04 サヤ/沙耶

「今日、登と飲みに行ってくるね。朝まで帰らないかも」

お気に入りの黒いスニーカーをはきながら結子に声をかけると、彼女は一瞬悲しそうな 顔をした気がしたけど、こっちを向いた時は笑顔だった。

「わかったよ、楽しんできて」

「ありがとう」

結子の、あんこの入っていない水まんじゅうみたいに透きとおってつやつやしたほおに指と唇でふれた。ひんやりとして、それはほんとに水まんじゅうみたいで、今すぐ食べたくなるのをがまんして外に出る。登との約束に遅れてしまう。


「結子さんは沙耶みたいに家に恋人連れて来たりしないの?」

登にいきなり聞かれたことがあった。

どきりとした。登を、失いたくない。なるべくなんでもない風を装って返事をした。きっと登にはその方が自然に伝わるだろう。彼が眼鏡の奥の細くて小さい目を可能な限り丸くしていた。

「よく聞こえなかった」

と言われた。聞こえなかったんじゃなくて、意味がわからないという顔だった。

「言うの忘れてたかな?結子はあたしの恋人だよ。付き合い始めてから、結子の家に一緒に住むようになったの」

わざとだまってたわけじゃない。って思ってもらうために、言ったつもりだったふりをする。声が震えないように、涙目にならないように、目の前にある食べ物のことを考える。

「え、僕は?」

「登がどうかした?」

ほんとはなにを気にしているのかわかってる。ごまかしてみる。

「僕たち付き合ってると思ってたんだけど」

わ。まさか登の口からそんな言葉が出てくると思ってなかった。大好きな登の声ではっきり言われると、照れる。顔が熱くなる。そうだよ、私たち、付き合ってるんだよ。喜んでる場合じゃないけど、うれしい。

「うん、私もそう思ってるよ」

さっき運ばれてきたとん平焼きを口いっぱいに頬張って、赤くなった顔をごまかしつつ、登の頭の中で私の言葉が落ち着くまでの時間を稼ぐ。とろとろの卵が熱い。が、なかなかおいしい。

「僕って、君のこと何にも知らないみたい。いろいろ聞いてもいいかな」

穏やかで優しい登の声に頭の中がとろとろに溶ろけそう。登にならなんでも話したい。

「いいよ」

ちょっと、口に入れすぎた。



待ち合わせ場所に着くと、登は先に着いて小説を読んでいた。しばらく前からそこにいたのだろう、彼の気配が風景に溶けこんでいる。まだ待ち合わせ7分前。いったい何分早く来たら登を待たせずに済むのだろう。以前寝坊してものすごく遅刻してしまったとき、『僕は本を読んでるから何時間でも待てるよ。でも心配になるからたくさん遅れる時は連絡してね』と少し困ったような顔で、でも、とても優しく言ってくれた。そのとき私は急ぐあまり、連絡をしそびれ、そのうえ家に携帯電話を忘れた。登となら、そんなことも、子猫とじゃれるみたいに愛おしい、とっておきの笑い話になる。

「おまたせ」

本の下から顔を覗き込むと、登は驚いて寄りかかっていた壁に頭をぶつけた。

「いてっ。あれ、もう時間?」

「少し早く着いた。登はいつからいたの?」

「今来たとこ」

声をかけるまで気づかないくらい本に集中してたのに、そんなことを言う。登の時間の流れは、ちょっとおかしいらしい。それとも私への優しさなのかな。

「行こうか」

登の柔らかい合図で、近所の駅前をふたり並んで歩き出す。安くておいしい居酒屋へ向かう。ふたりともあまりお酒を飲まないのに、お金に余裕があるわけでもないのに、知らない人たちのガヤガヤに包まれた、ふたりだけの狭い空間が妙に落ち着いて、自分じゃ作れないような、たくさんの料理の名前や写真を見るのが楽しくて、誰か知らない人が作ったおいしいものが食べたくて、誰でも知っているあの店へ行ってしまう。歩いているとき、目の前を私の好きな車が通った。白いくるま。名前は知らないけど、かわいくて好き。どこか登と似ている気がする。登がとなりにいると、安心して歩ける。お気に入りのリュックみたいに、ずっとそばにいてくれないかな。そっと横顔を盗み見ると、ばれて目が合う。不思議そうに私を見つめる顔が、微笑みに変わる。つられて笑顔になる。

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