えてよかった。でも、今日みたいな、こういうときは、やっぱり、寂しい。ラジオをかけて、B5サイズの白い四角形の中に、やわらかすぎるB4の鉛筆で線を描きはじめる。家の中に薄く満ちている冷たい気配に気づかないふりをする。追い出すことも、逃げ出すこともしない。


沙耶と出会ったのはJR新宿駅の東口の近く、たしか世界堂へ行く途中だった。 夕方、人の波ができていて、私はその流れを乱さないよう、なるべく人にぶつからないよう、必死に歩いていた。ずっと東京に住んでいるくせに、私は歩くのが下手だ。正面から、お喋りしながら歩いてくるスーツ姿の人たちを避けようとして、彼女にぶつかってしまった。

「わっ」

左腕にかけていた私の鞄が地面に落ちた。飛び出した携帯電話が、彼女が引いていたキャリーバッグに轢かれた。

「ごめんなさい!弁償します!」

青ざめた顔で、怪我をした小鳥でも見つけたみたいに私の携帯電話を両手ですくいあげる沙耶を見て、思わず吹き出してしまった。そのときの私たちは、周りを歩く人たちの波を大きく乱していたけれど、そんなこと全然気にならなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る