第7部 エピローグ
一つの景色
◆
私が地球で最も印象深い光景は、湖のそれだが、どれだけ思い返しても、特別な光景ではない。どこにでもありそうな、なんの変哲もない湖の光景である。
その湖を前にして、私はボートに乗っていたり、湖畔からその水面や遠くに見える対岸を眺めていたりする。折に触れて、そういう空想をするのだけれど、いやにリアルで、まるで現実として、目の前にあるかのように思い出せる。
宇宙に長い時間、いすぎたことで何かしらの障害が出る、という話は枚挙に暇がないが、これもある種のそういう障害だろうか。
あの宇宙には、水面などはない。あるのは虚空だけだ。対岸だってない。果てしなく、どこまでも続いている。休みなく準光速航行を使い続けても、おそらく到達できないほど、宇宙の果ては永遠の先にあり、つまり宇宙はただ広い。広すぎるほどに。
私たちはどこへでも行ける時代に生きているが、それはただの比較、ただの相対的な認識にすぎないのかもしれないと、私はよく思う。
二百年前、人類は木星に到達する技術をかろうじて持っていた。
百年前、人類は宇宙の一角、その中の太陽系の片隅と言って良い一角をその版図とした。
百年や二百年、三百年前と比べれば、今はどこへでも行けるのと同義の世の中だが、しかし実際に、どこまでいけるのか。
たとえばあなたの前に、料理が運ばれてくる。そう、仮にハンバーガーとしよう。
あなたがもし、昨日、クラシックなコース料理を食べた後なら、そのハンバーガーはあるいは貧相な食事かもしれない。
あなたがもし、昨日、一食も食事にありつけずに空腹の極みだったら、そのハンバーガーは極上だろう。
そこまで極端じゃなくてもいい。前日にコーラとポテトとナゲットのついたハンバーガーセットを食べていれば、ただポツンとハンバーガー一つを前にすれば、どこか物足りないのではないか。
私たちは豊かになった。万能にもなった。
でもそれはもしかしたら、ちょっとした勘違い、幻なのではないか。
私たちの豊かさは、本当の豊かさか。万能の科学に及ばぬ領域は、まだあるのではないか。
人間は神になれない、などということはわかりきっている。
どれだけ医療技術、生体工学が発展しても、我々は二百年は生きられない。
何事にも限界はある。
ただし、それに挑むものがいるのも、また事実だ。
私は挑戦者、冒険者と呼んでも差し支えない彼らに比較的、物理的に近い位置にいたが、その思想には染まらなかった。それは近いとしても、真空の宇宙空間と厚い船殻によって隔てられていたから、というだけではなく、私には一人の指標となる人物がすぐそこにあったからだと思っている。眩く、誰もを導く灯台のような人物。私が特別なのでも、恵まれたのでもなく、そんな存在が、あの永遠への巡礼者たちにもまたいたのだろうと今は確信を持って言える。
見果てぬ聖地、安息の地、現代の新天地を求めて、限界を打破して、未踏の地のそのさらに先を目指すものたちは今、どこにいるのだろう。それもまた、私が考えることの一つである。
あの宇宙の果てですれ違った彼らは、今もどこかで、宇宙の果てを目指しているのか。
どうして私が彼らの思想に染まらなかったのかは、先に書いたが、別の可能性を思いついた。私が彼らを本当には理解していないのかもしれないし、もっと根本的な保守的な発想や、保身、臆病から来るのかもしれない、とも言えるのだ。それはつまり、私には挑戦者の素質、冒険者の素質、巡礼者の資質がない、ということだ。
私はまったく、凡庸な人間であることは、多くの人が分かっていることだろう。
ただ私はあの湖をこの目の前に置いた時、本当の意味で安堵したのを今も忘れられない。
あの湖のような力を持つものを、私は宇宙にはついぞ、見つけられなかったのだ。
私には少なくとも、宇宙の闇よりも、この取り立てて言うことのない、大地の上の自然こそが、本来的な生きる場所に思えた。
いや、断言しよう。
生きる場所だ。
人は皆、生きる場所を決めるべきだ。
それが物事の本質とその価値を定義する、最初の一歩になると、そう私は信じる。
(レオ・カエサル著「この世界はいかに尊いか」より抜粋)
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