02 ノボル/登

僕の恋人には彼女がいる。というか、同棲している。はじめは仲のいいルームメイトかと思っていた。

「一緒に住んでる人、何ていうの?」

「ユウコのこと?」

「ユウコさん?は沙耶みたいに家に恋人とか連れて来たりしないの?」

どんな経緯でその話になったかはよく覚えていない。付き合いだして間も無いのに、僕だけちょこちょこ家にあがっているとしたら申し訳ないと思ったとか、そんな仕様のないことだった気もする。もしかしたら、どこにでもある居酒屋のチェーン店の軽い雰囲気が、何でもいいから会話しておけと僕たちをけしかけたのかもしれない。

ユウコさんは僕たちより4コくらい年上で、白い肌、耳の下から滑らかな曲線を描く細い顎、切れ長の目に胸あたりまでのまっすぐな黒い髪がとてもしっくりときていて、落ち着いていて、シンプルな服装がよく似合っていて、世の中の男性が放っておくとは思えない女性。だと、僕は思う。

「そりゃあ連れて来ないよ」

少し不思議そうな顔をしたあと、沙耶は『あ、卵買い忘れてた。ま、いっか』と言うときみたいに言った。

「ユウコの恋人は私ひとりだもん」

意味がわからなかった。え?なんの話?僕たちの会話、噛み合ってる?

「ん?ごめんよく聞こえなかった」

もっとちゃんと説明して欲しくて、聞こえなかったふりをする。

「言うの忘れてたかな、ユウコはあたしの恋人だよ。付き合い始めてから、ユウコの家に 一緒に住むようになったの」

テーブルの上の刺身盛りについてきた、食べられそうもない魚の頭部の目を見つめなが ら沙耶が言う。君は誰に話してるんだ。それは僕じゃない。

「え…僕は?」

もしかして僕って、たいへんな勘違いしてた?不安のような、焦りのような、怒りでは なくて、白くてモヤモヤした感情に襲われる。胃のあたりが熱い。

「登がどうかした?」

まだ魚と見つめ合っている。つられて僕も魚の目を見つめる。

「僕たち付き合ってると思ってたんだけど」

言ってからものすごく恥ずかしくなる。

「うん、私もそう思ってるよ」

うん。え?僕の頭はますます混乱する。でも、落ち着いて考えれば、小学校低学年でもわかるような、簡単な話な気もする。二十年間生きてきた中で、太陽の光を浴びるみたいに無意識のうちに吸収してしまった、先入観とか常識みたいなものが、高性能すぎて扱いきれないコンピュータみたいに話を複雑にしているんだ。落ち着け僕。沙耶は僕が理解するのを待ってくれているのか、単にお腹が空いていたのか、いつの間にか頰が赤みを帯びるくらい食べ物を口の中にパンパンに詰め込んでいて、黙ってもぐもぐしている。ハムスターみたいで可愛い。

「僕って、君のこと何にも知らないみたい。いろいろ聞いてもいいかな」

ようやく魚じゃなくて僕の方をちらりと見た。ほおに詰まった食べ物(おそらくとん平焼き。気づかないうちにずいぶん減っていたから)がまだ咀嚼しきれていないようだ。いくらなんでも口に入れすぎだよ。

「いいよ」

手で口元を隠し、卵やら豚肉やらが口から出ないように、細心の注意を払いながら彼女は言った。


僕の頭にようやく沙耶の言葉が正しくおさまったとき、一番初めに思ったのは、『あんなに魅力的なユウコさんが男性に興味無いなんて、なんて勿体ないんだ』。そんなこと考えてしまって、自己嫌悪に陥る。僕がこんなこと考えてしまうなんて思ってもみなかった。



17時10分。待ち合わせ場所でiPhoneの画面を見ると、約束の時間の20分前だった。祖母譲りの心配性の所為か、いつも余裕を持ちすぎた行動をとってしまい、結果時間を余してしまう。喫茶店に入るほどは時間がないので(そもそも喫茶店に入ること自体あまり得意ではないので)、ここで本を読んで待つことにする。この世に本というものがあってよかった。〈小説を読む〉ことが僕の趣味でよかった。一冊読めば、その人が書く本が好きかそうでないか大抵わかる。今はいしいしんじさんの本を読んでいる。うまく説明はできないけど、好きだ。もうすぐ沙耶に会えると思うと、自然に顔がほころんでしまう。そわそわして落ち着かない。

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