二章 仮初めの契り

 鈴子が契約けつこんりようしようした翌日の夜から、中将がやって来るようになった。

 結婚の形態にも色々あるが、上流貴族同士のこんいんならば様々な手続きをみ、おんみようきつちよううらなってもらった上で、はな婿むこはなよめの家をおとずれる日取りを決めるそうだ。

 三日間連続で花嫁の家を訪問し、三日目には盛大なところあらわしり行う。しゆこうの準備やお供へのろく、中将の衣服の準備など、花嫁の実家側の負担はかなりのものになる。

 だが中将はしようごん家の財政じようきようこうりよしてくれたようで、「気持ちだけで十分だ」と言ってくれた。それでいて三日通いは行ってくれるという。

「左大臣家に決定権のある契約結婚なのだから、わざわざていねいに結婚の手順を踏んでくださらなくてもいいのにね……」

「何を言ってるんですか。これも全部、中将殿のおやさしさですよー。ひめ様をさらっと回収するだけでもいいのに結婚の手順を踏んでくれるということは、姫様とちゃんと『結婚』したいと思ってくださってるってことですしー」

 明かりの下で中将からのふみを読む鈴子がつぶやくと、きりがっ込んだ。

 初夏の花がえられたこの文は、今朝早くに届いた。今夜からちゆうじようは三日間鈴子のもとに通い、二人は夫婦になるのだ。

(といっても、私たちが本当の意味で夫婦になることはないわ)

 白のうちきの上に、婚姻用に叔父が準備してくれたおう色のもんり小袿をまとう鈴子は、ていかんにも似たまなしでを見つめる。

(私がすべきことは決まっている。中将殿のご負担にならないよう、決められたとおりのことだけをすればいい)

 左大臣家の命令に従うかくはできている。叔父は今日一日悲しそうだったが、すべてが終わればきっと、「これでよかった」といつしよに笑い合うことができるはずだ。

 もうじき、中将がやってくる。すでに彼用のふすまも準備しているし、こういた。中将は今日一日だいで勤務した後に来るのだから、ぐっすりてもらえるはずだ。

(あと、私のすることといったら……あ、そうだ)

「きり、中将殿がいらっしゃるまでまだ時間はありそう?」

「半刻くらいならゆうがあるかと。どうかされましたかー?」

「ええ。すみを、持ってきてくれる?」




 ぎしり、とゆかいたきしみ、中将の来訪を告げる。

 さくは御簾越しにりんかくが見えるだけだった男が、一言断ってからに入ってきたため、鈴子は居住まいを正して深くぬかずいた。

「ようこそいらっしゃいました。殿とののおしを、お待ちしておりました」

「待たせた。……その、ずいぶん変わったにおいの香だな」

「あ、いえ、これは香ではなくて、墨をっていたもので」

「……そうか。ああ、顔を上げてくれ。あなたの顔が見たい」

「かしこまりました」

 中将に命じられた鈴子は顔を上げ──数はくの後、小さく息をんだ。

 灯台の明かりに横顔を照らされた男が、鈴子の正面に座っている。ふたあい直衣のうしは彼の階級を示しており、がっしりとしたたいを引きめているようだ。

 めぐまれた体軀を持っているのはもちろん、あぐらをかいたひざの上に置かれたこぶしも、くすだまのように大きい。戦いに慣れた若い男だとしても、彼は平均よりもかなり長身で体格にもすぐれている部類に入るだろう。

 だが鈴子を驚かせたのは、中将のようぼうである。きりりとした眼差しに、固く引き結ばれたくちびる。男らしさにあふれているがばんふんはないその容姿は、「しい」という表現がぴったりだった。

 そんな中将の顔には、見覚えがある。確か、二年ほど前。いつものようにすのえんに座ってこといていた鈴子だが、めずらしくもそばまで来て琴をいていってくれた男がいたのだ。

(そうだわ、中将殿のお声に聞き覚えがあると思っていた。もしかして、以前立ち寄ってくださった貴公子なのかも……)

 確かあのとき彼は、「自分はめんどうな事情持ちだ」と言っていて、鈴子は琴を弾きながら彼の話を聞いた。琴を弾いただけでなくなぜか人生相談にも乗ったので、印象に残っていたのだ。

(中将殿は、覚えてらっしゃるかしら……)

 ごくっとつばを飲み、鈴子はおそるおそる口を開く。

「あの、差し出がましいとは思いますが……一つ、おうかがいしてもよろしいでしょうか」

「ああ、もちろん。一つと言わず、奮発して五つくらい聞いてくれ」

「あ、いえ、今は一つで十分です。中将殿は二年前の秋ぐらいに我が家にいらっしゃったことはございませんか」

 ひとちがいではないはずだと思いつつ聞くと、中将は目を丸くした。

「ああ、なんだ。あなたも覚えていてくれたのか」

「あら……ということは?」

「そのとおり、俺は二年前の秋に初めてここに立ち寄った。そのときにあなたの琴の音を聴いたから、俺は父上が碧子のにようぼう選びになやんでいる際、あなたの名前を出したんだ」

 実章の説明に、そういうことだったのかと鈴子もなつとくがいった。先日は、左大臣が結婚を取り決めたというようなことを言っていたが、実章も父の決定に口を添えていたようだ。

(だから、はしっこ貴族の私が選ばれたのね……)

 鈴子はうなずき、もう一度ひれした。

「あなたと出会えた幸運に、喜びを感じております。……中将殿どの。短い間ではありますが、どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくたのむ。俺たちの方から無理を言ったけいやくけつこんなのだから、あなたが心地ここちよく過ごせるよう俺もじんりよくする。何でも言ってくれ」

「ありがとう存じます。……ではですね、さつそく一つお願いしたいことが」

「もちろんだ」

 中将がかいだくしてくれたので鈴子はほっとして、かたわらにひかえていたきりに指示を出した。

 きりが持ってきてくれたのは、文台だ。その上には料紙とすずり箱がっていて、墨は既に磨られている。

 中将は硯箱を見、首をかしげた。

「本当に墨を磨っていたのだな。何か書くのか?」

「はい。中将殿とけいやく結婚を始めるにあたりまして、決まりごとを定めたいのです」

 鈴子は言いながら、料紙を広げた。安いものでいいと叔父おじには言ったのだが、事情を説明するといたく感心され、そこそこ値の張るきれいなものを用意してくれた。これ一枚しかないので、失敗しないようにしなければならない。

 三日の通いを終えると、鈴子は中将のしきに移り、彼の妹のじゆだいと同時にだいへ行く。期間限定の妻ではあるが、契約を無事に果たせるよう、中将と相談して「結婚生活での決まりごと」をかくにんし合いたいと思ったのだ。

 最初は不思議そうに料紙をながめていた中将だが、話を聞くと「なるほど」と頷いた。

「確かに、後になってもめるよりは先にあなたと相談しておいた方がよいだろう」

「ですよね? それじゃあ寝る前ですが、さくっと決めてしまいましょうか。たとえば……『相手のことはれんあい対象ではなく、契約者としてあつかうべし』とか」

 言いながら鈴子は、我ながら的確な提案ができたものだと満足していた。

(契約のさまたげになるようなことをしてはならないのは、当然よね。それに、中将殿だって好きでもない女にべたべたされたって困るだろうし──あら?)

 中将を見上げた鈴子は、彼がみようこわい顔をしていることに気づいた。表情筋の活動が控えめな人だな、とは思っていたが、こんなに険しい顔をされるとは思っておらず、鈴子の前歯がかちっと音を立ててふるえた。

 その音で我に返ったのか、うでを組んでいたちゆうじようはまばたきし、「ああ、いや」と言葉をにごした。

「そのような提案をされるとは思っていなかったので、少しおどろいた」

「お、おいかりになったわけではないのですね?」

「俺があなたに対しておこる理由などないだろう。顔が怖い、とは妹にもよく言われるのだが、考えごとをしていたらこういう顔になるんだ。怖がらせたのなら、すまない。さっきの案も……まあ、要検討だな」

 妙に歯切れは悪いが、ひとまず鈴子の不用意な発言でげんそこねたわけではなさそうだ。

「そ、それならいいのですが……あ、それじゃあ何か思いつかれましたら、中将殿もお書きになってください」

「それは……いや、字はあなたが書いてくれ」

 筆をわたそうとしたら、しぶい顔で断られた。もしかすると、筆によごれでも付いていたのだろうかと、鈴子は渡そうとした筆をひっくり返して見る。

「申し訳ありません。別の筆を持ってこさせますね」

「いや、そうではなくて……俺は、あまり筆を持ちたくない」

 中将は腕を組んで、つと視線をらした。

「……すまない。俺は力が強いから、このようなせんさいな筆を持つといつしゆんで折ってしまうんだ」

「まあ……そういうことですか。あら? ではだんはどのように字を書かれるのです?」

「特注のごくぶとの筆を使っている。中にしんを入れて強度を高めている。それでないと、ちょっと力を入れただけで折れてしまう。この力も困ったものだ」

 自分の大きな手の平をにぎったり広げたりしながら中将が言う。筆を持つことをこばんだ理由が分かったため、鈴子はほっとして、いつの間にかかたに込めていた力をいた。

「そうなのですね。あ、でしたら、『困ったときには、相談する』というのはいかがですか?」

「ああ、それならいいな」

 そうして鈴子と実章は料紙の前に並んで座り、あれやこれや意見を出し合いながら決まりごとの案を固めていった。

 ──しばらくして。

「よし、できました!」

「見事な手だ。やはり、橘のひめに任せてよかった」

 鈴子が置いた筆をきりが回収し、背の高い中将が立ち上がって料紙をかかげた。


 こんいんの十じよう

一、契約結婚のことは、部外者に気づかれぬようにすべし

一、ごろより、なかむつまじいふうであるよううべし

一、れるときは、必ず相手のりようしようを得るべし

一、困ったことがあれば、必ず相手に相談すべし

一、うれしいときは「嬉しい」、いやなときは「嫌」とはっきり言うべし

一、左大臣には逆らうべからず(重要)

一、どれほどぼうでも、一日一度は会話をすべし

一、どれほど多忙でも、三日に一度はいつしよを食うべし

一、こわれやすいものを近くに置くべからず

一、相手のことを、恋愛対象として見るべからず


 誤字がないのを確認し、料紙をかべけてもらった。これは中将の屋敷に移る際にも持っていき、自分たちをいましめるために日頃から読み上げるようにするつもりだ。

「では、これは明後日あさつての夜までは橘の姫の部屋にかざればいいだろうか」

「ええ、そうするつもりです。……あの、殿との。少しよろしいでしょうか」

「少しと言わず、いくらでも付き合う」

 料紙を掛けた中将がきりっとして言ったので、彼をしとねに座らせた鈴子は、少し気持ちを改めて口を開く。

「その、殿が私を呼んでくださる名なのですが……橘の姫、とおっしゃいますね」

「ああ、橘家のひめぎみだからな。……もしかして、嫌だったか?」

「嫌ではありません。ただ、殿には私の名を呼んでいただきたくて」

 おずおずと申し出ると、中将はほおを打たれたかのように目を丸くした。どちらかというと目が細めなのでつうにしていてもにらんでいるような目つきになってしまう彼だが、今は不意打ちを受けて驚いているらしくきょとんとしていた。

「……それは、なぜ?」

「そちらの方が仲がよさそうな印象がありまして。私の父も、ていでは母のことを名で呼んでいたのですよ」

「…………そういうことなら、りようかいした。……では、鈴子。俺からも頼みがある」

「はい、なんなりと」

 鈴子、と本名で呼んでくれたことにこそばゆさを感じつつ鈴子がていねいに応じると、中将はいつたん言葉を切ってそっぽを向き、こほんとせきをしてから向き直った。

「俺があなたのことを鈴子と呼ぶように、あなたにも俺のことを名で呼んでもらいたい」

「……し、しかし、それは無礼にあたらないでしょうか?」

 申し出を嬉しく思いつつ、鈴子は念を押した。

 夫が妻を呼び捨てにするのと妻が夫を呼び捨てにするのでは、話がちがう。鈴子が中将を名で呼べば、「あの女は夫を立てることも知らない無礼者」と周りからべつの目で見られるかもしれない。

 だが中将は鈴子のてきかすかに首を傾げたのみだ。

「別に、よその者がいない場所でなら構わないだろう? 俺たちにも面子メンツがあるから、おおやけの場では難しいだろう。だから、今みたいに二人きりのときくらいなら、俺のことを実章と呼んでくれないか」

 中将に真っぐな目で見つめられ、鈴子はきゅうっと胸の奥がめ付けられるような感覚を覚えた。

 二人きりのときだけ、中将のことを名で呼ぶ。呼ぶことが許される。

 本当は今もちようの向こうにきりがいるのだが、いつもなら茶々を入れる彼女もしんと静かにしている。要するに、しんらいできる者しかいない場であれば、おたがいを名で呼び合うようにするというのだ。

 中将のことを、名で呼ぶ。それは彼が、けいやくけつこんで結ばれたかりめの妻ではなく、一人の対等な関係の人間として鈴子と接してくれているというあかしではないだろうか。

 鈴子は顔を上げ、ふわっと微笑ほほえんだ。

「……はい。実章様、どうかよろしくお願いします」

「……ああ、こちらこそ。よろしくな、鈴子」

 やわらかい声と共にきりりとしたぼうくずれ、目を細めた実章は柔らかい微笑みを返してくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

平安仮そめ恋契り 鬼の中将と琴音の姫 藤咲実佳/角川ビーンズ文庫 @beans

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ