8-2 お礼
◆
レッド・シリウスには食堂が三箇所あり、しかし全く何の垣根もなく利用者は様々だ。
その日のヨシノは第三食堂と呼ばれている、最も狭い食堂で食事をしていて、その理由はここで働いている料理人のデラートの顔を見に来たのだった。
彼は明日にも他の艦に移り、その艦は海王星方面へ向かう。
どう考えても、話をする機会は今しかなかった。
「マスター・ヤーが俺に挨拶をしにくるとはね」
厨房を他の者に任せ、デラートがやってくる。戦闘艦に乗っていた時とはまるで違う、真っ白は服を着ていて、肌ツヤもいいようだ。
「だいぶ評判がいいと聞いているよ、小僧。実はいっぱしの技術者だったんだな」
ヨシノの素性に関しては、オーシャンはほとんど他の者には話していないし、ヨシノとしても打ち明けられる相手は、いない。
オーシャンが一応の処置として、科学者としてスカウトした、とは言ってくれている。
「五連循環器がまともに動くのは奇跡だ、と言うものもいたな」
「あれは特に突飛な技術ではありませんよ。知識とコツさえあれば、ちゃんと動きます。デザインした人のその知能こそ、奇跡のようなものです」
「アルケミスト・アーは、俺たちにとっては神様さ」
それから食堂の隅のテーブルで向かい合って、とりとめもない話をした。
デラートはこれから始まる旅にそれほどの不安はないようだ。
「オーシャンが用意した、本当の箱舟があれば、俺たちはいずれ、目的地にたどり着く。そう信じているよ」
そんなことを言うデラートは、冗談を口にしているようではない。
「また会うこともないのかな、小僧とは」
「ええ、それは」
何度か考えていた答えを言うのにも、勇気が必要だった。
「僕はいずれ、帰らないといけませんから」
「地球か?」
「うーん」
答えに迷う自分が、滑稽に思えて、堪えきれずに笑ってしまった。
「一緒にいた人が、これでも大勢いるのです」
そう答えるヨシノに、珍しくデラートは微笑んでいた。
「幸せそうな奴を見ると、幸せになるもんだな」
「え? 僕、どんな顔していましたか?」
余計なことを聞くな、と言って、それからぽいっとヨシノの前に放られたのは、食事券の束だった。まだ五枚はありそうだ。
「餞別にそれをくれてやるよ。俺はこれでも、料理の間に味見をするからな。食事券は使い道がないんだ」
断ることもできたが、ヨシノは礼を言ってそれを受け取った。
代わりに何か、と思ったが、今は私物がほとんどない。部屋に戻っても、何もないようなものだ。
「お礼ができなくてすみません」
「幸せを見せてくれたことを、礼だと思っておく。俺たちはどこか、薄暗いからな。誰も幸せなんて感じていない。これから来る幸せが見せる、かすかな光に、目を細めているだけさ」
席を立ったデラートは、またな、と手を振って厨房へ入っていった。
若い料理人が入れ違いに出てきて、デラートとすれ違う時、何か話している。料理人の手には何かのパイのようなものがあった。手の込んでいる料理は、たまに食事券二枚と交換になったりする。
料理人がこちらにやってきて、小さなパイをそっとテーブルに置き、少しぎこちない笑みで「あなたがマスター・ヤー?」と聞いてきた。
しかし、ヨシノの知らない料理人だ。記憶を検索しても、見つからない。初対面のはずだけれど……。
「僕がそう呼ばれていますけど」
用心してそう答えると、料理人のナイフとフォークを置く手がブルブルと震えだした。
「大丈夫ですか?」
「え、あ、ああ、まあ」
まだ手が震えている。その料理人が少し屈むと、ヨシノに耳打ちするように言った。
「あんたが本当に、ヨシノ・カミハラ大佐か?」
これには危うく、ヨシノは悲鳴をあげそうになった。
じっと料理人の顔を見ると、緊張しているが、真面目で、そしてどこか安堵しているようだ。
「俺は、サンダ・ユニックというものだ。何も聞いていないのか?」
もう一度、男の風態を確認する。
デラートが着ているような白い服で、体格は細身、頬が少しこけている。髪の毛は短くしている。年齢は、三十代後半、多く見積もっても四十だろう。
しかし、何も聞いていない、というのはなんだろう?
「一時間で仕事が終わる。俺の部屋に来てくれ」
そう言うなり、サンダはヨシノの手を掴み、その掌に素早く取り出したペンで数列を書いた。
「いいな、来てくれよ、頼む」
そう念を押して、サンダは離れていった。
ヨシノは呆然としながら、自分の掌を見て、念のためにそれを記憶すると両手を擦り合わせて文字を消した。
料理のパイはミートパイのようなもので、美味そうだけれど、食欲がうまく機能しなかった。
いったい彼は何者だ?
それでもナイフとフォークでパイを切り分けて食べきって、食堂を出た。
何かをしていた方がいいだろうと、整備部門の詰所へ行き、力場発生装置の状態を確認しているうちに、約束の時間になった。
通路を足早に進み、エレベータを使ったりしながら居住エリアにたどり着いた。
教えられた部屋番号は、二人部屋だった。
チャイムを押すと、扉が開き、見知らぬ男がいるのが真っ先に目に入った。年齢は三十代前半。
「サンダ・ユニックさんはいますか?」
入れ、と男に促されて中に入ると、サンダが寝台の一つに寝ていたらしく、起き出して寝台の端に腰掛けた。
ヨシノはゆっくりと彼の前へ進み出た。
その時には扉を開けてくれた男がいつの間にか移動しており、素早くヨシノの腕を掴んだかと思うと、背後に回してそれを容赦なく極めた。
声をあげつつ、背中を押されて、ヨシノは部屋の真ん中に押し出される形になる。
サンダがギラついた目をこちらに向けている。
「管理艦隊は、俺たちを放っておいて何をしているんだ、大佐?」
サンダの言葉に、ヨシノの中で何かががっちりとかみ合った。
(続く)
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